王妃のおまけ

三谷朱花

文字の大きさ
上 下
53 / 67

53

しおりを挟む
「リツカ……」

 中森さんの口から正しい音が紡がれて、なんだかこそばゆい気持ちになる。

「久しぶりに、呼ばれた」

 最後にリツカと名を呼んだのを聞いたのが母だったと思い出す。
 父はリッカと呼んだけど、母だけはいつもリッカと呼んだ。弟は小さい頃にりーちゃんと呼んでからずっとその呼び名だった。
 職場を変わって自己紹介した時にも、下の名前はリッカと名乗った。いつも聞き直されるから、あえてあの時はそう名乗った。だから、私の職場で正しい呼び名を知っている人はたぶんいない。リハビリテーション科の科長も、きっと履歴書で見ただけの名前の呼び方など忘れてしまっているだろうし。
 私の名前を正しく呼んでいたのは、母なりの愛情だったんだろうか。

「名前じゃたどり着かない理由はそれか。存在しないんじゃないかって不安になった時もあった」
「それでも探したんだ」
「音に関わる研究してたらリツカにたどり着くんじゃないか、と思うくらいには」

 そこまで私を想ってくれたのか。

「……私の研究に興味があるんですって連絡くれたのは、私だと気付いたから?」
「それもある。だけど、今研究してる内容に関係してるからって言うのは本当。でも、そういう理由でもなければ、立夏に近づくのは難しかったと思うから、あのタイミングで立夏があの内容で研究発表してくれたのは、ラッキーだったと思う」
「あのデータは、必要?」

 ふりなんだとしたら、本当は必要ないもので、わざわざ個人情報を患者さんたちに協力を得たうえでばらまきたいわけでもない。

「それは必要」

 反射的な中森さんの答えに、それは本当なんだろうな、と思う。

「じゃあ、いつでもいいって言うのも、本当?」

 研究していて、それを学会発表するのだとすれば、データを集めたりするのにタイムリミットはあるはずだと思うのだけど。学会誌と言うのであれば、時間の猶予はあるのかもしれないけど。

「……できたら、リミットはつけさせてほしいけど、立夏の気持ちを焦らせるみたいで嫌だったから、言わなかった」
「むしろリミットつけてもらわなかったから、データ云々は単なる口実かと」
「違う」

 中森さんの手が私の腕をつかむ。
 その手に、それまで感じていても気にもしていなかった熱を感じる。急に、夏の暑さが自分のものになったみたいに、むっとした空気を感じる。

「あつい」
「え。いや、ごめん?」

 私の声に反射的に手を放した中森さんが不思議そうに私を見る。

「ううん。私、今、ここに生きてるんだね」

 それまでは夏の暑さも、どこか他人事のような、膜を隔てた私の外側であってる出来事みたいで、自分自身で暑いと感じていなかったような気がする。
 それがいつからなのか、はっきりはしないけど、暑さも寒さも、それほど今まで堪えるようなことがなかったのは、私が今ここに生きていると思えていなかったせいなのかもしれない。

「うん。立夏はここに生きてる。……病院で立夏に会えた時、本当にほっとした。思っていた姿が夢ではなくて現実にあるものなんだって」
「現実、だよ」 

 今この目の前に起こっていることは、すべて現実だ。

「……だけど、この現実は結構残酷だったな。あんなに近かったはずの距離が大きく開いててショックだったし、彼女に心を開いてるのを見て、正直妬いた」

 中森さんは私が泣いたのを見ていたのかもしれない。後姿なんて見てても、わかるわけないと思うけど、中森さんなら、マシュー様ならわかるのかもしれない。

「でも、私が彼女に心を開こうとしたのは、中森さんのおかげなのかも」
「僕の?」

 その自分の呼び方に違和感を感じつつも、私は頷く。

「ええ。中森さんがあんな怒らすようなことを言わなければ、私は彼女と食事に行ったりもしなかった」
「……そうか。それは失敗したかも。焦って色々言うんじゃなかったな」
「でも、それがなければ今中森さんと話してませんけど」

 私が嫌がることを知っていて、中森さんは姿を見せずに私が家に到着すればそのまま帰ったはずだ。

「……そうか。それでも、僕だけにその信頼を向けてほしいと思うのは、独占欲が強すぎるせいかな」
「むしろ病んでるんだけど。私が人間らしくなったのを喜ぶくらいいいでしょ」
「誰にも懐かない立夏を自分だけに懐かせたいって思うのもダメなわけ?」
「人間的にはどうでしょう。それにね、中森さん?」

 私が言う言葉を予想したらしい中森さんが、肩をすくめる。

「何でしょう?」
「私、まだ中森さんを信頼できるまではない。たとえ、マシュー様の記憶を持っていたとしても、マシュー様と中森さんは違う人間だから」
「まあ、そうだけどね。どっかの漫画とかアニメみたいに、前世の記憶持ってるから、それならってめでたしめでたしにはならないよね」

 こぼれて行ったと思っていた“めでたしめでたし”が、確かに目の前にあるのかもしれないけど。

「確かにマシュー様のことを愛してますけど、中森さんのことを同じように愛せるのかは、正直わかりません」
「言うね」

 はー、と中森さんが息をつく。

「立夏があの世界に行った後なら、もう少し勝機があるかと思ったんだけどね」
「楽天的ですね」
「何しろ、こっちは何十年も立夏一筋なもんで」
「執着みたいなもんだよね。そもそも中森さんが私に会うのも今日が初めてでしょう?」
「電話で話したり、メールで連絡したりしてたけど」
「あれ、完全に事務連絡でしょ。余計な話なんてした記憶もないけど」
「あれで口説いてたら、完全に立夏は相手にしてくれなかったと思う。違う?」
「……口説かなくても、世間話とかいろいろあるでしょ?」
「何だ、そんな世間話をしたかったんだ。案外立夏は僕との会話が楽しかった?」

 中森さんが面白そうに私を見るから、ぐっと言葉に詰まる。

「……知的好奇心は満たされましたね。ええ、確かに中森さんとの会話は楽しかったですよ」

 それは、間違いないことで。だから、今日中森さんに会うことを、純粋に楽しみにしていた。
 恋愛感情とか、そういうものは……たぶん抜きにして。

「じゃあ、生理的に無理とかはないんでしょ?」
「……どうしてそういう話になるわけ」
「何か今日押しとかないと、立夏がこの話をなかったことにしそうだから」
「……もう今日はこの話はしたくありません」
「じゃあ、明日、僕が帰る前に会ってくれる?」

 中森さんが住んでいるのは東北で、私が住んでいるのは関東で、すぐに会える距離ではない。

「何時ごろですか?」

 別に会うとは言ってない!

「朝から夕方まで」
「……それって」

 呆れて言葉が出ない。
 マシュー様って、こんなに強引だったっけ?
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

婚約破棄されましたが、帝国皇女なので元婚約者は投獄します

けんゆう
ファンタジー
「お前のような下級貴族の養女など、もう不要だ!」  五年間、婚約者として尽くしてきたフィリップに、冷たく告げられたソフィア。  他の貴族たちからも嘲笑と罵倒を浴び、社交界から追放されかける。 だが、彼らは知らなかった――。 ソフィアは、ただの下級貴族の養女ではない。 そんな彼女の元に届いたのは、隣国からお兄様が、貿易利権を手土産にやってくる知らせ。 「フィリップ様、あなたが何を捨てたのかーー思い知らせて差し上げますわ!」 逆襲を決意し、華麗に着飾ってパーティーに乗り込んだソフィア。 「妹を侮辱しただと? 極刑にすべきはお前たちだ!」 ブチギレるお兄様。 貴族たちは青ざめ、王国は崩壊寸前!? 「ざまぁ」どころか 国家存亡の危機 に!? 果たしてソフィアはお兄様の暴走を止め、自由な未来を手に入れられるか? 「私の未来は、私が決めます!」 皇女の誇りをかけた逆転劇、ここに開幕!

どうも、死んだはずの悪役令嬢です。

西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。 皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。 アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。 「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」 こっそり呟いた瞬間、 《願いを聞き届けてあげるよ!》 何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。 「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」 義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。 今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで… ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。 はたしてアシュレイは元に戻れるのか? 剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。 ざまあが書きたかった。それだけです。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

毒を盛られて生死を彷徨い前世の記憶を取り戻しました。小説の悪役令嬢などやってられません。

克全
ファンタジー
公爵令嬢エマは、アバコーン王国の王太子チャーリーの婚約者だった。だがステュワート教団の孤児院で性技を仕込まれたイザベラに籠絡されていた。王太子達に無実の罪をなすりつけられエマは、修道院に送られた。王太子達は執拗で、本来なら侯爵一族とは認められない妾腹の叔父を操り、父親と母嫌を殺させ公爵家を乗っ取ってしまった。母の父親であるブラウン侯爵が最後まで護ろうとしてくれるも、王国とステュワート教団が協力し、イザベラが直接新種の空気感染する毒薬まで使った事で、毒殺されそうになった。だがこれをきっかけに、異世界で暴漢に腹を刺された女性、美咲の魂が憑依同居する事になった。その女性の話しでは、自分の住んでいる世界の話が、異世界では小説になって多くの人が知っているという。エマと美咲は協力して王国と教団に復讐する事にした。

悪役令嬢は永眠しました

詩海猫
ファンタジー
「お前のような女との婚約は破棄だっ、ロザリンダ・ラクシエル!だがお前のような女でも使い道はある、ジルデ公との縁談を調えてやった!感謝して公との間に沢山の子を産むがいい!」 長年の婚約者であった王太子のこの言葉に気を失った公爵令嬢・ロザリンダ。 だが、次に目覚めた時のロザリンダの魂は別人だった。 ロザリンダとして目覚めた木の葉サツキは、ロザリンダの意識がショックのあまり永遠の眠りについてしまったことを知り、「なぜロザリンダはこんなに努力してるのに周りはクズばっかりなの?まかせてロザリンダ!きっちりお返ししてあげるからね!」 *思いつきでプロットなしで書き始めましたが結末は決めています。暗い展開の話を書いているとメンタルにもろに影響して生活に支障が出ることに気付きました。定期的に強気主人公を暴れさせないと(?)書き続けるのは不可能なようなのでメンタル状態に合わせて書けるものから書いていくことにします、ご了承下さいm(_ _)m

廃妃の再婚

束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの 父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。 ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。 それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。 身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。 あの時助けた青年は、国王になっていたのである。 「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは 結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。 帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。 カトルはイルサナを寵愛しはじめる。 王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。 ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。 引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。 ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。 だがユリシアスは何かを隠しているようだ。 それはカトルの抱える、真実だった──。

処理中です...