命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter4「命の針が止まるまで」

#2

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 数日後、僕は病室でユウと再会した。群青色のワンピースを纏ったユウは、おとぎ話の登場人物のように儚くて、だけど確かな存在感として僕の目に映っていた。

 事前にユウからは面会の許可を訊ねられて承諾していた。だから僕はユウが来ることも、そしてユウも僕が連絡を取り合えるまで回復していることも分かっている。しかししばらくのあいだユウは、僕の姿を信じられないとでもいうような眼差しで呆然と見つめていた。

 僕もまたどこか夢のような感覚から声を掛けるのを躊躇って、そのまっすぐで綺麗な瞳にフォーカスを合わせ続けていると、ユウが恐るおそるといった様子で口を開いた。

「コウタくん……?」

 ユウの不安定な声色が僕の心を揺らす。その緊張感がほのかに胸を心地よく締め付ける。

 それよりユウの声が正常に戻っていることに僕は安堵した。事故で意識を失う寸前に聴いたあの声は、僕が作り出した都合のいい幻想なんかではなかったのだ。何がきっかけで回復したかは分からないが、何物にも変えられないユウの大切な声が再び聞けたことを僕は嬉しく思う。

 その感情のままに、やあと手を上げて気さくに迎えるか、それとも神妙な面持ちでユウの名前を呼ぶ方が……と考えたところで、僕は思考にピリオドを打った。

 もうユウには未来の在りかを探って駆け引きをする必要なんてなかった。率直に、素直に、何も変換せず自分の気持ちをそのまま伝えればいいのだ。

「ユウ。ただいま」

 僕の呼びかけにユウの目がパッと見開く。

「あ……! ああ……! コウタくん……!」

 病室の入り口から僕が寝ているベットまでのわずかな距離を、ユウは体をふらつかせながら、だけどしっかりと踏みしめて歩いてくる。

 そうしてベットの真横まで辿り着いたユウは、やっぱり僕のことを信じられないとでも言うような目でまじまじと眺めた。視線では感じ得ないはずのくすぐったさが僕の肌を撫でる。

「手触っていい……?」

 ユウの問いかけに、僕は無言で頷く。

 最初は指先で突つくように、ユウは恐るおそる僕の手に触れた。確かに存在していることを認識したのか今度は一転、包み込むように入念に触れる。やがて確信したように「夢じゃない……」とユウが呟いた。ようやく現実として映してもらえたようだ。

「コウタくんおかえり……!」

「またユウに会えて嬉しいよ」

「私もね……! コウタくんに会えて本当に嬉しい……!」

「ユウが救ってくれたんだよ。あの時、ユウが僕の名前を呼んでくれたから意識が戻ったんだ」

「だって私のせいで……本当にごめん……」

「いやそれは違う。僕もあの日はユウを誘おうか迷っていたんだ」

「違うの。私が急に呼び出したせいで、ううん、もっと前から話すことだってできたのに――」

 先ほどまでのゆっくりな時の流れはどことやら、しばらく一歩も譲らない責任の取り合い攻防戦が続き、僕はこの話題を打ち切る。

「この話はお終いにしよう。せっかくまた会えたんだ。今まで言えなかった本当の気持ちを話そう」

 僕はユウが声を出せなかった時に話したことをもう一度打ち明けた。前回と違うのは、そのすべてにユウの言葉が返ってくることだ。ユウがどんな風に感じてどんな風に思ってくれていたか、僕はそれを一つもこぼさないように抱え込んで人生の地図に落とし込んでいく。

 これまで何もなかった荒野に木々が生い茂り、道を引くように川が流れ、そして生命が誕生していく。文明が発達し、豊かな世界に育ち、変わらぬ時が刻まれていく中で僕はユウと出会う。

 ユウも自分の過去を話してくれた。聞けば聞くほど自分の話をもう一度聞いているようだった。

 それと同時に僕たちが何度巡り合っても上手くいかなかった理由が分かった気がした。僕たちはいざ幸せを目の前にしても、本当の幸せの形も色も大きさも何一つ知らなかったのだ。ただ逸れないように、浮かないように、目立たないように、必死に自分を演じて生きていくだけで精一杯だった。それは僕たちが自分のためではなく、他人のために生きてきたからだ。

「もっと早くに話せていればよかった。中学生の時、私がコウタくんの言う通りにしていれば、どちらかが先に打ち明けられていたかもしれないのに」

「それを言うなら僕も同じことが言えるよ。でも」

 と言った僕は言葉を区切り言い直す。

「でもたぶん、これでよかったんだよ。早過ぎても遅すぎてもタイミングがズレていて上手くいかなかったんだと思う。僕たちが同じ道を辿って合流するには、たくさんの時間が必要だったんだ。すれ違ってしまったことも、思いを伝えられず離れてしまったことも、ちゃんと意味があったんだよ。だから今こうして上手くいったことを喜ぼう」

 どんなことがあっても生きてさえいたから、いま僕たちはこうして本当の声を使って話すことができている。

 微笑んで頷いてくれたユウが僕の瞳に映る。これは頑張って生きてきた僕への最初のご褒美だ。僕もまた微笑む。ユウも同じように感じてくれていたら幸せなことだ。

 これからは自分のために生きていい。これまで見過ごしてきたたくさんの幸せをこの目に映すため、もう一度僕たちは手を取り合ってこの世界を生きていく。

「そうだ、この病院の庭先に綺麗な花があるらしいんだけど、よかったらユウと一緒に見たいんだ」

「どんなお花?」

「僕も話を聞いて知ったからまだ分からないんだ。いつでも見に行こうと思えば行けたけど、ユウと一緒に初めての瞬間を見たくて」

「え、私と?」と聞き返したユウが驚きながらも嬉しそうな表情を浮かべる。

「ちょっとこれを押してくれないか。車椅子を漕ぐのって結構な重労働なんだ」

「……うん! 任せて!」

 そうして僕たちは二人で院内を移動していく。道中、微笑ましく眺めてくれた看護師さんや、「若いっていいねえ」と呟く他の患者さんの視線が少し気恥ずかしかったけれど、とても心地よい気分だった。

 庭先の一角に、配色や配置を考えて植えられた花は確かに噂通り綺麗だった。だけどそれを一人で見ていても僕は心を動かされなかっただろう。

 大切な人と一緒に見られること、その感情を共有できること、それが何よりも綺麗で幸せな記憶として残っていく事実を、現実として目に映せたことで確信することができた。僕はそれを奪われないように、傷付かないように、大切に心の奥に保管して鍵をかける。

 これで二度とこの気持ちを忘れることはない。
 いつの日か隣にいるのがユウではなくなったとしても、忘れてはいけない大切なことだ。
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