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「ただ、これは憶測だから、事実はどうかわからないよ。俺は違和感を持ったってだけ」
巧が肩をすくめた。
「……事実を知るのは……早瀬、なんだろうな」
蒼佑は俯いた。
「どうかな。俺は早瀬さんのことは話に聞いてるだけで、実際に会ったことがある訳じゃない。だから、蒼佑のフィルターを通した姿しか知らないからな。その姿が真実だとは言い切れない。ただ、麻子さんの言うことが正しいとは限らない、ってことだけは間違いないけどな」
「……そんなこと言ったら、何が正しいかわかんないだろ」
「自分が何を信じるか。世の中、それしかないんだよ」
巧が目を伏せる。
「騙されても、か?」
「信じてるうちには、それが正しい、だろ?」
「でも……」
「人間なんてそんなものだろ。実際、今回のことだって、真実じゃなかったかもしれない噂が、結果的に人を殺してる」
巧が蒼佑を見る。蒼佑は唇を噛む。巧は首をゆっくりとふった。
「噂が真実かどうかなんて、他人には関係ない。だけど、噂を口にした時点では、その人たちにとって正しい情報なんだよ。……それが真実かどうかなんて確かめようとする人間は、ほとんどいない。例え、確かめられる立場にいても」
「北原の噂は、嘘だ。津山が流した、嘘だ。……麻子と組んで流した、嘘だ」
蒼佑は目を閉じて首を横にふった。
「津山さんの話は、中山君も言ってたね。でも、それも中山君一人の意見でしかないから、そういう可能性がある、としか言えないんじゃないかな。麻子さんのことは……確かに腑に落ちないんだけど……ただ、津山さんと今も仲がいいってだけで……決めつけることはできないんじゃないか?」
「いや、本当だよ」
蒼佑はきっぱりと告げた。
「どうして、そう断言できるんだ?」
巧が首を傾げる。
新幹線がトンネルに入り、低い音が車内に響く。蒼佑は反対側のガラスに映る自分と巧の姿をじっと見る。
「津山は、北原が推薦を貰う予定だった美大に、推薦で進学したんだ。北原が居たら、津山は推薦は貰えなかった。津山の家は、父親が亡くなってて、美大に進学できるような金銭的な余裕はなかったんだ。でも、その推薦なら奨学金が付いてて、津山も進学できたんだ……その推薦がなければ、津山は進学を諦めてただろうって、麻子は言ってた」
「美大の推薦……か。でも、それは、北原さんが亡くなったから降って来たチャンスで、たまたまなんじゃないのか?」
いや、と蒼佑は首を振った。
「初めて会ったとき、津山は言ってたんだ『成功のためならどんな苦労も苦労じゃないし、人を蹴落としてでもチャンスを奪いたい』って」
蒼佑の言葉に、巧が目を見開いて息をのむ。
「あの時は、津山の熱意に威圧された。でも……同時に感じた嫌悪感は……そう言うことだったのかもしれない」
蒼佑が外交官になるのを諦めた時、津山のような貪欲さがなかったせいなのかもしれないと思った。だけど、今はその貪欲さには嫌悪しかなかった。
「まあ、そんなこと素面で言ってるやつを、気持ちのいい相手だとは思えそうにもないけど……」
巧が困ったように目を伏せた。
蒼佑は祈るように両手を組んで、頭をその手に押し付けた。
「それに、麻子が津山の進学の背中を押した恩人だって、そういうことだろ?」
「確かに、そうとも……取れるけど……」
煮え切らない巧の言葉に、蒼佑は苛立つ。
「だって!」
蒼佑は勢いよく顔を上げて、唇を噛んだ。
「だって?」
巧が、蒼佑の顔を覗き込む。
「あの、展覧会の会場で、渡辺先生の写真の前で、僕は津山に言ったんだ『被写体も喜んでるだろう』って。そしたら……津山は頷いて笑ってたんだ。麻子も、『そうだね』って、目を輝かして写真を見てた……」
渡辺と付き合っていたとされる津山が、渡辺のために美和の不名誉な噂を流したとされる津山が、不幸な最後を遂げた愛しかったはずの人の写真の横で、被写体も喜んでいるだろうという蒼佑の言葉に、大きく頷き悠然と微笑んでいた。
美術部だった麻子が、美和の親友だった麻子が、美和を苦しませた原因であるはずの相手が撮った写真を、美和の自殺の発端を映すはずの写真を見て、興奮して目を輝かせた。
その答えは。
「……最低だな」
巧の声は冷たかった。
蒼佑も頷くより他はなかった。
美和が真実に辿り着いていなかったと信じたかった。だが、美和がわざわざ蒼佑に本を送ってきたのは、蒼佑の他に頼れる相手がなかったとしか想像できなかった。美和にとって正しい意味で味方になる人間が、周りに誰もいなかったとしか考えられなかった。
美和を思い出すのが辛いと告げた麻子の涙が、せめて本物だったと蒼佑は思いたかった。
新幹線がトンネルから抜け、真横から光が溢れる。目を細めた蒼佑にあの光景がよぎる。蒼佑は吸い寄せられるように空を見た。
蒼佑の目には、トルコキキョウの白い花が舞っていた。
ガラスに隔てられた青が滲んでいく。美和の描いていた青は、もう見つからなかった。
「大丈夫か?」
巧の声に、蒼佑は力なく首を横にふる。
「そう、だよな……。知りたくなかったか?」
「こんな残酷な話だって、知りたくはなかった。僕が、僕があの時、あのメッセージに気付いていれば……」
蒼佑の声が震える。
「蒼佑のせいじゃない。蒼佑が悪いわけじゃない」
巧のきっぱりとした声に、蒼佑は首を振る。
「僕が、北原の力になれてたかもしれないんだ。そしたら、北原は……今も絵を描いてたかもしれないのに!」
蒼佑は言いようのない苛立ちを、自分の太腿に拳で打ち付ける。
「罪に問えればいいのにな」
ぼそりと呟いた巧に、蒼佑は唇を噛む。
それで北原が生き返るわけではない。誰かが喜ぶわけではない。それでも、罪に問えるのならば、北原は浮かばれるかもしれない。
噂を流した。ただそれだけで、北原の死の罪を問えるわけではないと、蒼佑にだってわかる。それに、それも噂レベルだ。証拠にはならない。
「巧、何か……ないのか?」
巧はミステリー好きだ。もしかしたら、何かいいアイデアを持っているかもしれないと、蒼佑は期待したかった。
「あったら……きっと津山さんは、もう罪に問われてると思うよ」
巧が力なく首を横にふる。
「それに、訴えるとしたら、家族だろ。北原さんの家族は……きっと訴えようなんて考えもしないだろうね」
蒼佑は目を閉じて首を振る。
「きっと、僕が責めたって、津山には響きもしないだろうね」
蒼佑は、いつも飄々とした津山を思い出す。今回分かったことを津山に突き付けたところで、津山は鼻で笑ってしまいそうな気がした。麻子がどんな反応するのかは、蒼佑にはもう想像できなかった。
「証拠があれば……違うんだろうけど。今みたいに、ネット上に痕跡が残るようなものがあればな。……10年前には、せいぜいメールくらいだし。それにそんなもの、今更残ってるわけないしな」
巧の言う通り、もう10年前の話だ。噂が残っていたということも、珍しいだろう。勿論それが、死に関わるものだったから、同級生たちの記憶から消えなかったのだということは、間違いない。
蒼佑は、座席に体を沈めて、大きくため息をついた。ドッと疲れが襲った。
「何か方法がないか、考えてみるよ」
抑えた巧の声にわずかに視線を向ける蒼佑は、困ったように笑っていた。
「証拠はないって、自分で言ってたよ?」
「でも、渡辺先生の噂が残ってる」
巧は前を向いたまま告げた。
「渡辺先生の噂?」
「ああ。先生の噂。もしかしたら、そこから切り崩せるかもしれない」
「……でも、噂は噂だ」
「だけど、北原さんの噂より、真実かどうか証明しやすい」
蒼佑が目を見開いて、でものっそりと顔を巧に向ける。
「証明?」
「ああ。本当に盗作してたのか、ってこと」
「……でも、先生の名前、渡辺って名前しかわからないけど?」
巧が蒼佑を見る。
「見つけるのは難しくないよ。渡辺先生は、展覧会で入賞したんだろ? それに、その絵が北原さんの盗作だって言われた理由は、きっと尾道の風景画だったからだろうし」
あ、と蒼佑の声が漏れる。
「もしそれが盗作じゃなかったとしたら」
巧が頷く。
「噂は間違いなく、嘘だ」
「……でも、それだけで、津山が認めるかな?」
少しだけ浮き上がった蒼佑の気分は、すぐにしぼんだ。
渡辺先生の噂が嘘だった。だからどうした、と津山に言われるのがオチな気がした。
「さあな。探偵は、真実を見付けることが使命だと思ってるけど、それで罪を裁けるわけじゃないからな。探偵は、残念ながら神様じゃない」
巧が肩をすくめる。
蒼佑はまた体を座席に沈みこませると、目を閉じた。
「もし、その噂が嘘だってわかったら、少しは救われるのかな」
「どうだろうな」
嘘だとしたら……考えようとして、蒼佑はそれ以上思考が進まない頭に気付く。寝不足の上に、予想外の話が多すぎて、頭は疲れ切っていた。
「……ちょっと、寝てもいいか?」
蒼佑は目をつぶったまま告げた。
「ああ。東京に着いたら起こすから、寝ろよ」
巧が告げると、すぐに蒼佑の寝息が立つ。
蒼佑を見る巧の表情は、複雑そうに沈んでいた。
*
ホテルのラウンジのソファーが、思ったより体が沈み込んで、蒼佑は落ち着かなかった。
照り付けるような日差しは和らいだが、10月なのに、まだ昼間は暑いくらいだった。朝晩のために持って来たジャケットは、今は蒼佑の座るソファーに掛けられている。
キョロキョロと移ろう視線が、巧の姿を捉えて止まる。
「巧、こっち」
蒼佑が手を挙げると、巧が頷いて近づいてきた。
「悪い、待たせた」
息を切らせている巧は、急いできたのだろう。
「いや。そこまで待ってない。でも、珍しいな、遅れるの」
蒼佑は首を振る。巧との待ち合わせの時間は14時で、今は14時10分だった。
「悪い。忘れ物に気付いて一旦帰ったんだよ。で、津山さんは?」
「巧に言われた通り、30分に来るよ。もしかしたら遅くなるかもしれない。早く来ることは、まずないよ」
今までの津山と麻子を交えた待ち合わせで、津山が時間通りに来たことは、まずなかった。
「そうか」
「で、津山と会う前に、先に、集まったのって?」
真面目な顔をした巧が、蒼佑を見た。
「麻子さんと、別れたのか」
蒼佑は目を伏せる。
「ああ。連絡した通りだよ。婚約を破棄したんだ、別れる以外ないだろう?」
「それが、蒼佑の出した答え、なんだな?」
蒼佑は勢いよく顔を上げる。
「他に、どんな答えがある?」
「許す、って選択肢も、なくはない」
目を伏せる巧に、蒼佑は首を振る。
「麻子のことが信じられなくなったのに、許すも何もないよ」
「あの話だけで、決めたのか?」
蒼佑は首を振った。
「早瀬と話をした。……麻子を虐めた事実はないって。そもそも、麻子と話をしたこともないらしい。学部も違うから……接点もないしな」
「そうか……それを、蒼佑は信じたのか?」
「信じない理由がなかったからな。それに、早瀬に話を聞いたのは、最後に心を決めるため、みたいなものだったから」
「最後?」
蒼佑は頷いた。
「麻子に、聞いたんだよ。どうして津山と仲いいんだって」
「前と同じ説明されたんじゃないのか?」
「ああ。だから、中山から聞いた話をしたんだよ。そしたら、泣きじゃくって、津山に脅されてたって言い始めて……」
蒼佑の説明に、巧の溜め息が漏れた。
「渡辺先生の写真を見た時の笑顔が、脅されてできるんなら、逆にすごいよ。本当に、何が本当だったんだろうな」
蒼佑は目を伏せる。
「蒼佑を好きだったのは、本当だったんじゃないか」
巧の言葉に、蒼佑が苦笑する。
「だからって……人を陥れていいわけじゃないよ」
「そうだな」
巧が俯く。
「先に集まったのは、そのことを聞くため?」
蒼佑の質問に、少し間を置いて巧が首を横にふる。
「それだけじゃない。他にもある」
「渡辺先生の話か?」
巧が頷く。
「説明は、津山にするときでも構わないのに。証拠を、津山に突き付けるんだろう?」
今回、蒼佑がこのラウンジに津山を呼び出したのは、巧が“渡辺先生が盗作してない証拠を見つけた”と連絡してきたからだった。
「ああ、でも、先に蒼佑に話しておきたいことがあって」
巧の顔は緊張していた。その顔に、蒼佑も鼓動が早まる。
「間島、笠井と別れたって、本当か」
だが、緊張した空気は、津山の声に遮られた。
蒼佑は驚いて顔を上げた。津山は、どう見ても不機嫌だった。
蒼佑は時計を見る。まだ約束の時間にはなっていなかった。
「早かったな……」
「別に早く来ても構わないだろ。それより、笠井と別れたって」
「あの、津山さん。声を小さくしてもらってもいいかな? どうぞ、お座りください」
巧が、津山に着席を促す。その声は、どこか固さがあった。
初めて巧に目を向けた津山が、目を見開いた。
「……今日子先生」
津山の言葉に、巧が一瞬目を伏せて、しっかりと津山を見た。
「流石に、付き合った相手の顔は、覚えてるんだな」
「これ、何だよ?」
津山がギロリと蒼佑を見る。
責める津山の言葉に、蒼佑は答えを持ち合わせていなかった。
巧が肩をすくめた。
「……事実を知るのは……早瀬、なんだろうな」
蒼佑は俯いた。
「どうかな。俺は早瀬さんのことは話に聞いてるだけで、実際に会ったことがある訳じゃない。だから、蒼佑のフィルターを通した姿しか知らないからな。その姿が真実だとは言い切れない。ただ、麻子さんの言うことが正しいとは限らない、ってことだけは間違いないけどな」
「……そんなこと言ったら、何が正しいかわかんないだろ」
「自分が何を信じるか。世の中、それしかないんだよ」
巧が目を伏せる。
「騙されても、か?」
「信じてるうちには、それが正しい、だろ?」
「でも……」
「人間なんてそんなものだろ。実際、今回のことだって、真実じゃなかったかもしれない噂が、結果的に人を殺してる」
巧が蒼佑を見る。蒼佑は唇を噛む。巧は首をゆっくりとふった。
「噂が真実かどうかなんて、他人には関係ない。だけど、噂を口にした時点では、その人たちにとって正しい情報なんだよ。……それが真実かどうかなんて確かめようとする人間は、ほとんどいない。例え、確かめられる立場にいても」
「北原の噂は、嘘だ。津山が流した、嘘だ。……麻子と組んで流した、嘘だ」
蒼佑は目を閉じて首を横にふった。
「津山さんの話は、中山君も言ってたね。でも、それも中山君一人の意見でしかないから、そういう可能性がある、としか言えないんじゃないかな。麻子さんのことは……確かに腑に落ちないんだけど……ただ、津山さんと今も仲がいいってだけで……決めつけることはできないんじゃないか?」
「いや、本当だよ」
蒼佑はきっぱりと告げた。
「どうして、そう断言できるんだ?」
巧が首を傾げる。
新幹線がトンネルに入り、低い音が車内に響く。蒼佑は反対側のガラスに映る自分と巧の姿をじっと見る。
「津山は、北原が推薦を貰う予定だった美大に、推薦で進学したんだ。北原が居たら、津山は推薦は貰えなかった。津山の家は、父親が亡くなってて、美大に進学できるような金銭的な余裕はなかったんだ。でも、その推薦なら奨学金が付いてて、津山も進学できたんだ……その推薦がなければ、津山は進学を諦めてただろうって、麻子は言ってた」
「美大の推薦……か。でも、それは、北原さんが亡くなったから降って来たチャンスで、たまたまなんじゃないのか?」
いや、と蒼佑は首を振った。
「初めて会ったとき、津山は言ってたんだ『成功のためならどんな苦労も苦労じゃないし、人を蹴落としてでもチャンスを奪いたい』って」
蒼佑の言葉に、巧が目を見開いて息をのむ。
「あの時は、津山の熱意に威圧された。でも……同時に感じた嫌悪感は……そう言うことだったのかもしれない」
蒼佑が外交官になるのを諦めた時、津山のような貪欲さがなかったせいなのかもしれないと思った。だけど、今はその貪欲さには嫌悪しかなかった。
「まあ、そんなこと素面で言ってるやつを、気持ちのいい相手だとは思えそうにもないけど……」
巧が困ったように目を伏せた。
蒼佑は祈るように両手を組んで、頭をその手に押し付けた。
「それに、麻子が津山の進学の背中を押した恩人だって、そういうことだろ?」
「確かに、そうとも……取れるけど……」
煮え切らない巧の言葉に、蒼佑は苛立つ。
「だって!」
蒼佑は勢いよく顔を上げて、唇を噛んだ。
「だって?」
巧が、蒼佑の顔を覗き込む。
「あの、展覧会の会場で、渡辺先生の写真の前で、僕は津山に言ったんだ『被写体も喜んでるだろう』って。そしたら……津山は頷いて笑ってたんだ。麻子も、『そうだね』って、目を輝かして写真を見てた……」
渡辺と付き合っていたとされる津山が、渡辺のために美和の不名誉な噂を流したとされる津山が、不幸な最後を遂げた愛しかったはずの人の写真の横で、被写体も喜んでいるだろうという蒼佑の言葉に、大きく頷き悠然と微笑んでいた。
美術部だった麻子が、美和の親友だった麻子が、美和を苦しませた原因であるはずの相手が撮った写真を、美和の自殺の発端を映すはずの写真を見て、興奮して目を輝かせた。
その答えは。
「……最低だな」
巧の声は冷たかった。
蒼佑も頷くより他はなかった。
美和が真実に辿り着いていなかったと信じたかった。だが、美和がわざわざ蒼佑に本を送ってきたのは、蒼佑の他に頼れる相手がなかったとしか想像できなかった。美和にとって正しい意味で味方になる人間が、周りに誰もいなかったとしか考えられなかった。
美和を思い出すのが辛いと告げた麻子の涙が、せめて本物だったと蒼佑は思いたかった。
新幹線がトンネルから抜け、真横から光が溢れる。目を細めた蒼佑にあの光景がよぎる。蒼佑は吸い寄せられるように空を見た。
蒼佑の目には、トルコキキョウの白い花が舞っていた。
ガラスに隔てられた青が滲んでいく。美和の描いていた青は、もう見つからなかった。
「大丈夫か?」
巧の声に、蒼佑は力なく首を横にふる。
「そう、だよな……。知りたくなかったか?」
「こんな残酷な話だって、知りたくはなかった。僕が、僕があの時、あのメッセージに気付いていれば……」
蒼佑の声が震える。
「蒼佑のせいじゃない。蒼佑が悪いわけじゃない」
巧のきっぱりとした声に、蒼佑は首を振る。
「僕が、北原の力になれてたかもしれないんだ。そしたら、北原は……今も絵を描いてたかもしれないのに!」
蒼佑は言いようのない苛立ちを、自分の太腿に拳で打ち付ける。
「罪に問えればいいのにな」
ぼそりと呟いた巧に、蒼佑は唇を噛む。
それで北原が生き返るわけではない。誰かが喜ぶわけではない。それでも、罪に問えるのならば、北原は浮かばれるかもしれない。
噂を流した。ただそれだけで、北原の死の罪を問えるわけではないと、蒼佑にだってわかる。それに、それも噂レベルだ。証拠にはならない。
「巧、何か……ないのか?」
巧はミステリー好きだ。もしかしたら、何かいいアイデアを持っているかもしれないと、蒼佑は期待したかった。
「あったら……きっと津山さんは、もう罪に問われてると思うよ」
巧が力なく首を横にふる。
「それに、訴えるとしたら、家族だろ。北原さんの家族は……きっと訴えようなんて考えもしないだろうね」
蒼佑は目を閉じて首を振る。
「きっと、僕が責めたって、津山には響きもしないだろうね」
蒼佑は、いつも飄々とした津山を思い出す。今回分かったことを津山に突き付けたところで、津山は鼻で笑ってしまいそうな気がした。麻子がどんな反応するのかは、蒼佑にはもう想像できなかった。
「証拠があれば……違うんだろうけど。今みたいに、ネット上に痕跡が残るようなものがあればな。……10年前には、せいぜいメールくらいだし。それにそんなもの、今更残ってるわけないしな」
巧の言う通り、もう10年前の話だ。噂が残っていたということも、珍しいだろう。勿論それが、死に関わるものだったから、同級生たちの記憶から消えなかったのだということは、間違いない。
蒼佑は、座席に体を沈めて、大きくため息をついた。ドッと疲れが襲った。
「何か方法がないか、考えてみるよ」
抑えた巧の声にわずかに視線を向ける蒼佑は、困ったように笑っていた。
「証拠はないって、自分で言ってたよ?」
「でも、渡辺先生の噂が残ってる」
巧は前を向いたまま告げた。
「渡辺先生の噂?」
「ああ。先生の噂。もしかしたら、そこから切り崩せるかもしれない」
「……でも、噂は噂だ」
「だけど、北原さんの噂より、真実かどうか証明しやすい」
蒼佑が目を見開いて、でものっそりと顔を巧に向ける。
「証明?」
「ああ。本当に盗作してたのか、ってこと」
「……でも、先生の名前、渡辺って名前しかわからないけど?」
巧が蒼佑を見る。
「見つけるのは難しくないよ。渡辺先生は、展覧会で入賞したんだろ? それに、その絵が北原さんの盗作だって言われた理由は、きっと尾道の風景画だったからだろうし」
あ、と蒼佑の声が漏れる。
「もしそれが盗作じゃなかったとしたら」
巧が頷く。
「噂は間違いなく、嘘だ」
「……でも、それだけで、津山が認めるかな?」
少しだけ浮き上がった蒼佑の気分は、すぐにしぼんだ。
渡辺先生の噂が嘘だった。だからどうした、と津山に言われるのがオチな気がした。
「さあな。探偵は、真実を見付けることが使命だと思ってるけど、それで罪を裁けるわけじゃないからな。探偵は、残念ながら神様じゃない」
巧が肩をすくめる。
蒼佑はまた体を座席に沈みこませると、目を閉じた。
「もし、その噂が嘘だってわかったら、少しは救われるのかな」
「どうだろうな」
嘘だとしたら……考えようとして、蒼佑はそれ以上思考が進まない頭に気付く。寝不足の上に、予想外の話が多すぎて、頭は疲れ切っていた。
「……ちょっと、寝てもいいか?」
蒼佑は目をつぶったまま告げた。
「ああ。東京に着いたら起こすから、寝ろよ」
巧が告げると、すぐに蒼佑の寝息が立つ。
蒼佑を見る巧の表情は、複雑そうに沈んでいた。
*
ホテルのラウンジのソファーが、思ったより体が沈み込んで、蒼佑は落ち着かなかった。
照り付けるような日差しは和らいだが、10月なのに、まだ昼間は暑いくらいだった。朝晩のために持って来たジャケットは、今は蒼佑の座るソファーに掛けられている。
キョロキョロと移ろう視線が、巧の姿を捉えて止まる。
「巧、こっち」
蒼佑が手を挙げると、巧が頷いて近づいてきた。
「悪い、待たせた」
息を切らせている巧は、急いできたのだろう。
「いや。そこまで待ってない。でも、珍しいな、遅れるの」
蒼佑は首を振る。巧との待ち合わせの時間は14時で、今は14時10分だった。
「悪い。忘れ物に気付いて一旦帰ったんだよ。で、津山さんは?」
「巧に言われた通り、30分に来るよ。もしかしたら遅くなるかもしれない。早く来ることは、まずないよ」
今までの津山と麻子を交えた待ち合わせで、津山が時間通りに来たことは、まずなかった。
「そうか」
「で、津山と会う前に、先に、集まったのって?」
真面目な顔をした巧が、蒼佑を見た。
「麻子さんと、別れたのか」
蒼佑は目を伏せる。
「ああ。連絡した通りだよ。婚約を破棄したんだ、別れる以外ないだろう?」
「それが、蒼佑の出した答え、なんだな?」
蒼佑は勢いよく顔を上げる。
「他に、どんな答えがある?」
「許す、って選択肢も、なくはない」
目を伏せる巧に、蒼佑は首を振る。
「麻子のことが信じられなくなったのに、許すも何もないよ」
「あの話だけで、決めたのか?」
蒼佑は首を振った。
「早瀬と話をした。……麻子を虐めた事実はないって。そもそも、麻子と話をしたこともないらしい。学部も違うから……接点もないしな」
「そうか……それを、蒼佑は信じたのか?」
「信じない理由がなかったからな。それに、早瀬に話を聞いたのは、最後に心を決めるため、みたいなものだったから」
「最後?」
蒼佑は頷いた。
「麻子に、聞いたんだよ。どうして津山と仲いいんだって」
「前と同じ説明されたんじゃないのか?」
「ああ。だから、中山から聞いた話をしたんだよ。そしたら、泣きじゃくって、津山に脅されてたって言い始めて……」
蒼佑の説明に、巧の溜め息が漏れた。
「渡辺先生の写真を見た時の笑顔が、脅されてできるんなら、逆にすごいよ。本当に、何が本当だったんだろうな」
蒼佑は目を伏せる。
「蒼佑を好きだったのは、本当だったんじゃないか」
巧の言葉に、蒼佑が苦笑する。
「だからって……人を陥れていいわけじゃないよ」
「そうだな」
巧が俯く。
「先に集まったのは、そのことを聞くため?」
蒼佑の質問に、少し間を置いて巧が首を横にふる。
「それだけじゃない。他にもある」
「渡辺先生の話か?」
巧が頷く。
「説明は、津山にするときでも構わないのに。証拠を、津山に突き付けるんだろう?」
今回、蒼佑がこのラウンジに津山を呼び出したのは、巧が“渡辺先生が盗作してない証拠を見つけた”と連絡してきたからだった。
「ああ、でも、先に蒼佑に話しておきたいことがあって」
巧の顔は緊張していた。その顔に、蒼佑も鼓動が早まる。
「間島、笠井と別れたって、本当か」
だが、緊張した空気は、津山の声に遮られた。
蒼佑は驚いて顔を上げた。津山は、どう見ても不機嫌だった。
蒼佑は時計を見る。まだ約束の時間にはなっていなかった。
「早かったな……」
「別に早く来ても構わないだろ。それより、笠井と別れたって」
「あの、津山さん。声を小さくしてもらってもいいかな? どうぞ、お座りください」
巧が、津山に着席を促す。その声は、どこか固さがあった。
初めて巧に目を向けた津山が、目を見開いた。
「……今日子先生」
津山の言葉に、巧が一瞬目を伏せて、しっかりと津山を見た。
「流石に、付き合った相手の顔は、覚えてるんだな」
「これ、何だよ?」
津山がギロリと蒼佑を見る。
責める津山の言葉に、蒼佑は答えを持ち合わせていなかった。
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ミステリー
卒業も間近に控えたある日、七人の高校三年生たちは残り数日の高校生活を思い返していた。
この友人たちと過ごせるのも後わずか。彼らは悔いのないように最後の高校生生活を満喫する予定だった。
しかし、この中にただ一人、他のメンバーとは違う思いを抱いていた人物がいた。
そして殺人事件という悲劇となって、それは実行されることになる。
かつて殺人事件を解決したことがある式十四郎と榊刹那は、この殺人事件を解決するべく調査を始めるのだった。
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
復讐の旋律
北川 悠
ミステリー
昨年、特別賞を頂きました【嗜食】は現在、非公開とさせていただいておりますが、改稿を加え、近いうち再搭載させていただきますので、よろしくお願いします。
復讐の旋律 あらすじ
田代香苗の目の前で、彼女の元恋人で無職のチンピラ、入谷健吾が無残に殺されるという事件が起きる。犯人からの通報によって田代は保護され、警察病院に入院した。
県警本部の北川警部が率いるチームが、その事件を担当するが、圧力がかかって捜査本部は解散。そんな時、川島という医師が、田代香苗の元同級生である三枝京子を連れて、面会にやってくる。
事件に進展がないまま、時が過ぎていくが、ある暴力団組長からホワイト興産という、謎の団体の噂を聞く。犯人は誰なのか? ホワイト興産とははたして何者なのか?
まあ、なんというか古典的な復讐ミステリーです……
よかったら読んでみてください。
この満ち足りた匣庭の中で 一章―Demon of miniature garden―
至堂文斗
ミステリー
――鬼の伝承に準えた、血も凍る連続殺人事件の謎を追え。
『満ち足りた暮らし』をコンセプトとして発展を遂げてきたニュータウン、満生台。
巨大な医療センターの設立を機に人口は増加していき、世間からの注目も集まり始めていた。
更なる発展を目指し、電波塔建設の計画が進められていくが、一部の地元住民からは反対の声も上がる。
曰く、満生台には古くより三匹の鬼が住み、悪事を働いた者は祟られるという。
医療センターの闇、三鬼村の伝承、赤い眼の少女。
月面反射通信、電磁波問題、ゼロ磁場。
ストロベリームーン、バイオタイド理論、ルナティック……。
ささやかな箱庭は、少しずつ、けれど確実に壊れていく。
伝承にある満月の日は、もうすぐそこまで迫っていた――。
出題篇PV:https://www.youtube.com/watch?v=1mjjf9TY6Io
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