緩やかな波音

三谷朱花

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「あの、祖母が亡くなってた時のことをお聞きしたくて」
「亡くなってたときのこと?」

 ハナの孫である純香から、そう声をかけられたとき、正直早瀬はドキリとした。
 だが、持ち前のポーカーフェイスで表情を収めて、利用者さんに見せるいい人の姿を取ると、その問いかけられたこと自体に戸惑う様子をして見せた。
 デイサービスで働いていると、色んな利用者さんや家族やスタッフがいる。その前で自分の感情を顕にすることなど、得策ではない。だから早瀬はその感情を見せないと決めていた。

「ハナさん、何かあったの? 心臓でって話だったように思うけど」

 隣にいた作田が純香の発言の意図を読みかねてだろう、純香に問いかける。
 正直、純香に対応するのが一人じゃなくて助かったかもしれないと早瀬は思っていた。

「部屋が荒れていたのが気になって」
「部屋が?」

 だが、思ったものと違った質問に、早瀬は首をかしげる。その早瀬に作田が顔を向ける。

「早瀬さん何か気がついた?」

 作田の問いかけに、早瀬はその時の情景を思い出そうとして、諦めたように首を横にふった。

「ごめんなさい。正直、縁側から覗き込んだら倒れてるハナさんが見えてそれで動転しちゃって、部屋の様子は覚えてなくて」

 正直、部屋のものが散乱していたかどうかなど、早瀬の意識の中には全然残っていなかった。
 早瀬がハナを見つけたのは、デイサービスに行くために迎えに来たときだった。いつもの時間に迎えに来たのに、いつもなら玄関脇で待っているはずのハナがいなかった。玄関には鍵がしまっていて声をかけても返事がないことを不審に思った早瀬は庭に回り込んで、網戸になっていた窓からハナが倒れているのを見つけた。
 窓が網戸になっていたから部屋に上がり込んで救急車を呼ぶこともできたわけだ。

「そう、ですか」

 純香はそれで納得したようだった。心の奥でホッとした早瀬に向かって、純香はまた口を開く。

「他に誰かが出入りしたような、そんな感じとかなかったですか?」

 一瞬でその純香の意図を読み取った早瀬と同じように読み取ったらしい作田が、ぎょっとして純香を見る。

「ハナさんが亡くなった原因は違うの?」

 作田が声を潜める。
 純香は首を横にふる。

「いいえ。病院では心臓が原因だって言われました」
 
 作田と早瀬はホッと息をつく。
 特に早瀬は、その話を聞いて、それが死因なんだと、あの時はもう死んでいたんだと思い込もうとする。

「正直網戸だから誰かが出入りしたって言われても、わからないと思うけど、ハナさんが倒れていたのは、言い方はおかしいかもしれないけど、変なところは何もなかったわ」

 早瀬はそう言いながら、通報したとき、ピクリと動いたように見えたハナの手を話忘れようとした。
 もしかしたら、あの時点で心臓マッサージをしていたら、ハナはまだ亡くなっていなかったかもしれない。だが、ここのところハナの言動に悩まされていた早瀬は、あの時心臓マッサージをすることを躊躇してしまったのだ。次の瞬間には、動きがなくなってしまったから余計に。それに、一度確認した時には、息がなかったはずだった。

 最近、ハナは迎えに来る早瀬に「泥棒猫!」と罵ることがあった。もちろんハナに対してそんな事実はないし、何もしてない。だが、過去の記憶に傷がある早瀬は、その言葉を聞きたくないと思っていた。いったいハナが何を思ってそれを早瀬に言っていたのかはわからないが、普段は穏やかだと評判だったハナが、なぜか早瀬にだけ向ける悪意に、早瀬はほとほと困っていた。

 早瀬は若いころ、不倫をしていたことがある。
 その家族経営の会社で、社長と不倫をしていても付き合いがばれることがなかったのは、早瀬の感情を隠す能力も関係したと思っている。その関係は相手の心変わりによって終わりになって、早瀬はその職場を辞めた。
 もう普通に結婚し、子供を二人もうけ、普通の幸せを謳歌してると言っていい今では、忘れた記憶だ。いや、忘れたい記憶だ。
 だがハナに会うたびに、そのことを突き付けられる気がして、早瀬はハナの迎えに来ることが億劫になっていた。だが、割り当てられたエリアを考えれば、ハナのお迎えは早瀬以外にはできなかった。
 そのことを誰かに言うこともできなかった。女性の勘は鋭い。変に勘繰られたくはないと、そのことは早瀬の胸の中にしまっていた。

 だから「泥棒猫!」と罵られなくなるかもしれないという可能性に、早瀬はつい気持ちが揺らいでしまったのだ。
 ピクリと動いた気がしたのは、気のせいだと思い込もうとした。
 実際、それは気のせいだったのかもしれない。
 だが、もしかしたら気のせいじゃなかったのかもしれない。

 でも、その事実を知るのは、誰もいないのだ。
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