あの日あの時

まつだつま

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あの日あの時

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「ただいまー」
 ドアの開く音と同時に甲高い大きな声がキッチンまで届いた。
 わたしはエプロンをはずして玄関へと向かった。
「おかえりなさい」
 靴を脱ぐ息子の黄色い帽子を見下ろした。
「ただいま」
 見上げる息子の額からは汗が吹き出ている。
「おかえりなさい」
 今日も無事に帰ってきた息子を抱きしめた。胸に息子の熱くなった体温を感じる。
「ただいま」
 息子がわたしの耳元でもう一度言った。息子の言葉と熱い吐息がわたしの耳をくすぐる。
「おかえり」
 もう一度、息子をぎゅっと抱きしめた。


「ただいま」
 大きくなった息子の声は体とは反比例して年々小さくなっていった。
「おかえり」
 わたしは玉ねぎをみじん切りする手を止めない。
「ただいま」
 息子がキッチンを抜けていく。
「おかえり」
 包丁を握ったまま息子の横顔を見た。


「ただいま」
 声変わりした息子の声は一段と低く小さくなった。
「おかえり」
 豚肉にパン粉をつけるのに忙しい。
 息子はキッチンを無言で抜けていく。
 わたしはパン粉つけに集中する。


 ドアの開く音がする。
「ただいま」の声はない。
 息子がキッチンを通り抜ける。
 無言のままこっちに顔を向けることもない。
「おかえり」
 ジャガイモの皮を剥きながら言ってみる。
 息子は振り向くことなく、自分の部屋へこもった。


「ただいま」の声がない日が一週間も続く。
 わたしから「おかえり」の声もかけなくなった。


 暗鬱とした日が続く。

 火にかけたカレーを長い時間かけて混ぜている。じっくり煮込んで具材がトロトロになったカレーが息子の大好物だ。

 ドアの開く音がした。
 今日も「ただいま」の声はない。
 一旦コンロの火を止めた。
 エプロンをつけたまま玄関へと向かった。

「おかえりなさい」
 靴を脱ぐ息子を見つめた。
 息子は俯いたまま靴を揃えている。
「おかえり」
 もう一度言ってみた。
 息子は俯いたままだ。
 背丈が変わらなくなった息子を思い切って抱きしめた。
 久しぶりに息子の体温を感じた。
 息子はわたしの胸の中でしばらく動かなかった。
 もう一度、力を入れてぎゅっと抱きしめた。
 息子の肩が微かに揺れた。
 息子の背中をさすった。
 息子がわたしの胸に顔をうずめ嗚咽しはじめた。
「おかえり」
 もう一度ぎゅっと抱きしめた。
「ただいま」
 涙声だ。
 息子になにがあったかはわからない。
 そのままずっと抱きしめていた。
「母さん」
「なーに」
 息子の顔を覗きこんだ。
「母さん、カレーの匂いがする」
「今日はあなたの大好物よ」


 あれから二十年。
 あの時、息子になにがあったのかは今もわからない。
 でも、あの時、カレーの火を止めて息子を抱きしめて良かったと思う。
 今、こうして孫を抱けているのは、あの日のあの時があったからのような気がする。
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