緩やかな波音

三谷朱花

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 セミたちの鳴き声を聞きながら、純香は暑さを一瞬だけでも忘れる木陰のなかを歩いていた。

 ふと、あの時のことを思い出す。
 もう、記憶の片隅に押しやっていた、苦い記憶。祖母の葬儀の後、クリーニング屋でニトログリセリンを回収したときのことを。

 あれから、4年が経った。
 純香はもう、祖母のことは気持ちの整理はついていた。
 あれは、純香だけが悪かったわけじゃないと、理解できていたからだ。

 もちろん、ニトログリセリンを純香が持ち去っていたのは、問題があったのかもしれない。
 だが、あの出来事は、ほかの人間の悪意もあって成立してしまった事故だと、純香は自分を納得させた。

 純香がニトログリセリンを取り出した薬の袋には、何も書いてなかった。それに錠剤の方にも薬の名前を書いたものがなかった。
 だから、純香はあの薬がニトログリセリンだと分かるわけもなかったのだ。
 もし、薬の名前がわかっていたら、純香も一応大丈夫な薬なのか調べて取り出したはずだし、それがニトログリセリンという名前の薬で狭心症の特効薬だとわかっていたら、絶対に袋から取り出さなかっただろう。

 気づいた時には唖然とした。

 忘れっぽいと祖母が言っていたにも関わらず、その薬の袋に「何も書かないでいる」なんてあり得ないことだ。しかも、柿村も持田が几帳面だと言っていた。それなのに何も書かれていなかった薬の袋。
 なぜ、持田が祖母に悪意を示したのか。
 それが祖母だけに向けられたものなのか、それとも純香にも向けられたものなのか。

 かすかに持っていた、持田への違和感。
 それと、持田の話を柿沼にした時の柿沼の態度。

 純香が答えを出したのは、すぐだった。
 
 純香はどちらかといえば鈍い方だろう。だが、やはり女性だ。女性の勘がそれを告げていたのだと、持田に対する違和感を肯定した。

 柿沼と純香が関係を持っているように、柿沼と持田も関係を持っているに違いない。
 そう考えると、すべてが説明できる気がしたのだ。

 ハナに向けたようでいて、純香に向けられただろう持田の悪意。
 10年ほど前から柿沼のクリニックに務めている看護師で、純香も柿沼に向ける信頼と同じく、持田のことを信頼しきっていた。
 だからこそ、その悪意が堪えたし、結婚したいと言ってくれている柿沼の真意も見えなくなった。いや、その信頼が揺らいだ。

 もう何を信じていいのか、純香は分からなくなった。

 そうして出した答えは、信じれるものは自分しかない、という答えだった。

 そう答えを出してしまえば、もう純香がやることなど決まっている。

 今後のことを考えて、仕事を変えることはしなかったが、よくよく考えれば純香の職場に興味も持たないような柿沼が純香を追いかけて職場まで来ることもないだろうと思った。
 考えればわかることなのに、純香はずっと考えないようにしていただけだ。
 柿沼は、純香との将来を望んでなどいないと。

 変えるとすれば、住むところ。
 もう祖母との思い出の家も、忌まわしい記憶に幸福な場所だった記憶が押しやられてしまっていた。
 その時にはもう、家に一人でいるのさえ苦痛になっていた。
 その家はもう、純香には必要のない場所になってしまっていた。

 純香は祖母と暮らしていた家から車で1時間半ほどかけて街中の職場に通っていた。
 だから、生活の基盤を街中に移してしまえば、もう柿沼との接点もほとんどないだろうと思えた。
 
 手元には、祖母がもしもの時にかけていたそれなりの生命保険金があった。
 それは、純香の新しい生活を始めるには、十分な金額だった。

 幸せな記憶があって離れたくないと思っていたはずの町から離れるのがこんなに簡単にもできることなんだと、純香は新しい家で一息ついた時、苦笑してしまった。
 そうして、純香の新しい生活ははじまった。
 それが、4年前のこと。

 その後に相続手続きが終わった住んでいた家を売ってしまって、純香があの町に住んでいた痕跡は消えてしまった。
 柿沼が急に姿を消してしまった純香に一体何を思っただろう、とは思わなくもなかったが、今となってはどうでもいいことだ。

 もう純香が信じられるものなど、自分……と、もう一人しかいないのだ。

 園庭に入ると、庭で遊んでいた子供たちが、わらわらと純香の周りに集まる。
 子供たちがなんだかんだと自分たちの遊んでいるものを見せてくれるこの光景が、純香は好きだった。

「ママー!」

 嬉しそうに駆け寄ってくる息子に、純香はしゃがんで手を差し伸べる。
 ぎゅっと抱きついてきた息子を、純香は抱き上げた。

「今日は何して遊んだの?」
「今日はね、電車!」

 ニコニコと嬉しそうに笑う息子に、柿沼の面影はある。だが、もう柿沼など関係はないと思っている純香は、感傷的な気持ちになることもない。
 
 純香は、自分だけを信じると決めたときに、決めたのだ。
 このおなかの子は、純香がされたように捨てたりしないと。
 このおなかの子が、ニコニコして過ごせる日々を与えようと。

 それが、幸せな記憶にある祖母が残してくれたものだと思うから。


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