54 / 83
54
しおりを挟む
「あの予算書は、よく考えられたものだった。アリーナ嬢もそう思ったのだろう?」
ファム公爵の言葉に、アリーナは頷く。
「はい。」
だからアリーナは、予算案を一切いじらなかった。ショパー侯爵家の領民への態度がよくわかる予算書をこの予算は無駄だろうと切り落とすようなことはしたくなかったから。
「参加する領民たちに手当てが割り当てられていた。工夫(こうふ)として働く者にも、料理番として働く者にも。…男性ならば、無駄だと切り落としていたかもしれん費用だ。」
河川工事の費用は勿論国から出されるが、人員については、領民の…ボランティアと言っていい。だが、自分たちの大事な生活が懸かっているため、普通に考えて領民は何の文句も言わずにその工事を手伝う。
ショパー侯爵が出した予算案は、その領民たちにわずかではあるが手当てを出す予算になっていた。それこそ、1日の食費くらいにしかならない金額だ。だが、水に流され作物が作れなくなった領地で、食べることにも事欠くだろう領民に、せめて食費だけでも、と考えただろうショパー侯爵の気持ちは汲みたいと思った。工夫たちには食事が提供される。しかし、家で待つ家族たちにはそんなものはない。働き手が工事にかかりっきりになっている以上、家族に収入を得る手段はない。
もし、河川工事の工事費に無駄なものが多かったら、アリーナとてそれを切り落とす選択をしたかもしれない。だが、ショパー侯爵の提出した予算は、無駄な費用など一切なかった。
河川の工事も同じような水害が起こった場合に決壊しないだろう程度の工事で、最新式のものではないだろうが、あの決壊が百年に一度くらいしか起こらないことを考えると十分な工事と言える。百年も経った頃には最新の修繕工事がされているだろうし。最新式にしてもそうでないにしても、百年を迎える前に修繕しなければいけないのは同じだ。
そこで費用を抑え、領民に食費程度の手当てを与える。
予算案を見て、アリーナも唸った。
今までいろいろな予算案を見てきたが、これほど領民のことを考えている予算案は初めて見たからだ。
領民は工夫(こうふ)としてボランティアをするのが当たり前と考える。だから、手当などない。
それが、今までの常識だった。
それをショパー侯爵は否、としたわけだ。十分な手当の金額にならないのは、その工期の長さと働く領民の人数を考えれば仕方がないだろう。
これがもし普通の流れになったとしたら、その時には、領民たちに十分な手当を与えられるかもしれない。アリーナは、新しい領地経営の姿を見せられた気がした。
「あれは面白い予算案だった。…私も参考にしようと思うくらいには。」
ファム公爵の言葉に、アリーナは目を見開く。
「何だ。私がやったらおかしいのかね」
「いえ。…ファム公爵が領民たちに手当てを配分するとすれば、他の貴族たちもその流れをくむことになるでしょう。すばらしいことだと思います」
今の今まで、アリーナはファム公爵のことを嫌な奴だとしか思っていなかったが、たったそれだけのことで、いい人だと格上げするのは、案外単純かもしれないとアリーナ自身も思う。
だが、今まで常識だとされていたことを変えるには、大きな権力を持った人間が動くことが一番手っ取り早いとアリーナも理解している。
例えば、今回の女性の働く権利の明記について、など。あの話し合いに王太子と第二王子が入っていたことは、今回のこのスピード感のある決定につながったんだと思える。
「じゃあ、マリア嬢も、同様の能力があると考えていいのか?」
ガイナーが頷く。
「金庫番に雇っている女性は、学院の中でも特に優秀な人間ですが、女性はトップと思える人間しか雇っておりません。…いずれ辞めさせられてしまうことを考えると、ただ優秀だと思えるだけではファム公爵を説得するに足りませんから」
ガイナーの説明に、アリーナは感謝する。認められているとは思っていたが、それほどまでに買ってもらえているとは思っていなかったせいだ。
「…そうか。結婚しても、妊娠しても、子が産まれても、働き続けるのに問題がないほどか?」
「それは、もちろんです。ファム公爵は子を産んだからと王妃に公務に出るなとおっしゃれましたか」
「我が姉にそんなことを言った日には、報復が恐ろしかっただろうな。」
苦々しそうに笑うファム公爵の実姉が、現在の王妃だ。とても精力的な王妃で、国民からの信頼も厚い。そんな女性が自分の姉だったにもかかわらず、ファム公爵は男尊女卑と言える考えを持ち続けていたわけだ。この国の女性蔑視がどれだけ根強いか、わかるというものだ。
「女性も働き手として十分な能力を持っています。ぜひこの機会に考えをあたらめていただけるよう、よろしくお願いいたします」
ガイナーが頭を下げる。
アリーナも、マリアも、同様に頭を下げる。
「いい。お前たち頭を上げるがいい。…副団長が言いたいことがよくわかった」
副団長? 顔を上げたアリーナたちは顔を見合わせる。
「女性と言うだけで優秀な人間を虐げるような国にとどまりたくはないと、たぶん金庫番で一番優秀だろう自分の婚約者を伴って隣国に移ると宣言したんだよ。隣国では貴族位も用意があると言われていると。」
は? とアリーナは目を見開く。
「確かに、アリーナ嬢が金庫番にいなくなったら、この国の損失だろうな。あの副団長を失うのも大きな痛手だがな。」
初めて聞く話に、アリーナは驚く以外はない。
「その一言で議会を大人しくさせたアリーナ嬢の婚約者殿の手腕は、見習うべきものだろうな。」
大きなため息をついて席を立つファム公爵に、習うようにアリーナたちも立ち上がる。
「これからも励んでくれ。」
それだけ言い残すと、ファム公爵は会議室を出た。
ガイナーはその後ろをついていくが、アリーナとマリアの2人は、ガイナーに手で制されてその場に残る。
パタン、と会議室のドアが閉じた瞬間、マリアが、キャー! と歓喜の声を挙げる。
閉じたドアを見つめるアリーナはいまだ、ファム公爵の言葉が実感できずにいた。
ファム公爵の言葉に、アリーナは頷く。
「はい。」
だからアリーナは、予算案を一切いじらなかった。ショパー侯爵家の領民への態度がよくわかる予算書をこの予算は無駄だろうと切り落とすようなことはしたくなかったから。
「参加する領民たちに手当てが割り当てられていた。工夫(こうふ)として働く者にも、料理番として働く者にも。…男性ならば、無駄だと切り落としていたかもしれん費用だ。」
河川工事の費用は勿論国から出されるが、人員については、領民の…ボランティアと言っていい。だが、自分たちの大事な生活が懸かっているため、普通に考えて領民は何の文句も言わずにその工事を手伝う。
ショパー侯爵が出した予算案は、その領民たちにわずかではあるが手当てを出す予算になっていた。それこそ、1日の食費くらいにしかならない金額だ。だが、水に流され作物が作れなくなった領地で、食べることにも事欠くだろう領民に、せめて食費だけでも、と考えただろうショパー侯爵の気持ちは汲みたいと思った。工夫たちには食事が提供される。しかし、家で待つ家族たちにはそんなものはない。働き手が工事にかかりっきりになっている以上、家族に収入を得る手段はない。
もし、河川工事の工事費に無駄なものが多かったら、アリーナとてそれを切り落とす選択をしたかもしれない。だが、ショパー侯爵の提出した予算は、無駄な費用など一切なかった。
河川の工事も同じような水害が起こった場合に決壊しないだろう程度の工事で、最新式のものではないだろうが、あの決壊が百年に一度くらいしか起こらないことを考えると十分な工事と言える。百年も経った頃には最新の修繕工事がされているだろうし。最新式にしてもそうでないにしても、百年を迎える前に修繕しなければいけないのは同じだ。
そこで費用を抑え、領民に食費程度の手当てを与える。
予算案を見て、アリーナも唸った。
今までいろいろな予算案を見てきたが、これほど領民のことを考えている予算案は初めて見たからだ。
領民は工夫(こうふ)としてボランティアをするのが当たり前と考える。だから、手当などない。
それが、今までの常識だった。
それをショパー侯爵は否、としたわけだ。十分な手当の金額にならないのは、その工期の長さと働く領民の人数を考えれば仕方がないだろう。
これがもし普通の流れになったとしたら、その時には、領民たちに十分な手当を与えられるかもしれない。アリーナは、新しい領地経営の姿を見せられた気がした。
「あれは面白い予算案だった。…私も参考にしようと思うくらいには。」
ファム公爵の言葉に、アリーナは目を見開く。
「何だ。私がやったらおかしいのかね」
「いえ。…ファム公爵が領民たちに手当てを配分するとすれば、他の貴族たちもその流れをくむことになるでしょう。すばらしいことだと思います」
今の今まで、アリーナはファム公爵のことを嫌な奴だとしか思っていなかったが、たったそれだけのことで、いい人だと格上げするのは、案外単純かもしれないとアリーナ自身も思う。
だが、今まで常識だとされていたことを変えるには、大きな権力を持った人間が動くことが一番手っ取り早いとアリーナも理解している。
例えば、今回の女性の働く権利の明記について、など。あの話し合いに王太子と第二王子が入っていたことは、今回のこのスピード感のある決定につながったんだと思える。
「じゃあ、マリア嬢も、同様の能力があると考えていいのか?」
ガイナーが頷く。
「金庫番に雇っている女性は、学院の中でも特に優秀な人間ですが、女性はトップと思える人間しか雇っておりません。…いずれ辞めさせられてしまうことを考えると、ただ優秀だと思えるだけではファム公爵を説得するに足りませんから」
ガイナーの説明に、アリーナは感謝する。認められているとは思っていたが、それほどまでに買ってもらえているとは思っていなかったせいだ。
「…そうか。結婚しても、妊娠しても、子が産まれても、働き続けるのに問題がないほどか?」
「それは、もちろんです。ファム公爵は子を産んだからと王妃に公務に出るなとおっしゃれましたか」
「我が姉にそんなことを言った日には、報復が恐ろしかっただろうな。」
苦々しそうに笑うファム公爵の実姉が、現在の王妃だ。とても精力的な王妃で、国民からの信頼も厚い。そんな女性が自分の姉だったにもかかわらず、ファム公爵は男尊女卑と言える考えを持ち続けていたわけだ。この国の女性蔑視がどれだけ根強いか、わかるというものだ。
「女性も働き手として十分な能力を持っています。ぜひこの機会に考えをあたらめていただけるよう、よろしくお願いいたします」
ガイナーが頭を下げる。
アリーナも、マリアも、同様に頭を下げる。
「いい。お前たち頭を上げるがいい。…副団長が言いたいことがよくわかった」
副団長? 顔を上げたアリーナたちは顔を見合わせる。
「女性と言うだけで優秀な人間を虐げるような国にとどまりたくはないと、たぶん金庫番で一番優秀だろう自分の婚約者を伴って隣国に移ると宣言したんだよ。隣国では貴族位も用意があると言われていると。」
は? とアリーナは目を見開く。
「確かに、アリーナ嬢が金庫番にいなくなったら、この国の損失だろうな。あの副団長を失うのも大きな痛手だがな。」
初めて聞く話に、アリーナは驚く以外はない。
「その一言で議会を大人しくさせたアリーナ嬢の婚約者殿の手腕は、見習うべきものだろうな。」
大きなため息をついて席を立つファム公爵に、習うようにアリーナたちも立ち上がる。
「これからも励んでくれ。」
それだけ言い残すと、ファム公爵は会議室を出た。
ガイナーはその後ろをついていくが、アリーナとマリアの2人は、ガイナーに手で制されてその場に残る。
パタン、と会議室のドアが閉じた瞬間、マリアが、キャー! と歓喜の声を挙げる。
閉じたドアを見つめるアリーナはいまだ、ファム公爵の言葉が実感できずにいた。
10
お気に入りに追加
86
あなたにおすすめの小説
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
不能と噂される皇帝の後宮に放り込まれた姫は恩返しをする
矢野りと
恋愛
不能と噂される隣国の皇帝の後宮に、牛100頭と交換で送り込まれた貧乏小国の姫。
『なんでですか!せめて牛150頭と交換してほしかったですー』と叫んでいる。
『フンガァッ』と鼻息荒く女達の戦いの場に勢い込んで来てみれば、そこはまったりパラダイスだった…。
『なんか悪いですわね~♪』と三食昼寝付き生活を満喫する姫は自分の特技を活かして皇帝に恩返しすることに。
不能?な皇帝と勘違い姫の恋の行方はどうなるのか。
※設定はゆるいです。
※たくさん笑ってください♪
※お気に入り登録、感想有り難うございます♪執筆の励みにしております!
玉砕するつもりで、憧れの公爵令息さまに告白したところ、承諾どころかそのまま求婚されてしまいました。
石河 翠
恋愛
人一倍真面目でありながら、片付け下手で悩んでいるノーマ。彼女は思い出のあるものを捨てることができない性格だ。
ある時彼女は、寮の部屋の抜き打ち検査に訪れた公爵令息に、散らかり放題の自室を見られてしまう。恥ずかしさのあまり焦った彼女は、ながれで告白することに。
ところが公爵令息はノーマからの告白を受け入れたばかりか、求婚してくる始末。実は物への執着が乏しい彼には、物を捨てられない彼女こそ人間らしく思えていて……。
生真面目なくせになぜかダメ人間一歩手前なヒロインと、そんなヒロインを溺愛するようになる変わり者ヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID3944887)をお借りしております。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
【完結】優しくて大好きな夫が私に隠していたこと
暁
恋愛
陽も沈み始めた森の中。
獲物を追っていた寡黙な猟師ローランドは、奥地で偶然見つけた泉で“とんでもない者”と遭遇してしまう。
それは、裸で水浴びをする綺麗な女性だった。
何とかしてその女性を“お嫁さんにしたい”と思い立った彼は、ある行動に出るのだが――。
※
・当方気を付けておりますが、誤字脱字を発見されましたらご遠慮なくご指摘願います。
・★が付く話には性的表現がございます。ご了承下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる