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終章
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退院し、長い連休も明けた五月の中旬、瑞希と佑は並んで帰路に着いていた。夕刻を控えた空は高く青く、下浮月橋から見る川の流れは今日も穏やかだ。
「そういえば、時計が戻って来たんですけど、やっぱり壊れちゃったんですよねえ」
佑が大きく息を吐いて肩を落とした。当然だが、あの日つけていた腕時計は、すっかり水に浸かって壊れてしまったそうだ。
「もったいないなあ。……あ、それで気づいたんですけど。先輩、あの時計に何かしました?」
彼はちらりと瑞希の顔を見る。
「佑にしては気付くの遅かったじゃん」
満足げに瑞希が言うと、彼は不満そうにむくれる。
佑の手元に戻った時計は、零時半で止まっていた。水の中で動いていたはずはないから、飛び込んですぐに止まったのだ。つまり、彼は四月一日を生きて終え、入水時には四月二日を迎えていたことになる。
「どうしても、結城佑は一人で四月一日に死ぬ。なら、四月二日を迎えさせれば、運命が変わると思ったの」
「運命かあ」歩きながら彼は腕を組む。「だから、わざとお茶をかけたんですね」
瑞希は頷いた。
指定したファミリーレストランに壁掛け時計がないことは知っていた。だからわざと佑にコップの中身をぶちまけ、時計を外させたのだ。その隙に一時間前に針をずらし、彼が時間を勘違いするように仕向けたのだ。
「だけど、もし僕がスマホの時計を見たら? それに、トイレに行かなかったらどうするつもりだったんです?」
「だから私は、睡眠薬を混ぜたの」
平然と言ってのけた彼女に、「睡眠薬?」と彼は仰天した。
「佑がトイレに行ってる隙に混ぜたんだ。お母さんが飲んでたマイスリーってやつ、即効性があるらしいから、あんたがスマホを見ても少し会話を長引かせれば眠らせられるでしょ。もし席を立たなくて時計を奪うチャンスがなくても、ドリンクバーに代わりに行って、その時混ぜようと思ってた。それで、眠ってる隙に時計の針を戻す」
「へええ」彼は感嘆する。「怖いなあ」
「私だって怖かったから、あまり量を入れられなかった。どれぐらいが丁度いいかもわからなかったし、もしこれで死んだら本末転倒だと思って。もう少し眠らせられたらよかったんだけど」
家で錠剤を粉末状にしたはいいものの、少し眠らせるだけならグラスにどれほど混ぜればよいか、そして彼がどれだけ中身を口にするかもわからない。つい怖気づいてしまったのだ。
「だけど、なんとか四月一日のラインは超えられた。あとはダメ押しで、一人で死ぬっていうのを二人に上書きしたんだ」
「まさか、本当に死ぬつもりだったんですか?」
「しょうがないじゃん! あんたがそれでも飛び込んだんだから」私はどこまででも一緒にいく。あの言葉を思い出すと顔から火が出そうに恥ずかしいが、あれは本心だ。佑と二人なら、怖くはなかったのだ。
彼は瑞希の顔を見つめて、くすくすと笑って、ありがとうと言った。
「神様も、先輩の努力を見て協力してくれたんですね。二人を呼んでくれた」
繰り返しの果て、勝ち取った未来。そこで彼は笑顔でいる。
橋を渡り切り、コンビニエンスストアで雑誌を買った。毎回お馴染みの店で、小説大海は他の雑誌に埋もれてぽつんとラックに入っていた。
そのまま河原に向かい、秘密基地に着く。タオルケットを敷いたソファーに座り、鞄から雑誌を取り出した。佑と話していた分、いくらか緊張は紛れているが、それでも心臓は跳ねている。表紙を開き、二人で目次を覗き込んだ。「第十六回 新時代小説大賞 二次選考結果」。目当ての項を開く。
一次選考時から半分ほどに減った一覧の中に、茜瑞希の名前はなかった。
大きく息をつく。雑誌を受け取った佑が一つ一つの名を指で辿り、おかしいなあと相変わらず首をひねる。
「誤植って可能性もありますよね」
「あるわけないでしょ」
立ち上がり、足元の小石を拾うと、瑞希は川面に向かって思い切り投げた。小さな丸い波紋が水面に広がった。
「今年は一次通ったんだから、来年は二次。そのまま三次と最終にも通るかもしれない。そしたら作家ですね!」
「そううまくいくわけないし」
「うまくいくんですよ、僕にはわかる」
隣に並ぶ彼は、なぜか得意げな顔をする。
「僕は永遠に一番のファンでいる。その席だけは、誰にも譲らない」
はいはいと軽く返事をするが、彼が言うなら本当になる気がする。彼が見ていてくれるなら、途方もない夢でも叶えられそうに思う。
「……神様に、お礼しに行かないとね」
こんな未来を与えてくれたのだ。確かにと、佑も頷いた。
「お団子、いっぱい買っていきましょう。お店にあるの、ぜーんぶ買って」
「無茶言わないでよ」
両手を広げて嬉しそうな佑を見て、意図せず笑ってしまう。それもいいかも、なんてこっそり思う。神様には、お腹いっぱい食べてもらわないといけない。
「今から行きますか」
「今からなんて、日が暮れちゃうじゃん」
「じゃあ、今度のサークルの後! ね、一緒に行きましょう」
満面の笑みを浮かべる佑と、瑞希は指切りをした。
未来の約束ができる幸福を噛み締め、浮月川の流れに目をやる。五月の涼やかな風が、穏やかに水面を揺らしていった。
「そういえば、時計が戻って来たんですけど、やっぱり壊れちゃったんですよねえ」
佑が大きく息を吐いて肩を落とした。当然だが、あの日つけていた腕時計は、すっかり水に浸かって壊れてしまったそうだ。
「もったいないなあ。……あ、それで気づいたんですけど。先輩、あの時計に何かしました?」
彼はちらりと瑞希の顔を見る。
「佑にしては気付くの遅かったじゃん」
満足げに瑞希が言うと、彼は不満そうにむくれる。
佑の手元に戻った時計は、零時半で止まっていた。水の中で動いていたはずはないから、飛び込んですぐに止まったのだ。つまり、彼は四月一日を生きて終え、入水時には四月二日を迎えていたことになる。
「どうしても、結城佑は一人で四月一日に死ぬ。なら、四月二日を迎えさせれば、運命が変わると思ったの」
「運命かあ」歩きながら彼は腕を組む。「だから、わざとお茶をかけたんですね」
瑞希は頷いた。
指定したファミリーレストランに壁掛け時計がないことは知っていた。だからわざと佑にコップの中身をぶちまけ、時計を外させたのだ。その隙に一時間前に針をずらし、彼が時間を勘違いするように仕向けたのだ。
「だけど、もし僕がスマホの時計を見たら? それに、トイレに行かなかったらどうするつもりだったんです?」
「だから私は、睡眠薬を混ぜたの」
平然と言ってのけた彼女に、「睡眠薬?」と彼は仰天した。
「佑がトイレに行ってる隙に混ぜたんだ。お母さんが飲んでたマイスリーってやつ、即効性があるらしいから、あんたがスマホを見ても少し会話を長引かせれば眠らせられるでしょ。もし席を立たなくて時計を奪うチャンスがなくても、ドリンクバーに代わりに行って、その時混ぜようと思ってた。それで、眠ってる隙に時計の針を戻す」
「へええ」彼は感嘆する。「怖いなあ」
「私だって怖かったから、あまり量を入れられなかった。どれぐらいが丁度いいかもわからなかったし、もしこれで死んだら本末転倒だと思って。もう少し眠らせられたらよかったんだけど」
家で錠剤を粉末状にしたはいいものの、少し眠らせるだけならグラスにどれほど混ぜればよいか、そして彼がどれだけ中身を口にするかもわからない。つい怖気づいてしまったのだ。
「だけど、なんとか四月一日のラインは超えられた。あとはダメ押しで、一人で死ぬっていうのを二人に上書きしたんだ」
「まさか、本当に死ぬつもりだったんですか?」
「しょうがないじゃん! あんたがそれでも飛び込んだんだから」私はどこまででも一緒にいく。あの言葉を思い出すと顔から火が出そうに恥ずかしいが、あれは本心だ。佑と二人なら、怖くはなかったのだ。
彼は瑞希の顔を見つめて、くすくすと笑って、ありがとうと言った。
「神様も、先輩の努力を見て協力してくれたんですね。二人を呼んでくれた」
繰り返しの果て、勝ち取った未来。そこで彼は笑顔でいる。
橋を渡り切り、コンビニエンスストアで雑誌を買った。毎回お馴染みの店で、小説大海は他の雑誌に埋もれてぽつんとラックに入っていた。
そのまま河原に向かい、秘密基地に着く。タオルケットを敷いたソファーに座り、鞄から雑誌を取り出した。佑と話していた分、いくらか緊張は紛れているが、それでも心臓は跳ねている。表紙を開き、二人で目次を覗き込んだ。「第十六回 新時代小説大賞 二次選考結果」。目当ての項を開く。
一次選考時から半分ほどに減った一覧の中に、茜瑞希の名前はなかった。
大きく息をつく。雑誌を受け取った佑が一つ一つの名を指で辿り、おかしいなあと相変わらず首をひねる。
「誤植って可能性もありますよね」
「あるわけないでしょ」
立ち上がり、足元の小石を拾うと、瑞希は川面に向かって思い切り投げた。小さな丸い波紋が水面に広がった。
「今年は一次通ったんだから、来年は二次。そのまま三次と最終にも通るかもしれない。そしたら作家ですね!」
「そううまくいくわけないし」
「うまくいくんですよ、僕にはわかる」
隣に並ぶ彼は、なぜか得意げな顔をする。
「僕は永遠に一番のファンでいる。その席だけは、誰にも譲らない」
はいはいと軽く返事をするが、彼が言うなら本当になる気がする。彼が見ていてくれるなら、途方もない夢でも叶えられそうに思う。
「……神様に、お礼しに行かないとね」
こんな未来を与えてくれたのだ。確かにと、佑も頷いた。
「お団子、いっぱい買っていきましょう。お店にあるの、ぜーんぶ買って」
「無茶言わないでよ」
両手を広げて嬉しそうな佑を見て、意図せず笑ってしまう。それもいいかも、なんてこっそり思う。神様には、お腹いっぱい食べてもらわないといけない。
「今から行きますか」
「今からなんて、日が暮れちゃうじゃん」
「じゃあ、今度のサークルの後! ね、一緒に行きましょう」
満面の笑みを浮かべる佑と、瑞希は指切りをした。
未来の約束ができる幸福を噛み締め、浮月川の流れに目をやる。五月の涼やかな風が、穏やかに水面を揺らしていった。
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