影の消えた夏

柴野日向

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5章 神志名

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 経緯は知れないが、凪は何もかもを知っていた。ケガレを生んだ神志名という名も、その末裔が逢坂陽向であることも、母の雪が家から逃げるためにある男と一度結婚していたことも。
 間違いなく、彼が自分を島に誘ったのは、ケガレに捧げるためだった。彼の思惑通り、陽向は一度ケガレに襲われた。地震で山の小屋が倒壊していないか見に行ってほしいと言ったのは、山に潜むケガレに喰わせるためだったのだ。見送る凪の口元が動いたのを見たが、あれは「ごめんな」と言っていたのだ。だが、母の持たせてくれたお守りのおかげで、命を落とさずに済んだ。変化のないことを訝しんだ島民に、気を失っているところを発見されたのだ。
 だが、壬春の調べた結果では、ケガレはターゲットが成人した後に襲う。自分は今年でまだ十六だ。神志名の末裔だからといって、襲われる年齢ではない。彼らはそれを知らなかったのだろうか。あの時ケガレに襲われたのは偶然だったのか。それとも自ら近づけば、二十歳を迎えていなくとも、神志名の者は捕食されるのだろうか。
 少なくとも分かるのは、凪たちは一度、自分をケガレに捧げようとしたこと。その後は二度目を目論んでいたのかもしれない。
 そう思う傍らで、今日聞いたばかりの台詞を思い出す。
「覚えていてくれよ。俺たちは、陽向の無事を祈ってることを」
 改まった凪の言葉が、とても嘘だと信じ切れない。自分は甘ったれかもしれない。それでも、ひと月近く一緒に暮らしていた妖の言葉を疑えない。これまで騙されていたのに、彼らの根底が悪意に満たされているとは思えない。律の軽口や、昨晩抱きしめた小夜の温もり、その他たくさんのものが疑心を揺るがす。
 家に帰ると、既に母は帰宅していた。連絡は入れていたから、二人分の夕食を用意してくれていた。
「おかえり、陽向。また日焼けしたね」
 座卓にカレーライスを盛った皿を置く所作は、いつもと何ら変わりがない。
「帰るなら、もうちょっと早く言ってくれたら、もっと歓迎できたのに」
 部屋の手前で立ち尽くし、そう言って笑う母を、陽向はぼんやりと見つめていた。たまに少女じみた幼い仕草や言動を見せる母が、過去に命を懸ける決断を超えてきたという事実に、胸が震える。
「どうしたの、早く手洗っといで」
 頷いて洗面所で手を洗い、部屋に置いていたバッグから土産を抱えて居間に戻った。貰ったのだと言うと、母は大層喜んだ。
「陽向は人に好かれる子だね」
 彼女は土産があることより、それが嬉しいようだった。なんと返事したらいいか分からず、曖昧に頷き、食卓につく。懸命に会話をしていても、気を抜くと意識が別のところへ飛んだ。もちろん、昼間の逢坂の話だ。神志名のことや母の壮絶な過去が、頭の中をぐるぐる回り、ろくに返事ができない。
 早々と夕食を食べ終わり、食器をシンクに下げ、座卓に戻る。母はまだゆっくりとスプーンを口に運んでいる。その顔がこちらを向いた。
「陽向、早めにお風呂に入ったら? 疲れてるんでしょ」
「そんなことないけど……」
 返事をしながら腹を括った。母は手元のティッシュで口元を拭い、姿勢を正す。改まった空気を作ってくれるのに、少し感謝する。
「話したいことがあるんだけど、いい」
「いいよ。どんな話?」
 腹を括っても、声は震えた。
「今日、逢坂って人に会った」
 母の微笑みが強張るのが確かに見えた。心が萎えてしまわないうちに、畳みかける。
「そこで、色々話を聞いた。神志名っていう苗字も、母さんがあの人と一度籍を入れたことも、どうやって俺を葛西から守ったかも」
 ここまで言って、申し訳なさが込み上げる。母がこれまで必死に隠してきたことを、ごくあっさりと知ってしまった。家族への裏切り行為に思え、身を縮めてしまう。
「ある人から、逢坂って人について聞いて、今日会って来た。……ごめん、勝手なことして」
「ある人って、誰?」
「俺にも、なんでその人がこんなことを知ってるのかわからない」
 無理に話をはぐらかす。凪や妖について語るのは、やめた方がいい気がした。気になる様子だったが、今の問題はそこではないと悟った母は、それ以上追求しなかった。
「……逢坂さんは、元気だった?」
「うん。仕事の途中だった」
「そう……それならよかった」
 懸命に笑おうとする母の顔が、却って悲しげに歪む。とても見ているのが辛くなり、陽向は視線を伏せる。母にそんな顔をさせてしまうのが、申し訳なくてたまらない。
「ごめんね、陽向」
 だが、陽向が謝る前に母はそう言った。
「あなたは、何も知らない方が幸せに生きられると思ったの。辛いことをわざわざ聞かせない方が、陽向のためだって。だけど、それは私が陽向に向き合うのを怖がってただけなんだよね」
「謝らなくていいよ。むしろ、嬉しかった。俺は必要とされてるってわかったから」
 母の顔が今度こそ明らかに歪んだ。「何言ってるの」たちまち目に涙が浮かび、彼女はそばに寄って両手を伸ばした。
 母に抱きしめられることなど、随分久々だった。陽向は温かな腕の中で思う。
「私は、誰よりも陽向が大事だよ。この世の誰より愛してる」
 ずっと聞きたかった言葉だった。陽向の視界も歪む。だが抱きしめられたままでは、涙を拭うことさえできない。
「寂しい思いさせてきたね。いつも我慢ばっかりさせてたね。ひどいことをして、本当にごめんなさい。だけど忘れないで、陽向は私の一番だから」
 細い肩に瞑った目を押し当て、陽向は流れる涙を誤魔化した。謝り続ける母を疑っていた自分は、本当に馬鹿だった。愚かだった。寂しいなら寂しいと、悲しいなら悲しいと、もっと前から言葉にして伝えるべきだったのだ。
 母が顔を上げたので、陽向も顔を上げる。泣き腫らした顔で笑いかけてくるのに、思わず顔が綻ぶ。ありがとう。自然とその言葉が口から零れていた。細い指先が目元を拭い、頬を撫でてくれる。「私の元に産まれてくれて、ありがとう」母も微笑み、そう言った。
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