16 / 51
2章 妖
7
しおりを挟む
二日が経ったが、あれ以降、地震は一度も起きていない。ケガレの名を称する妖怪とも遭遇していない。
これまでと同じように、庭の野菜を育て、店の手伝いをした。住民の話し相手になり、ちょっとした頼まれごとを引き受ける。凪たちには寝ているように勧められたが、じっとしている方が疲れを感じた。果てしない思考がぐるぐると巡り、却って疲弊してしまう。少しでも動いている方が気が紛れた。
それでも、ふとした拍子に考え込む。あのお守りがなければ、自分はどうなっていたのか。十中八九、ケガレとやらに喰い殺されていただろう。身震いすると同時に、あの時の感覚を思い出す。寂しい、悲しい、辛い、憎らしい。あらゆる悲壮な感情に包まれたのは、ケガレの影響だったのか。
思いがけず自身の死を目前にしたせいか、千宙のことが頻繁に頭をよぎる。彼女と付き合うようになってから、十日も顔を合わせないのは初めてだ。夏休みや冬休みでも、数日おきには会っていた。特に感動もなく他愛のない話をするだけだが、陽向にとって彼女との会話は、日常生活の一つとして立派に馴染んでいた。
千宙はどうだったのだろう。実は面倒だったり、鬱陶しく思っていたのだろうか。葛西祐司と居合わせた時に叩きつけられた言葉を思い出し、その可能性に至ってしまう。
砂浜に誰かが置いたベンチ代わりの木箱に座り、陽向は午後の海を眺めつつ思わずため息をついた。その背中をどんと強く叩かれ、「いた!」と声が漏れてしまう。
「すまんすまん、怪我しとるの忘れとったわ」
いつものガハハ笑いの白樫が立っていた。日に焼けた腕で釣り竿を担いでいる。彼は釣った魚を島民に売ったり配ったりするので重宝されていた。
「なーにをため息ついとるんだ。街の彼女のことでも考えとったんだろ」
図星をつかれ必死に何でもない顔をするが、上手くいかない。口をへの字に曲げる姿を見て、白樫が満足げに笑った。
「若いなあ。ため息なんかつきおって」
「ほっといてよ」
「悩める若者をほっとけるかい。どうだ陽向、気分転換に付き合わないか」
また酒でも勧められるのかと身構えたが、白樫は肩に担いだ竿を軽く振った。釣りに行こうというのだ。
「俺、釣りやったことないけど」
「そうかそうか、そんならはよこい」
面倒見の良い妖怪の誘いを無下に断るのもよろしくない。何が「そんなら」なのかさっぱり分からないが、白樫が歩き出したので、大人しくついて行くことにした。
海沿いの小さな小屋から、白樫は釣り竿をもう一本持ってきた。それを受け取り、共に堤防に向かう。椅子代わりに小さなクーラーボックスも受け取っていたので、それに軽く腰かけた。
「げ、なにこれ」
餌として差し出されたパックの中を見て、変な声が出る。
「エビ?」
「エビじゃない、オキアミだ」
しかしどう見ても小さなエビだ。指先程の小さなそれが、パックにぎっしりと詰まっている。気持ちが悪い。ぞわぞわと悪寒が一気に背筋を駆けあがった。
「おまえなあ、女の子じゃないんだぞ」
陽向の腕の鳥肌を見て、白樫がガハハと笑う。躊躇いながらも、陽向は指先でその一つを摘まんだ。見よう見まねで針にオキアミとやらをつける。
「うえ、生臭い」
「あたりめえよ。釣りは生臭いもんだ」
ついて来たことを少し後悔しつつ、陽向は海に竿を振った。
ぼんやりと浮きを見ながら、ぽつぽつと話をする。ときおり引きを感じて竿を上げるが、餌は見事に取られていた。がっかりし、臭いに辟易しながら餌をつけ直す。それでも幾度目かには、引き上げた糸の先で魚が暴れていた。
「ほんとに釣れた」
「釣りに来たんだからな。ほら、針外せ」
「これ、触るの?」
家でたまに魚を揚げることはあったが、生きている魚に触れたことは一度もない。堤防でびちびちと跳ねるイワシを、恐る恐る握りこむ。手の中で暴れるのを必死に抑え、四苦八苦しながら針を外した。クーラーボックスに放り込んだ頃には、一仕事終えた気分だった。
それでも二度三度と連なると、少しずつ慣れてきた。十匹も釣り上げた頃、ふいに「そろそろ帰るか」と白樫が言った。彼は陽向の三倍は釣っていた。
時刻は三時を過ぎた頃で、日差しが眩しく、肌がじりじりと陽に焼けていくのを感じる。疲れたのかと思ったが、白樫は「雨が降るぞ」と言った。
「雨?」空を見上げても、それらしい雲は見当たらない。青く晴れ渡り、空気はからっと乾いている。
しかし白樫はテキパキと後片付けを始めた。腑に落ちないまま、陽向も帰り支度を始める。
クーラーボックスを手にすると、ゴロゴロと遠くで雷の音がした。まさかと思って振り返ると、海の向こうに黒い雲が湧いている。唖然としつつ、急いで白樫に続いて堤防を進んだ。
最初に釣り竿を出した小屋に戻ると、すぐに雨が降り出した。それも大雨だ。大粒が地面を叩き、平屋の屋根をバシバシと殴っている。引き戸のすぐ向こうでは、地面があっという間に濡れ、激しい雷鳴がとどろいた。
さっきまでのカンカン照りが嘘のようなひどい夕立だ。雨粒に景色がかすみ、ざあざあと激しい雨音が鼓膜を震わせる。轟音が響き、稲光が瞬いた。
どうしてわかったの。そう聞こうとして、隣の白樫を見上げて気が付いた。彼は子どものように目を輝かせ、豪雨の景色を見つめていた。
そして唐突に、外に走り出した。
「危ない!」
陽向は叫ぶが、それが全く聞こえない風に彼は道を横切り、真っ直ぐに海へ続く堤防を走っていく。雨で足を滑らせれて海に落ちれば、取り返しのつかないことになる。
ひやひやしながら見つめる陽向に構わず、白樫は堤防の先で両手を広げた。豪快な笑い声が雨音の中から響いてくる。
あっと叫び声が出た。視界が真っ白になり、あまりに大きな音に皮膚がびりびりと痺れる感覚がある。足元が揺れ、轟音に耳の奥でキーンと耳鳴りがする。
それより、白樫は大丈夫か。どう見ても、雷は彼に落ちた。無事でいられるはずがない。
しかし、男の身体はそこに立っていた。ガハハと笑う声が耳鳴りを透過する。確かに雷に打たれたはずなのに、感電だの火傷だのどころか、仁王立ちして笑っている。
彼が雷獣という妖怪と混じっていると陽向が知ったのは、雨が止んでびしょ濡れの白樫が戻ってきてからだった。
これまでと同じように、庭の野菜を育て、店の手伝いをした。住民の話し相手になり、ちょっとした頼まれごとを引き受ける。凪たちには寝ているように勧められたが、じっとしている方が疲れを感じた。果てしない思考がぐるぐると巡り、却って疲弊してしまう。少しでも動いている方が気が紛れた。
それでも、ふとした拍子に考え込む。あのお守りがなければ、自分はどうなっていたのか。十中八九、ケガレとやらに喰い殺されていただろう。身震いすると同時に、あの時の感覚を思い出す。寂しい、悲しい、辛い、憎らしい。あらゆる悲壮な感情に包まれたのは、ケガレの影響だったのか。
思いがけず自身の死を目前にしたせいか、千宙のことが頻繁に頭をよぎる。彼女と付き合うようになってから、十日も顔を合わせないのは初めてだ。夏休みや冬休みでも、数日おきには会っていた。特に感動もなく他愛のない話をするだけだが、陽向にとって彼女との会話は、日常生活の一つとして立派に馴染んでいた。
千宙はどうだったのだろう。実は面倒だったり、鬱陶しく思っていたのだろうか。葛西祐司と居合わせた時に叩きつけられた言葉を思い出し、その可能性に至ってしまう。
砂浜に誰かが置いたベンチ代わりの木箱に座り、陽向は午後の海を眺めつつ思わずため息をついた。その背中をどんと強く叩かれ、「いた!」と声が漏れてしまう。
「すまんすまん、怪我しとるの忘れとったわ」
いつものガハハ笑いの白樫が立っていた。日に焼けた腕で釣り竿を担いでいる。彼は釣った魚を島民に売ったり配ったりするので重宝されていた。
「なーにをため息ついとるんだ。街の彼女のことでも考えとったんだろ」
図星をつかれ必死に何でもない顔をするが、上手くいかない。口をへの字に曲げる姿を見て、白樫が満足げに笑った。
「若いなあ。ため息なんかつきおって」
「ほっといてよ」
「悩める若者をほっとけるかい。どうだ陽向、気分転換に付き合わないか」
また酒でも勧められるのかと身構えたが、白樫は肩に担いだ竿を軽く振った。釣りに行こうというのだ。
「俺、釣りやったことないけど」
「そうかそうか、そんならはよこい」
面倒見の良い妖怪の誘いを無下に断るのもよろしくない。何が「そんなら」なのかさっぱり分からないが、白樫が歩き出したので、大人しくついて行くことにした。
海沿いの小さな小屋から、白樫は釣り竿をもう一本持ってきた。それを受け取り、共に堤防に向かう。椅子代わりに小さなクーラーボックスも受け取っていたので、それに軽く腰かけた。
「げ、なにこれ」
餌として差し出されたパックの中を見て、変な声が出る。
「エビ?」
「エビじゃない、オキアミだ」
しかしどう見ても小さなエビだ。指先程の小さなそれが、パックにぎっしりと詰まっている。気持ちが悪い。ぞわぞわと悪寒が一気に背筋を駆けあがった。
「おまえなあ、女の子じゃないんだぞ」
陽向の腕の鳥肌を見て、白樫がガハハと笑う。躊躇いながらも、陽向は指先でその一つを摘まんだ。見よう見まねで針にオキアミとやらをつける。
「うえ、生臭い」
「あたりめえよ。釣りは生臭いもんだ」
ついて来たことを少し後悔しつつ、陽向は海に竿を振った。
ぼんやりと浮きを見ながら、ぽつぽつと話をする。ときおり引きを感じて竿を上げるが、餌は見事に取られていた。がっかりし、臭いに辟易しながら餌をつけ直す。それでも幾度目かには、引き上げた糸の先で魚が暴れていた。
「ほんとに釣れた」
「釣りに来たんだからな。ほら、針外せ」
「これ、触るの?」
家でたまに魚を揚げることはあったが、生きている魚に触れたことは一度もない。堤防でびちびちと跳ねるイワシを、恐る恐る握りこむ。手の中で暴れるのを必死に抑え、四苦八苦しながら針を外した。クーラーボックスに放り込んだ頃には、一仕事終えた気分だった。
それでも二度三度と連なると、少しずつ慣れてきた。十匹も釣り上げた頃、ふいに「そろそろ帰るか」と白樫が言った。彼は陽向の三倍は釣っていた。
時刻は三時を過ぎた頃で、日差しが眩しく、肌がじりじりと陽に焼けていくのを感じる。疲れたのかと思ったが、白樫は「雨が降るぞ」と言った。
「雨?」空を見上げても、それらしい雲は見当たらない。青く晴れ渡り、空気はからっと乾いている。
しかし白樫はテキパキと後片付けを始めた。腑に落ちないまま、陽向も帰り支度を始める。
クーラーボックスを手にすると、ゴロゴロと遠くで雷の音がした。まさかと思って振り返ると、海の向こうに黒い雲が湧いている。唖然としつつ、急いで白樫に続いて堤防を進んだ。
最初に釣り竿を出した小屋に戻ると、すぐに雨が降り出した。それも大雨だ。大粒が地面を叩き、平屋の屋根をバシバシと殴っている。引き戸のすぐ向こうでは、地面があっという間に濡れ、激しい雷鳴がとどろいた。
さっきまでのカンカン照りが嘘のようなひどい夕立だ。雨粒に景色がかすみ、ざあざあと激しい雨音が鼓膜を震わせる。轟音が響き、稲光が瞬いた。
どうしてわかったの。そう聞こうとして、隣の白樫を見上げて気が付いた。彼は子どものように目を輝かせ、豪雨の景色を見つめていた。
そして唐突に、外に走り出した。
「危ない!」
陽向は叫ぶが、それが全く聞こえない風に彼は道を横切り、真っ直ぐに海へ続く堤防を走っていく。雨で足を滑らせれて海に落ちれば、取り返しのつかないことになる。
ひやひやしながら見つめる陽向に構わず、白樫は堤防の先で両手を広げた。豪快な笑い声が雨音の中から響いてくる。
あっと叫び声が出た。視界が真っ白になり、あまりに大きな音に皮膚がびりびりと痺れる感覚がある。足元が揺れ、轟音に耳の奥でキーンと耳鳴りがする。
それより、白樫は大丈夫か。どう見ても、雷は彼に落ちた。無事でいられるはずがない。
しかし、男の身体はそこに立っていた。ガハハと笑う声が耳鳴りを透過する。確かに雷に打たれたはずなのに、感電だの火傷だのどころか、仁王立ちして笑っている。
彼が雷獣という妖怪と混じっていると陽向が知ったのは、雨が止んでびしょ濡れの白樫が戻ってきてからだった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
あなたと私のウソ
コハラ
ライト文芸
予備校に通う高3の佐々木理桜(18)は担任の秋川(30)のお説教が嫌で、余命半年だとウソをつく。秋川は実は俺も余命半年だと打ち明ける。しかし、それは秋川のついたウソだと知り、理桜は秋川を困らせる為に余命半年のふりをする事になり……。
――――――
表紙イラストはミカスケ様のフリーイラストをお借りしました。
http://misoko.net/
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説
宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。
美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!!
【2022/6/11完結】
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる