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番外編①
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「ヨハンナ様、お耳に入れたいことが」
声をかけてきたのは、タッペル公爵家の執事だった。
私は、できるだけ優雅に見えるように首を傾げてみせた。
この家の女主人は、私以外にはないと、示すように。
「何かしら?」
昔とは全然違う言葉遣いも、ヘンリック様との生活が長くなると、すっかり身についた。
私の努力のたまものだわ。
「あの娘の家に、エドヴァルド殿下が来たようです」
予想外の名前に、私は目を見開く。
「エドヴァルド殿下が?」
気に入らない気持ちをグッとこらえて、私はいかにも不思議そうな顔をして見せる。
まるで、純粋無垢な少女が、それにどういう意味があるのか理解できないように。
執事は、ふ、と表情を和らげると、首をゆっくり振った。
「ですが、心配は無用です。エドヴァルド殿下に興味を持たれたところで、あの娘とヘンリック様が離縁することはあり得ません。それに、あのエドヴァルド殿下です。特に害はないでしょう」
執事に言われなくとも、エドヴァルド殿下の存在を脅威に感じてなどいなかった。だって、ヘンリック様がいつも言っていたもの。
学友のエドヴァルド殿下は、ぼんくらだと。やる気もないから、国王から見放されていて、学院を卒業した後も、要職につくこともなく、プラプラと遊びまわっているのだと。
それは、社交界でも噂されていることで、間違いのない事実なのだと思うわ。
だけど、あの娘が、誰かの興味をひいた、って事実が気に入らなかった。
「でも、エドヴァルド殿下に、悪いうわさが立つといけないわ」
だけど、私は、ヘンリックの事実上の妻ですから。
優雅にことを運ばなければなりませんわ。
あの娘に、味方など不要ですわ。
私は、あたかもエドヴァルド殿下を心配するふりをして、眉を寄せた。
執事が大きく頷く。
「ヨハンナ様は、本当に心根が優しくていらっしゃる。大丈夫です。エドヴァルド殿下が訪ねて来ても、あの娘はいないと告げてもらうようにしましょう」
私もホッとした顔をして、頷いた。
「そうね。それがいいと思うわ」
スッとした気分になって、私はそのことをすっかり頭の外に追いやった。
だって、次の夜会に着ていくための、私が美しくかつ純粋に見えるドレスを決めなければならないから。
ああ、あの娘に、一つだけ感謝はしているのよ?
私を着飾るためのものを、自由に買える財産が手に入ったのは、あの娘が、ヘンリック様の条件を呑んでくれたから、だから。
だけど、それだけだわ。
ああ。この国にも、庶民も貴族の養子になれる制度があれば、私をどこかの貴族の養子にしてもらって、ヘンリック様の名実ともに妻となれるはずだったのに! 貴族の出でなければ他の貴族の養子になれないなんて法律を作ったのは、どこの誰かしら。
……それだけが、本当に残念だわ。
◇
「ヨハンナ様、お耳に入れたいことが」
耳打ちしてきた執事は、困ったような顔をしている。
「どうかしたのかしら?」
「エドヴァルド殿下は、庭先にいるあの娘と、度々会っているようです」
私の眉が寄る。庭先にいるなんて、淑女にはあるまじき姿だわ。
「エドヴァルド殿下に、悪いうわさがつかないかしら?」
「どうやら、あの娘に、殿下が文字を教えているようです」
私は瞬きをする。
「文字?」
「ええ。文字。それから、計算を習っているようです」
勉強しているだけ? 私は首を傾げる。
「エドヴァルド殿下手ずから教えていただくなんて、恐れ多いわ。あの娘に、家庭教師をつけたらどうかしら?」
「ええ、私もそう思ったのですが……ヘンリック様が」
「ヘンリック様が、なんと?」
「あの娘の話を私にするなと。エドヴァルド殿下の気まぐれで、何の役にも立ちはしないから、放っておけと。……本当は、ヨハンナ様の耳にも入れないように、と言われたのですが……」
ヘンリック様は、徹底的にあの娘をいないもののように扱うことにしたのね。
ならば、私もそれに従うまでだわ。
あくまで、従っているだけ。ふふ。
「ヘンリック様の気を煩わせることになったら、私も嫌だわ。今の話は、聞かなかったことにするから、私の言ったことも忘れて?」
エドヴァルド殿下があの娘に興味を持っているのは気に入らないけど、どうにかなるわけじゃないし。
もういいわ。あの娘のことは、気にしないことにしましょう。
執事が頷いて去っていく後ろ姿を見送るころには、私の頭の中は、明日宝石商が持ってくる予定の石をどう使うか考えるのに向いていた。
◇
「え? ヘンリック様、もう一度おっしゃって?」
私は怒った顔のヘンリック様が告げた言葉の中身が理解できなくて瞬きをした。
ねえ、おなかの赤ちゃん。ヘンリック様ったら、変なことを言い出したのよ?
「うちの財産が、あの娘に使い尽くされてしまった」
私はふ、と笑いだす。
「そんなはずがあるわけないわ」
あの田舎娘が、そんな大金を使い尽くすなんて、あり得ないわ。
時折、離れにいる使用人が、あの田舎娘が買ったものについて報告してくれるけれど、本、本、本、本、本、本、本。そして、まれに使用人が着ている服に毛が生えたような洋服しか買っていない。
どこで、そんな大金を使う余地があるのかしら?
「ヨハンナ、よく聞くんだ。あの財産は、使い尽くされて戻ってこない。そうエドヴァルド殿下が言っていた。どうやら慈善事業に使ったらしい」
憎々し気に告げるヘンリック様に、私の頭の中がクリアになってくる。
あの膨大な財産を、あの娘が使い尽くしたですって?!
「なん……ですって!」
「え?」
怒っていたはずのヘンリック様が、私の顔を見てぎょっとした表情になる。
「ヘンリック様! この子は、この子はどうなるのです!?」
「ヨ、ヨハンナ落ち着け! 一つだけ朗報だ。もうあの財産がなくなったのだから、あの娘との婚姻を続ける理由などなくなった。だから、離縁したのだ。ヨハンナとようやく結婚できるんだ」
「この子は、どうなるのです!? 結婚? それが何よ?!」
ヘンリック様が戸惑った表情に変わる。
「ヨハンナ? ようやく、結婚できるんだぞ?」
「あの膨大なお金が無くなったのに、結婚なんて意味ないわ!」
「え?」
呆然としたヘンリック様の表情に、私は自分が口走ってしまった言葉がまずかったことに気づく。
……怒りで我を忘れていたわ……。
「ヨハンナ? 私との結婚を望んでくれていただろう?」
おずおずと告げるヘンリック様に、私はいつものように微笑もうとして、はた、と止まる。
お金が無くなってしまった貧乏貴族にすがる意味があるかしら?
そもそも、ヘンリック様は膨大な財産を使うだけしか能がない方だったし。
だから、財産は減っていくばかりだと、そうは思っていたけれど。莫大な財産だったから、私が生きている間は安泰だと思っていたのに!
「今は考えておりません」
そうよ。私の魅力があれば、他の貴族の愛人になる事だって簡単よ。
だって、この子だって、誰の子かは私もわからないんですもの。
ヘンリック様は、子供に障りがあるといけないからと抱いてくれなかったけれど、こんな身重の体でも愛してくださる方はいるわけだし。
……もう、タッペル公爵家は見限って、出ていきましょう。
それが、いいわ。
一人結論にたどり着いて、前を見れば、鬼のような形相をしたヘンリック様がいた。落ち着かせて出ていかなければ。
私は得意の涙を目に浮かばせた。
「ヘンリック様、元々私は愛人にしかなれぬ身分だったのです。タッペル公爵家の貯えがなくなった今、私とこの子のせいで、タッペル公爵家が更に困ることを望んではおりません。私は市井で何とかやっていきますわ。ですから……支度金を持った貴族の令嬢と再婚されてください。それが、タッペル公爵家を再建するための唯一の手段なのです」
私はこぼれる涙をぬぐいながら、今までで一番の演技かもしれないと自画自賛する。
ガッ、と強い力で私の腕がつかまれる。
「ヨハンナ。私のもとから去るなど、許さない。持参金など必要ない。私が、絶対にこの家を再建して見せる。だから、安心してこの家で子供を産み育てるがいい!」
今までにない威圧感に、私は心から震える。
「ですが」
反論しようとする私に、ヘンリック様がニコリと笑って首を振る。
「安心して子育てができるよう、人の出入りがあまりない部屋で過ごすといい。私は、ヨハンナとその子がいるだけで、幸せなのだから」
ヘンリック様の目にある、狂気にも似た執着を見て、私は自分の運命を悟る。
……優雅な暮らしをしたかった、ただ、それだけだったのに。
完
声をかけてきたのは、タッペル公爵家の執事だった。
私は、できるだけ優雅に見えるように首を傾げてみせた。
この家の女主人は、私以外にはないと、示すように。
「何かしら?」
昔とは全然違う言葉遣いも、ヘンリック様との生活が長くなると、すっかり身についた。
私の努力のたまものだわ。
「あの娘の家に、エドヴァルド殿下が来たようです」
予想外の名前に、私は目を見開く。
「エドヴァルド殿下が?」
気に入らない気持ちをグッとこらえて、私はいかにも不思議そうな顔をして見せる。
まるで、純粋無垢な少女が、それにどういう意味があるのか理解できないように。
執事は、ふ、と表情を和らげると、首をゆっくり振った。
「ですが、心配は無用です。エドヴァルド殿下に興味を持たれたところで、あの娘とヘンリック様が離縁することはあり得ません。それに、あのエドヴァルド殿下です。特に害はないでしょう」
執事に言われなくとも、エドヴァルド殿下の存在を脅威に感じてなどいなかった。だって、ヘンリック様がいつも言っていたもの。
学友のエドヴァルド殿下は、ぼんくらだと。やる気もないから、国王から見放されていて、学院を卒業した後も、要職につくこともなく、プラプラと遊びまわっているのだと。
それは、社交界でも噂されていることで、間違いのない事実なのだと思うわ。
だけど、あの娘が、誰かの興味をひいた、って事実が気に入らなかった。
「でも、エドヴァルド殿下に、悪いうわさが立つといけないわ」
だけど、私は、ヘンリックの事実上の妻ですから。
優雅にことを運ばなければなりませんわ。
あの娘に、味方など不要ですわ。
私は、あたかもエドヴァルド殿下を心配するふりをして、眉を寄せた。
執事が大きく頷く。
「ヨハンナ様は、本当に心根が優しくていらっしゃる。大丈夫です。エドヴァルド殿下が訪ねて来ても、あの娘はいないと告げてもらうようにしましょう」
私もホッとした顔をして、頷いた。
「そうね。それがいいと思うわ」
スッとした気分になって、私はそのことをすっかり頭の外に追いやった。
だって、次の夜会に着ていくための、私が美しくかつ純粋に見えるドレスを決めなければならないから。
ああ、あの娘に、一つだけ感謝はしているのよ?
私を着飾るためのものを、自由に買える財産が手に入ったのは、あの娘が、ヘンリック様の条件を呑んでくれたから、だから。
だけど、それだけだわ。
ああ。この国にも、庶民も貴族の養子になれる制度があれば、私をどこかの貴族の養子にしてもらって、ヘンリック様の名実ともに妻となれるはずだったのに! 貴族の出でなければ他の貴族の養子になれないなんて法律を作ったのは、どこの誰かしら。
……それだけが、本当に残念だわ。
◇
「ヨハンナ様、お耳に入れたいことが」
耳打ちしてきた執事は、困ったような顔をしている。
「どうかしたのかしら?」
「エドヴァルド殿下は、庭先にいるあの娘と、度々会っているようです」
私の眉が寄る。庭先にいるなんて、淑女にはあるまじき姿だわ。
「エドヴァルド殿下に、悪いうわさがつかないかしら?」
「どうやら、あの娘に、殿下が文字を教えているようです」
私は瞬きをする。
「文字?」
「ええ。文字。それから、計算を習っているようです」
勉強しているだけ? 私は首を傾げる。
「エドヴァルド殿下手ずから教えていただくなんて、恐れ多いわ。あの娘に、家庭教師をつけたらどうかしら?」
「ええ、私もそう思ったのですが……ヘンリック様が」
「ヘンリック様が、なんと?」
「あの娘の話を私にするなと。エドヴァルド殿下の気まぐれで、何の役にも立ちはしないから、放っておけと。……本当は、ヨハンナ様の耳にも入れないように、と言われたのですが……」
ヘンリック様は、徹底的にあの娘をいないもののように扱うことにしたのね。
ならば、私もそれに従うまでだわ。
あくまで、従っているだけ。ふふ。
「ヘンリック様の気を煩わせることになったら、私も嫌だわ。今の話は、聞かなかったことにするから、私の言ったことも忘れて?」
エドヴァルド殿下があの娘に興味を持っているのは気に入らないけど、どうにかなるわけじゃないし。
もういいわ。あの娘のことは、気にしないことにしましょう。
執事が頷いて去っていく後ろ姿を見送るころには、私の頭の中は、明日宝石商が持ってくる予定の石をどう使うか考えるのに向いていた。
◇
「え? ヘンリック様、もう一度おっしゃって?」
私は怒った顔のヘンリック様が告げた言葉の中身が理解できなくて瞬きをした。
ねえ、おなかの赤ちゃん。ヘンリック様ったら、変なことを言い出したのよ?
「うちの財産が、あの娘に使い尽くされてしまった」
私はふ、と笑いだす。
「そんなはずがあるわけないわ」
あの田舎娘が、そんな大金を使い尽くすなんて、あり得ないわ。
時折、離れにいる使用人が、あの田舎娘が買ったものについて報告してくれるけれど、本、本、本、本、本、本、本。そして、まれに使用人が着ている服に毛が生えたような洋服しか買っていない。
どこで、そんな大金を使う余地があるのかしら?
「ヨハンナ、よく聞くんだ。あの財産は、使い尽くされて戻ってこない。そうエドヴァルド殿下が言っていた。どうやら慈善事業に使ったらしい」
憎々し気に告げるヘンリック様に、私の頭の中がクリアになってくる。
あの膨大な財産を、あの娘が使い尽くしたですって?!
「なん……ですって!」
「え?」
怒っていたはずのヘンリック様が、私の顔を見てぎょっとした表情になる。
「ヘンリック様! この子は、この子はどうなるのです!?」
「ヨ、ヨハンナ落ち着け! 一つだけ朗報だ。もうあの財産がなくなったのだから、あの娘との婚姻を続ける理由などなくなった。だから、離縁したのだ。ヨハンナとようやく結婚できるんだ」
「この子は、どうなるのです!? 結婚? それが何よ?!」
ヘンリック様が戸惑った表情に変わる。
「ヨハンナ? ようやく、結婚できるんだぞ?」
「あの膨大なお金が無くなったのに、結婚なんて意味ないわ!」
「え?」
呆然としたヘンリック様の表情に、私は自分が口走ってしまった言葉がまずかったことに気づく。
……怒りで我を忘れていたわ……。
「ヨハンナ? 私との結婚を望んでくれていただろう?」
おずおずと告げるヘンリック様に、私はいつものように微笑もうとして、はた、と止まる。
お金が無くなってしまった貧乏貴族にすがる意味があるかしら?
そもそも、ヘンリック様は膨大な財産を使うだけしか能がない方だったし。
だから、財産は減っていくばかりだと、そうは思っていたけれど。莫大な財産だったから、私が生きている間は安泰だと思っていたのに!
「今は考えておりません」
そうよ。私の魅力があれば、他の貴族の愛人になる事だって簡単よ。
だって、この子だって、誰の子かは私もわからないんですもの。
ヘンリック様は、子供に障りがあるといけないからと抱いてくれなかったけれど、こんな身重の体でも愛してくださる方はいるわけだし。
……もう、タッペル公爵家は見限って、出ていきましょう。
それが、いいわ。
一人結論にたどり着いて、前を見れば、鬼のような形相をしたヘンリック様がいた。落ち着かせて出ていかなければ。
私は得意の涙を目に浮かばせた。
「ヘンリック様、元々私は愛人にしかなれぬ身分だったのです。タッペル公爵家の貯えがなくなった今、私とこの子のせいで、タッペル公爵家が更に困ることを望んではおりません。私は市井で何とかやっていきますわ。ですから……支度金を持った貴族の令嬢と再婚されてください。それが、タッペル公爵家を再建するための唯一の手段なのです」
私はこぼれる涙をぬぐいながら、今までで一番の演技かもしれないと自画自賛する。
ガッ、と強い力で私の腕がつかまれる。
「ヨハンナ。私のもとから去るなど、許さない。持参金など必要ない。私が、絶対にこの家を再建して見せる。だから、安心してこの家で子供を産み育てるがいい!」
今までにない威圧感に、私は心から震える。
「ですが」
反論しようとする私に、ヘンリック様がニコリと笑って首を振る。
「安心して子育てができるよう、人の出入りがあまりない部屋で過ごすといい。私は、ヨハンナとその子がいるだけで、幸せなのだから」
ヘンリック様の目にある、狂気にも似た執着を見て、私は自分の運命を悟る。
……優雅な暮らしをしたかった、ただ、それだけだったのに。
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