35 / 43
3章 一年後に君はいない
5
しおりを挟む
今すぐ時間を戻すべきだと思ったが、佑の母親に声を掛けられて留まった。明日、自宅まで来てほしいという。佑は遺書に、瑞希に部屋を訪ねてほしいと書いていたらしい。特別に宛てた手紙もあるそうだ。
これまでの二回の経験を踏まえれば、戻せる時間はその都度短くなると考えるべきだ。それが何日分なのかはわからない。もしかすると、ぐずぐずしている間に手遅れになるかもしれない。だが無闇に戻るより、彼の伝えたかったことを一つでも知っておけば、彼の命を救える成功率は高まる気がする。どちらを取るべきか、焦りで気がおかしくなりそうだ。
一刻も早く訪問したかったが、葬式当日に彼らの家に乗り込むわけにもいかない。帰ってからの夜は、十七年の人生で最も長い夜だった。
朝一に電車に飛び乗った。ここからはおよそ四十分で最寄り駅につく。
のどかに桜が咲く町並みを眺めつつも、頭では考え続けている。今日時間を戻して間に合うのか、佑はいったい自分に何を見せて、何を伝えようとしているのか。
一年後に君はいない。昨年の今頃、本当にその通りになるだなんて思いもしなかった。
窓の外を見たり本のページをめくってみるが、内容が上手く頭に入らない。少しでも気を落ち着かせようとスマートフォンをいじって閃く。お気に入りからひとまがいのページを開いた。既に全ての作品に目を通していたが、それらの作品は何度でも読み返したい面白さがあった。
「……更新されてる」
独り言が口から零れる。唯一の未完結作品、「滂沱の時を超えて」の更新日時が新しくなっていた。日付は一昨日の四月二日。
迷わずタイトルをタップし、更新された話を読み進める。ラストの約五千文字が追加されている。自分のクローンが現れた主人公の話だ。コピーにコピーを重ねた結果、オリジナルが誰かさえわからなくなった自分。たくさんの自分がいるのに、その中に本物がいるのかさえ判断ができない。
自分だけはオリジナル、真の人間だと信じていた。しかし何がその根拠になりえるだろうか。どうして自分だけは本物だと豪語できようか。真の人間は、唯一無二の自分という存在は、どういう形と色と声と思考をしているのだろうか。そもそも本物の自分とは何なのか。
気の狂いかけた視界の中で、大勢の自分がこちらを見ている。自分と同じ形と色と声と思考を持つたくさんの贋作は、自分と同時にこう言った。
「わたしは、ひとまがいだ」
最後には、主人公がいなくなっても何一つ変わらない世間の描写が続いて物語は幕を閉じた。これで、ひとまがいの作品は全て完結したことになる。瑞希は深くため息をついた。ひとまがいという人物を、初めて人として捉えられたような気がする。本当に存在しているのかも危うい「ひとまがい」は、自身の悩みからこの名を付けたのだ。遠い霧のような誰にも掴めないその人物が、急激に近しい人間となった気がした。
瑞希は慌てて電車を降りた。危ない。すっかり作品に入り込んで乗り過ごすところだった。緊急事態にも関わらず、完結の余韻にふけってぼうっとしてしまう。しっかりしろと首を振り、改札を抜けた。
駅舎を抜けた先の住宅街は、訪れたことのない場所だった。スマートフォンの画面に釘付けになりながら、ようやく一戸のマンションに辿り着いた。七階建ての小奇麗な建物で、どことなく高級感が漂う。
エントランスから壁のテンキーに部屋番号を入力して挨拶すると、佑の母親の声が「どうぞ」と言った。開いた自動ドアを抜けて、エレベーターに乗り五階の廊下に出る。503号室のチャイムを押した。
昨日はきっちりと礼服を着ていたが、普段着の今も、佑の母親は若く見える人だった。三十代半ばほどだろう。色白の整った顔立ちで、背を越す髪を一つに束ねている。少し疲れた印象を受けるが、実の息子を亡くしたばかりの母親にしては落ち着いて見えた。
勧められるままスリッパを履きリビングに入る。足音に振り向くと、廊下伝いにある部屋から出てきた青年が、こちらに背を向けて玄関で靴を履いていた。二十歳ぐらいか、線の細い佑と異なりがっちりした体格の彼が、義理の兄だろう。「いってらっしゃい」という母親の声に「ん」とだけ声を出すとさっさとドアを開けて出ていった。
視線をリビングに戻すと、テレビの向かいのソファーに座っていた男が立ち上がった。昨日の葬式で見た佑の義父、母親の再婚相手だ。実の息子に似たがたいの良い体格で、実年齢はもう少し上かもしれないが四十前後の歳に見える。テレビを消しつつ、「茜さんだね」と声を掛けるのに瑞希は頷いて返事をする。居心地の悪さを感じつつ、母親に言われるがまま、ダイニングテーブルの椅子に浅く腰かけた。
二人とも、悲しみに暮れた様子はなかった。母親に憔悴の気はあるが、葬式に来ていた佑の友人たちの誰よりも落ち着いた顔をしている。今はカウンターキッチンに立ってお茶を入れている。
「これなんだけどね」
向かいに腰掛けた佑の父親が、一枚の封筒を天板に置いた。「茜瑞希様」と丁寧な文字で書かれている。
「あの子の遺書に、この手紙を渡すよう書かれていたんだ」
壊れものを扱うように、瑞希はそっと封筒を手に取った。裏返してみると「〆」のマークできっちりと封がされている。
「佑と仲良くしてくれていたのね」
氷の入ったアイスティーのグラスを置きながら、ありがとうと母親が言った。
「手紙って、私だけですか。他の人には……」
彼女は首を振って否定する。「茜さんにだけ。それで、部屋に入れてほしいって」
「迷惑かけて申し訳ないけど、最後の頼みだから聞いてやってくれないかな」
「迷惑だなんて、そんな」
封筒を両手で軽く握り、瑞希は視線を俯ける。佑は、先輩のことを家族に話さなかったのだろう。あんなに毎日顔を合わせた茜瑞希のことも、学校やサークルでのことも、家では語らなかった。二人とも、瑞希は佑のちょっと親しい程度の先輩だと思っているようだった。共に心霊スポット巡りをし、プレゼントを交換し、延山で過去を辿った相手だとは微塵も思っていないに違いない。今も厄介な手紙を処理することができて、安堵しているように見える。
この家に、結城佑の味方はいない。
「あの、結城くんの部屋で読んでいいですか。もしかしたら、泣いちゃうかもしれないので」
二人はどうぞどうぞと同意し、部屋に案内してくれた。ここに居る二人と一人は、噛み合わない感情を抱いている。そこから生じる居心地の悪さに、誰もが窒息しそうな空間だった。結局、出されたアイスティーに口をつける間もなかった。
これまでの二回の経験を踏まえれば、戻せる時間はその都度短くなると考えるべきだ。それが何日分なのかはわからない。もしかすると、ぐずぐずしている間に手遅れになるかもしれない。だが無闇に戻るより、彼の伝えたかったことを一つでも知っておけば、彼の命を救える成功率は高まる気がする。どちらを取るべきか、焦りで気がおかしくなりそうだ。
一刻も早く訪問したかったが、葬式当日に彼らの家に乗り込むわけにもいかない。帰ってからの夜は、十七年の人生で最も長い夜だった。
朝一に電車に飛び乗った。ここからはおよそ四十分で最寄り駅につく。
のどかに桜が咲く町並みを眺めつつも、頭では考え続けている。今日時間を戻して間に合うのか、佑はいったい自分に何を見せて、何を伝えようとしているのか。
一年後に君はいない。昨年の今頃、本当にその通りになるだなんて思いもしなかった。
窓の外を見たり本のページをめくってみるが、内容が上手く頭に入らない。少しでも気を落ち着かせようとスマートフォンをいじって閃く。お気に入りからひとまがいのページを開いた。既に全ての作品に目を通していたが、それらの作品は何度でも読み返したい面白さがあった。
「……更新されてる」
独り言が口から零れる。唯一の未完結作品、「滂沱の時を超えて」の更新日時が新しくなっていた。日付は一昨日の四月二日。
迷わずタイトルをタップし、更新された話を読み進める。ラストの約五千文字が追加されている。自分のクローンが現れた主人公の話だ。コピーにコピーを重ねた結果、オリジナルが誰かさえわからなくなった自分。たくさんの自分がいるのに、その中に本物がいるのかさえ判断ができない。
自分だけはオリジナル、真の人間だと信じていた。しかし何がその根拠になりえるだろうか。どうして自分だけは本物だと豪語できようか。真の人間は、唯一無二の自分という存在は、どういう形と色と声と思考をしているのだろうか。そもそも本物の自分とは何なのか。
気の狂いかけた視界の中で、大勢の自分がこちらを見ている。自分と同じ形と色と声と思考を持つたくさんの贋作は、自分と同時にこう言った。
「わたしは、ひとまがいだ」
最後には、主人公がいなくなっても何一つ変わらない世間の描写が続いて物語は幕を閉じた。これで、ひとまがいの作品は全て完結したことになる。瑞希は深くため息をついた。ひとまがいという人物を、初めて人として捉えられたような気がする。本当に存在しているのかも危うい「ひとまがい」は、自身の悩みからこの名を付けたのだ。遠い霧のような誰にも掴めないその人物が、急激に近しい人間となった気がした。
瑞希は慌てて電車を降りた。危ない。すっかり作品に入り込んで乗り過ごすところだった。緊急事態にも関わらず、完結の余韻にふけってぼうっとしてしまう。しっかりしろと首を振り、改札を抜けた。
駅舎を抜けた先の住宅街は、訪れたことのない場所だった。スマートフォンの画面に釘付けになりながら、ようやく一戸のマンションに辿り着いた。七階建ての小奇麗な建物で、どことなく高級感が漂う。
エントランスから壁のテンキーに部屋番号を入力して挨拶すると、佑の母親の声が「どうぞ」と言った。開いた自動ドアを抜けて、エレベーターに乗り五階の廊下に出る。503号室のチャイムを押した。
昨日はきっちりと礼服を着ていたが、普段着の今も、佑の母親は若く見える人だった。三十代半ばほどだろう。色白の整った顔立ちで、背を越す髪を一つに束ねている。少し疲れた印象を受けるが、実の息子を亡くしたばかりの母親にしては落ち着いて見えた。
勧められるままスリッパを履きリビングに入る。足音に振り向くと、廊下伝いにある部屋から出てきた青年が、こちらに背を向けて玄関で靴を履いていた。二十歳ぐらいか、線の細い佑と異なりがっちりした体格の彼が、義理の兄だろう。「いってらっしゃい」という母親の声に「ん」とだけ声を出すとさっさとドアを開けて出ていった。
視線をリビングに戻すと、テレビの向かいのソファーに座っていた男が立ち上がった。昨日の葬式で見た佑の義父、母親の再婚相手だ。実の息子に似たがたいの良い体格で、実年齢はもう少し上かもしれないが四十前後の歳に見える。テレビを消しつつ、「茜さんだね」と声を掛けるのに瑞希は頷いて返事をする。居心地の悪さを感じつつ、母親に言われるがまま、ダイニングテーブルの椅子に浅く腰かけた。
二人とも、悲しみに暮れた様子はなかった。母親に憔悴の気はあるが、葬式に来ていた佑の友人たちの誰よりも落ち着いた顔をしている。今はカウンターキッチンに立ってお茶を入れている。
「これなんだけどね」
向かいに腰掛けた佑の父親が、一枚の封筒を天板に置いた。「茜瑞希様」と丁寧な文字で書かれている。
「あの子の遺書に、この手紙を渡すよう書かれていたんだ」
壊れものを扱うように、瑞希はそっと封筒を手に取った。裏返してみると「〆」のマークできっちりと封がされている。
「佑と仲良くしてくれていたのね」
氷の入ったアイスティーのグラスを置きながら、ありがとうと母親が言った。
「手紙って、私だけですか。他の人には……」
彼女は首を振って否定する。「茜さんにだけ。それで、部屋に入れてほしいって」
「迷惑かけて申し訳ないけど、最後の頼みだから聞いてやってくれないかな」
「迷惑だなんて、そんな」
封筒を両手で軽く握り、瑞希は視線を俯ける。佑は、先輩のことを家族に話さなかったのだろう。あんなに毎日顔を合わせた茜瑞希のことも、学校やサークルでのことも、家では語らなかった。二人とも、瑞希は佑のちょっと親しい程度の先輩だと思っているようだった。共に心霊スポット巡りをし、プレゼントを交換し、延山で過去を辿った相手だとは微塵も思っていないに違いない。今も厄介な手紙を処理することができて、安堵しているように見える。
この家に、結城佑の味方はいない。
「あの、結城くんの部屋で読んでいいですか。もしかしたら、泣いちゃうかもしれないので」
二人はどうぞどうぞと同意し、部屋に案内してくれた。ここに居る二人と一人は、噛み合わない感情を抱いている。そこから生じる居心地の悪さに、誰もが窒息しそうな空間だった。結局、出されたアイスティーに口をつける間もなかった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
流星の徒花
柴野日向
ライト文芸
若葉町に住む中学生の雨宮翔太は、通い詰めている食堂で転校生の榎本凛と出会った。
明るい少女に対し初めは興味を持たない翔太だったが、互いに重い運命を背負っていることを知り、次第に惹かれ合っていく。
残酷な境遇に抗いつつ懸命に咲き続ける徒花が、いつしか流星となるまでの物語。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。
遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。
本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。
優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる