影の消えた夏

柴野日向

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1章 暝島

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 駅舎の二階の喫茶店に入る。カウンターで商品を受け取ってから席に着くタイプの店で、青年は勝手にアイスティーを二つ頼んだ。奥の二人掛けの席に向かい合って座る。シロップとミルクを勧められたが、陽向はストローだけをグラスに突っ込んだ。七月の夕刻に、冷房が効きすぎている感もあったが、寒くはなかった。左手の大きな窓からは、帰路に着く人々の姿が見える。一口含んだアイスティーは不味かった。
「俺は、なぎっていうんだ」
 ミルクを入れたグラスをストローで混ぜながら青年が言い、陽向は伏せがちの目をようやく彼に向けた。二十歳過ぎの大学生風だ。白いシャツに黒のサマージャケットとジーンズがよく似合っている。派手さのない穏やかな顔立ちで、これはこれでモテるんだろうなと、陽向は場違いなことを思う。咄嗟に右目の上の白く小さな傷痕に触れてしまうのは、劣等感ではなくただの癖だ。
「……逢坂陽向」
「高校生?」
葵川あおいがわの一年」
 正式には葵川中央高校だが、凪は頷いた。
「さっきの彼も、同じ高校?」
 少し黙って、陽向はゆっくりとかぶりを振った。さっきの彼という言葉を耳にすると、奴の姿を思い出してしまい歯噛みする。あらゆる悔しさが再びやって来る。
「あいつは、月ノ原つきのはらの二年。葛西かさい祐司ゆうじってやつ」
「なるほど、違う高校なのか。部活の繋がりとか」
「そんなんじゃない」
 根掘り葉掘り聞くなという言葉は出なかった。むしろ、誰かに質問されるのを待っていたような気さえする。誰にも言えない、自分の中だけに溜め込んだ事柄を、他人に吐き出したい気持ちがある。この凪という青年は、その「他人」として理想的な存在に思えた。
「じゃあ、どういう繋がり? 殺そうとするなんて、よっぽどのことがあるんだろう」
「あいつは……」
 それでも吐き出せるのは、気持ちだけ。根っこの部分を余さず語り尽くす気にはなれない。
「俺の彼女を、横取りしようとしてるんだ」
 呆れられる用意は出来ている。それっぽちのことで、という返事は容易に想像ができる。だが、凪という青年は目を丸くしたものの、予想された台詞は口にしなかった。
 奴を突き落とそうとしたとき、肩越しに見えたスマートフォン。そのチャット画面には「望月もちづき千宙ちひろ」という恋人の名前があった。
「彼女とは、もう長いのかい」
「……付き合ってからは、一年ぐらい。中三の時から」
「大事な娘なんだ」
 そう言われて、自分の情けなさを痛感する。大事な彼女に近づかれただけで、相手の男を殺そうとするなんて、正気の沙汰じゃない。自分の嫉妬心が気持ち悪い。
「葛西くんって子とは話したの」
「……いや」
「殺そうとするぐらいだから、思い違いではなさそうだけど」
「千宙とあいつが並んで歩いてるのを、何度も見かけたんだ。駅に着く前も、二人が一緒に歩いてて……それを見たら、我慢できなくて」
 千宙と別れて機嫌よく改札を抜ける葛西祐司の横顔に、殺意が湧いた。お気に入りの女子と話せて心が躍っているのが、外側からも見て取れた。調子に乗っているこいつを、今すぐ殺さねばと思った。
 一口しか口をつけていないグラスを前に、陽向は項垂れて唇を噛む。あいつに何もできないのが、悔しくて堪らない。
「その彼女には聞いてみたのか」
「聞いてるけど……なんだかんだかわされて。バイト先の客だって、偶然学校が同じなだけだって、それしか言わない」
「一度彼女と、出来れば葛西くんともしっかり話をした方がいいよ。きみは彼氏なんだから、堂々としていたらいい」
 諭され、陽向は曖昧に頷いた。ことはそう簡単ではない。そう言いたいが、言うからには根っこから自分を語る必要がある。現金だが、そこまでの信頼は初対面の凪に抱けなかった。自分の勝手さに嫌気がさす。
 浮かない顔から何かを察したのか、彼はグラスの中身を減らすと微笑んだ。
「きみは、少し気分転換をした方がいい。物事が上手くいかない時っていうのは、どうしてもやってくる」
 月並みの励ましだ。そんなの分かってると心中で呟く陽向に、凪は続けた。
「もうすぐ夏休みだろう。よければ、俺のところでアルバイトしてみないか」
「バイト?」
 眉を顰める陽向に、彼は笑いながら首と手を横に振る。
「怪しいバイトじゃないし、難しいことじゃない。ただ、遠くにあるから泊まりになるんだ。喫茶店の手伝いとか、必要だったら近所の人の手伝いなんかをしてほしいんだけど」
「……ものすごく怪しい」
 予想だにしない展開に困惑しながら、陽向は手に取ったグラスのストローを咥えて舌を湿らせた。
「遠くって、一体どこ」
「島だよ」
「島?」
暝島かすかじまっていう島なんだ。港から船で一時間もかからない」
 確かに市内には港があり、陽向は乗ったことはないが船も出ている。しかし、暝島なんて聞いたことがない。第一、海を越える必要があるとは、ちょっと想像しなかった。
「そんな島、聞いたことないよ」
「小さな島だからね。島民も二十人程度しかいない」
「それなのに、バイトが必要なの」
「それだから、人手不足なんだ」
 そう言ってから、「ああ」と凪は思いついた顔をする。
「人手っていうのは、間違いだな」
 意味の解らない陽向に、彼は爽やかささえ感じさせる笑顔を見せた。
「そこに住むのは、俺も含めて人間じゃないんだ」
 ぽかんとした後、陽向はこの男に自分の気持ちを語ったことを痛烈に後悔した。常識人に見えたのに、自分は人間でないなどと言う、頭のおかしなやつだった。これからバイトという名目で宗教にでも勧誘されるのか、はたまたネズミ講のお誘いを受けるのか。優しさを感じ、つい弱気になって愚痴を漏らしてしまったことが悔やまれる。
「そんな顔するなよ」
「帰る。お茶ありがとう」
「ちょっと待てって、せっかちだな」凪は口をへの字に曲げる陽向に苦笑する。「俺がどうしてきみを止められたのか、わかるかい」
「どうしてって、あいつを突き落とそうとするのを見てたからだろ」
「きみが相手の背中に手をかざしていた時間は数秒だ。すぐそばにいたとしても、その動作の意味を察するには短すぎる」
 そう言われ、奴の背に手を向けていた瞬間のことを思い出すが、陽向にはそれが何秒に至る時間だったのかわからなかった。一秒にも思えるし、数分にも思える。だが、電車の接近が確認出来てから構えたのは間違いない。それなら、経過したのはほんの数秒だ。近くでその姿を目撃したとしても、咄嗟に腕を掴んで止めるには短すぎる気もする。
「じゃあ、なんでわかったんだ」
「きみの殺意が見えていたからだよ」
 凪は自分の目元を指先で軽くつついた。
「俺は、他人の強い感情を目で見ることができる。色のついた靄、とでも言ったら通じるかな。殺意は黒に近い赤色だ。それがきみの全身、特に両手からこれでもかと湧いていたんだ」
 思わず、陽向は自分の両手に目を落とす。当然、何の変哲もないいつもの手のひらだ。
「これはまずいと思って後ろから見ていたんだが、予想通り電車が来る頃、きみはその両手で目の前の背中を突き落とそうとした。だから俺はその手を掴んで、未来を変えたんだ」
 未来を変える。やや大袈裟にも聞こえる台詞を吐くのに、陽向はうさん臭さと困惑を覚える。だが、彼の説明はもっともなようにも聞こえる。自分の行動を予測していたから、凪はそれを防げたのだ。
「暝島には、俺みたいな人と妖怪が混ざったあやかしたちが集まって住んでいる。けど、人に危害を加えることはないし、きっと若いバイトを歓迎してくれる」
「そんなこと言って、取って喰う気だろ」
「もし俺らが人間を食べるとすれば、通りかかった船でも襲うだろうね」
 近海で船が行方不明になったという話は、少なくとも陽向は聞いたことがなかった。
「俺はあくまで、バイト候補を探しに来たんだ」
 そう言って、凪はテーブルの隅に置かれたスタンドから、店のアンケート用紙を一枚取り出した。同じく備え付けのボールペンをノックし、紙の裏面にメモを書く。

 七月十八日午後五時 葵川駅正面口

「便利なケータイやスマホなんかは持ってないから、もしバイトを受けてくれるなら、ここで返事をしてほしい。もし三十分経ってもきみが来なかったら、諦めるよ」
 彼はアンケート用紙をテーブルに置き、陽向の方に軽く押す。今日が十二日だから、六日後の日付だ。
「やらないよ、そんな怪しいバイト」
「まあまあ。受け取るだけ受け取ってよ」
 何はともあれ、彼は恩人に違いない。犯罪者となる未来から救ってくれたのだ。渋々、陽向は用紙を手に取り、二つに折って鞄のポケットにしまった。凪が立ち上がったので、釣られて腰を上げる。ふと目をやった窓の外は、すっかり夜の帳を下ろしていた。
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