一年後に君はいない

柴野日向

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2章 近からず、遠からず

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 二月の終わり、瑞希と佑は朝早くに江雲を出た。佑が幼い頃に暮らしていた延山町までは、電車を乗り継いで片道四時間かかる。その道のりで、二人はあまり言葉を交わさなかった。各々本を読み、変わりゆく景色をぼんやりと眺めて過ごした。
 車窓の景色は次第に白色の面積を大きくする。雪は降ってはいないが積もっていた。瑞希は生まれて初めて見る一面の雪景色に、しばらく見とれていた。町の家々の屋根や、田畑が真っ白に塗り潰されている。生活に苦労はあるだろうが、ただ目に映る美しさは、容易に心を掴んで離さなかった。
 延山駅で下りたのは、瑞希たちだけだった。クリーム色のコートのボタンをかけ、青と白のチェック柄のマフラーを巻きなおす。佑に言われた通り、厚着をしてきてよかった。彼も黒いダウンジャケットのチャックを首元まで上げ、鞄を肩にかけ直す。手動の改札で切符を駅員に手渡した。
 年々過疎が進んでいる延山は、閑散としていた。雪をかむった民家の脇を歩いても、人どころか猫の子一匹姿を現さない。山の麓で人々が細々と暮らす土地だった。
「昔は、もう少し賑やかだったんですよ」
 車がやっと通れる幅の道をしばらく行き、佑がふと立ち止まった。その視線の先には、古い校舎がある。門には「延山小学校」の文字が彫られているが、既にその建物は廃校と化していた。
「ここに通ってたの」
 瑞希が尋ねると、佑は一つ頷く。
「僕らが通ってた頃も子どもはあまりいなくて、全校で一クラス分しか生徒はいなかったけど」眩しそうに目を細める彼は、人の気配の絶えた校舎を記憶に焼き付けているようだった。「近所の仲良しもいなかったから、僕らはいつも二人で遊んでいました」
 僕らが誰なのか、尋ねるまでもない。佑と、弟の朋だ。
 思い出を辿るように、彼は一歩ずつ踏みしめて歩き出す。その半歩後ろを瑞希も続く。両脇に雪をかいた後で、更に降ったのだろう。道には汚れていない雪が十センチほど積もり、ざくざくと足音が鳴る。
 佑は、延山で過ごした日々をよく覚えていた。四歳の頃に母子三人で引っ越し、朝も夜も働きづめの母に代わり、朋の世話を焼いた。朋は家族が大好きで、よく笑う明るく元気な子だった。反対に佑は大人しく控えめな性格で、兄弟なのにと母は笑っていた。
「春は土筆を採りに行って、夏は山に流れる川で泳ぎました。カブトムシやクワガタも捕まえたり。秋は落ち葉を集めてその中で昼寝して、冬は雪だるまを作りました」
 来る日も来る日も、二人は延山を駆けずり回って遊んだ。雨が降って出られない日は、家で本を読んで絵を描いた。休日に母が作るクッキーは格別で、いつも最後の一枚を食べ終わるのが惜しかった。
 瑞希は次第に不思議な気分に陥った。彼が語る季節に風景が変化し、道の向こうを駆ける小さな兄弟の背中が見える気がしたのだ。生きていること自体が楽しいと言わんばかりの笑い声をあげ、じゃれ合って。この幸せが永遠に続くと信じて疑わない、輝かしい日々を生きる幼い兄弟。何物にも代えがたい幸福の姿。
 一軒の平屋の前で、佑は足を止めた。
 引き戸はぴっちりと閉まり、人が住んでいる気配はない。視線を向けると、彼は辛そうに唇を引き結び、家の方を向いて項垂れていた。そっと戸に触れる指先は微かに震えている。
 黙って待っていると、彼はやがて長く息を吐き、こちらを向いて弱々しく微笑んだ。
「ここが、最後に僕たちが一緒にいた場所です」
「ここって……」
「もう廃業しちゃったけど、駄菓子屋。僕らはいつもここに通って、おやつを買っていました」
 細い指先が、ぴっちりしまった戸をつうと撫でる。まるで、そうして待っていれば、あの日に戻れるのだというように。この戸が開いて、弟がひょっこりと顔を出すのだと言わんばかりに。
「あの日、三月三十一日、僕らはここで同じおやつを買いました。チョコレートの麩菓子で、棒に刺さってるやつ。アイスの棒みたいに、食べ終わると当たりかはずれか書いてあって、その日、僕は初めて当たりを引いたんです。朋ははずれでした。だから僕は、当たりの棒を持って、もう一つおやつを貰いにお店に入ったんです。……朋を置いて」
 初めての当たりに喜ぶ兄。はずれを引いてふてくされる弟。彼らの影は、まだそこに残っている。佑はその影を、七年間ずっと追い続けていた。
「当たりが出たら、他のお菓子とも交換できることになってました。それで、僕は迷って……結局、同じ麩菓子を貰って戻った時には」頬を軽く痙攣させ、後悔に満ちて掠れた声を、佑は喉の奥から振り絞った。「……朋は、いなくなっていました」
 どれだけ縋っても、影には永遠に追いつけない。だが割り切るには、佑にとっての朋の存在は大き過ぎた。過去を語れるようになっても、彼の心に空いた穴は、一生塞がらない。
「当たりなんか、引かなきゃよかった」
 朋を探す佑に、近所の住民が声をかけ捜索に加わった。それでも見つからず母親に連絡が行き、夕方には警察にも通報したが、朋は見つからなかった。
「朋も店に連れて入ったらよかった。お菓子なんかで迷わなきゃよかった。はずれを引いたのが僕だったらよかった」
 懺悔の如く、佑は後悔を口から雨のように降らせる。七年分の想いは、白い雪を重たく穿つ。新雪にぼこぼこと穴が空くのが見える気さえする。
 何も言えないまま、瑞希はただ彼の隣に立っていた。軽々しい言葉など、佑の傷の前にはなんの治療効果もない。下手をすれば更に傷つけてしまう。彼はこれまで必死で生きてきたに違いない。幼い弟を死なせてしまった致命傷を抱え、ひたすら悔いてきたのだろう。
「……ねえ、先輩」
 瑞希を向く彼の瞳は、架空の涙ですっかり濡れている。
「だから、朋が死んだのは先輩のせいじゃないです。僕は朋を守らなきゃいけなかった、ずっとそう言われて、そうしてきた、朋を守りたかった。……でも、結局、朋が死んだのは僕のせいなんです」
 違う、と否定するので精いっぱいだった。「それだけは違う」ぶんぶんと首を横に振るたび、マフラーの尻尾が生き物のように揺れる。
「犯人だよ。朋くんが死んだのは、犯人のせい。あんたのせいじゃない」
「あいつは誰でもよかったんだって。この場所に朋がいたから攫ったんだって。そして朋を置いていったのは、僕だった」
「違うってば!」
 瑞希は佑の両腕を掴む。強く強く、力を入れて。痛みでもいい、彼の意識を懸命に自分に向ける。
「一番悪いのは犯人。そして、勝手に自分だけ生き残った私。結城佑は……高宮佑は、弟と遊んでいただけ。あんたは被害者なの!」
 彼の涙が少しでも引けばいい。罪悪感を、この腕から自分に流し込んでほしい。
 悪いのは犯人だ。それは絶対に間違いない。その次に自分だと、瑞希は信じている。高宮朋を間接的に死なせたのは、茜瑞希の生への執着だ。佑が被害者としてでなく、加害者として苦しむなんて、おかしいに決まっている。
 彼はちょっと笑っただけだった。彼が長年溜め込んできた暗いものは、今更の言葉で消し去ることなどできない。
 瑞希が手の力を緩めると、彼は再び道を歩き出した。ついて歩きながら、瑞希はその背を見つめる。ここではまるで、佑はいつもと違う人間のようだ。きっと戻っているのだろう。大人しく控えめだった頃の結城佑、そして高宮佑に。
 なぜ彼は、いつもふざけて笑っているのだろう。いじめられていた自分を変えようとした、ただそれだけではない気がする。今辿っている過去に関係するからこそ、彼は別人のようになっているに違いない。
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