影の消えた夏

柴野日向

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1章 暝島

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 ――殺すしかない。

 目の前に立つ背中に、逢坂おうさか陽向ひなたは強く殺意を固めた。列の先頭にいる相手は、あと三歩も前進すれば線路に落ちる。電車が到着するタイミングを測って突き落とせば、高確率で死に至る。上手く意識を失えば、痛みを感じる間もないだろう。それが俺の最大の温情だ。
 右手のスマートフォンに視線を落としている相手は、真後ろの殺意に微塵も気づく様子はない。

 こいつは殺す。絶対に殺す。確実に殺す。

 油断すれば口から漏れそうになる感情を、食いしばる歯で噛み締める。頭の中で緊張が膨れ上がり、指先が意図せず細かく震える。感情と共に噛み砕く理性が、やめておけと警鐘を鳴らすのが聞こえる。馬鹿な真似はやめろ、早まるな、と。
 だが、理性が殺意を上回る前に、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。二番ホームに、電車が参ります……。機械的な音声は、理性の主張を打ち砕いた。

 今しかない。こいつだけは、殺してみせる。

 相手は自分より五センチほど背が高いが、思い切り押せば三歩は前に進むだろう。手元に夢中でがら空きの無防備な背中を凝視する。
 僅かに身じろぎした相手の肩越しに、右手のスマートフォンの画面が覗き見えた。誰もが使う、チャットアプリの緑色の画面。メッセージの送り先の名前が視界に入る。
 途端に強い感情が燃えるように立ち昇った。遠くからの音が、電車の到来と共に猛烈な勢いで迫り来る。
 両てのひらを外側に開き、両腕を持ち上げる。足元を揺るがす轟音の中、その背中を差し出すように、陽向は両腕に力を込めた。

 ぐんと強い力で肩を掴まれ、体勢を崩しかけ、一歩引いた状態になる。腕は宙をかき、電車は無事ホームに滑り込んでいた。開いたドアの向こう、電車の車両に相手がすんなりと乗り込むのが見えた。呆然として見つめる一対の瞳に気付くこともなく、こちらに背を向ける位置で座席に腰を下ろす。むしろ、降りる客が怪訝な視線を向けてきた。
「あの彼を突き落とそうとしただろう」
 その声に振り返る。未だに肩を掴んでいるのは、見覚えのない青年だ。あの彼、というところで視線を向けたから、陽向は再度車内に目をやる。さっきまで殺そうとした奴の背中は、電車の発車と共に右から左へ滑るように流れていった。
 立ち尽くしてそれを見送る陽向の肩から、通学鞄が滑り落ちる。激しい感情の波は嘘のように落ち着いて、行き場を失った奴への殺意は、ぽかりと空いた心の中で迷子になっていた。
 代わりに鞄を拾った青年に促され、陽向はホームの壁際へ歩き、すとんと椅子に腰を落とす。なりを潜めていた理性に今の状況を告げられ、人を殺そうとした両手で己の頭を抱えた。殺せなかった。それだけでなく、その現場を他人に見られてしまった。完全犯罪はあらゆる角度から失敗した。いや、完全でなくても奴を殺せればよかったのに。
「危なかった。人殺しになるところだった」
 隣に座る青年が言う。頭を上げて彼を見やり、陽向は顔を歪めた。
「なんで止めたんだ」
「どうして殺そうとした」
 質問を質問で返され、咄嗟に反論しようと口を開く。彼は自分を責めているのではなさそうだ。だが、何と言えばいいのかわからず、途方に暮れる。理性が戻ってきた今、数分前の衝動がいかに愚かなものだったかを思い知る。この青年が止めてくれなければ、自分は罪のない高校生を殺した犯罪者になっていたのだ。
 わかっているのに、心の中では怒りや悲しみが混ぜこぜのぐちゃぐちゃになり、眩暈に額を抑えた。
「よかったら、話を聞かせてくれないか」
 嫌だと言えずに頷いた。背を撫でる手が、思ったより温かなせいだった。
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