命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter3「仇花が生きた世界」

#20

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 コウタくんと再会して一年の月日が経った。
 二十一歳の年のクリスマスイブ。私はコウタくんを誘い、思い出の街広場で待っていた。

 この場所だけは良い意味で昔のままだ。そこにいる人こそ違えど、たくさんの人が過ごした時間が空間に刻まれていて、歴史が漂うような匂いを感じる。その空気感がまた新たに訪れる人たちの人生に触れているような気がして、世代と共に受け継がれていくならとても素敵なことだな、と思いながら私は手鏡を広げた。

 今日のために美容院で髪を綺麗にしてもらい、ふだんは付けないネックレスも首にかけて精一杯のお洒落をした。だけど服装はもはや正装と言っていいほど変わらずセーラー服だ。

 こんな真冬に制服で過ごすことにも慣れたものだ。もっともそんなことより、現役を三年も過ぎているのに制服を着用していることを少しは恥ずかしがるべきだろうか。けれど、これでいい。私が私でいられる理由を、周りの目を気にして排除する必要性はどこにもない。

 コウタくんの家からこの場所までは約三十分ほどと過去の会話から記憶している。突然呼び出してしまったから一時間を見積もって待っていよう。何度か笑顔の練習をして手鏡を閉じた私は、コウタくんが来るまで思いを馳せることにした。

 大学には春から再び通い始め、アルバイトも無理のない範囲でシフトに入れてもらい、ほとんど以前と変わらない平穏な日常に戻りつつあった。コウタくんとは月に一回、カラパラのライブを観に行く時だけ会うようになり、らむと会うのもその時だけだ。

 そんな日々と並行して、今年はあることに挑戦して取り組んだことがある。私の将来に関わることで初めて自分の意思で選択し、そして最後までやり遂げたことだった。この経験はこれまでのどんなことよりも価値があるものだったと思う。

 声を取り戻してからも、らむとコウタくんの前では変わらず沈黙を貫いていた。自分が臨む挑戦に対して明瞭な結果を残してから、二人の前では声を出して報告と感謝を伝えたいと思っていたからだ。それもようやく今日叶えることができる。コウタくんに伝えたこの後、らむにも打ち明ける予定だ。

 今日という日を迎えるまで私はたくさんの人に力をもらった。私のことを幼き頃からずっと守ってくれた大親友のらむ。私が音楽に触れている姿が好きで応援すると言ってくれた妹。生きる意味や理由を体現化して教えてくれたカラパラという素敵なアイドル。そしてなにより私の人生を大きく変えてくれたコウタくん。それ以外にもこれまで私と出会った人全員に、たとえそれが嫌な記憶と紐付けされていても意味があったのだと思う。

 私が音楽をここまで続けてこられたのは、ただの娯楽や趣味に収まらず、私がこの世界で生きるための呼吸器となったからだ。だから私に音楽を教えてくれた両親にも感謝している。願うことならいつか認めてもらえたらなんて夢を見ている。

 まずはコウタくんに全てを伝えたい。一年越しにこの思いを。

 頭の中で話すことを整え、ある程度の文章が固まってきた時、へくしっと間抜けなくしゃみが私の口から出た。意識が切り替わり、スマホで時刻を確認してみると、既に目安にしていた一時間が経過している。考え事をしていると時間の流れはあっという間だ。

 チャットアプリを開くと、私が送ったメッセージに「今すぐ行く」とコウタくんから返信が届いたのを最後に、トークルームの時は止まったままだ。

 約束もせず突然今から来てと呼び出したのは私の勝手だし、コウタくんにだって予定はあるだろうから必ずしも自宅にいるとも限らなかった。今日明日とカラパラのライブもあり、もしかしたら今頃ライブハウスで熱中している頃だったのかもしれない。

 それなら邪魔しちゃったなと思った私は『忙しいならやっぱり大丈夫』と連絡を入れることにした。一年という区切りの良いタイミングとして今日を選択したけれど、日を改めることには問題ない。

 それなら今日は一人でイルミネーションを満喫して帰ろうかなと思った時、ひとつの音が聞こえた。コウタくんからの返信を知らせるスマホの通知音でもなく、待ち合わせ相手と会って歓喜した誰かの声でもなく、会場に流れているクリスマスソングが切り替わったわけでもなく、規則的で且つ機械的な高音。

 それは救急車のサイレン音だった。特別珍しいことなんかじゃない。街中を歩いている時、家で過ごしている時、どんな場面でも聞こえてくる機会はある。現に周りを見渡してみると、私以外の人たちはみなイルミネーションを眺めていて気にも留めていない。

 音はそのまま現場を通り過ぎたように思えた。しかし嫌な胸騒ぎが身体から離れていかない。風で草木の葉が擦れる音のような、細い雨粒が葉を叩く音のような、見えない何かがすぐそこまで迫ってくる感覚に鳥肌が立った。

 頭の中に浮かんだ一つの仮説に私はすぐ首を横に振る。それは考えすぎだろう。いくら私が幸せの形を多く知らなくとも、そこまで悲劇的に物事を考える必要はない。しかし。

「ジングルベル~! ジングルベル~! 鈴がなる~!」

 小さな女の子が上機嫌に歌っている姿。

「ねえ、あれ見て! サンタさんのイルミになってる!」
「ほんとだ。背景にして写真撮ろうか」

 私と同年代カップルの幸せそうな姿。

「この街も変わらないなあ……」

 カメラを構えて郷愁にかられるように微笑み呟く男性。

 その幸せを吸収する度に、誰がこの空間のバランスを取っているのだろうと悪い癖が出た。仮にそんな幸せの帳尻合わせが存在していたとしても、不幸を受容れるのは私じゃなくてもいいのに。それどころかこれではコウタくんまで道連れにして悲劇的に考えていることになる。それでも──。

 気付けば白い息を吐きながら私は走っていた。ゆっくりと時の流れが進む空間で、セーラー服の女の子が血相を変えて走っている姿はとても奇妙に見えるだろう。あるいはみな、救急車のサイレン音を気にしなかったように、目の前の幸せに夢中で気付いていないかもしれない。

 会場入り口を抜けたすぐのところで明らかに人だかりができている場所を見つけた。混雑していて入場規制がかかっているわけではない。ほとんどの人は視線を数秒向けるだけで通り過ぎていくけれど、立ち止まる者はみな揃って、そこにある“何か”に視線を向けている。

 その現場を見ないということもできた。いまこの瞬間、コウタくんが待ち合わせ場所に来ていて私を探しているかもしれない。それでも一瞬だけ、このモヤモヤを取り除くために確認するだけだと私は現場の中心部に向かう。

 すみませんと謝りながら縫うように人混みを掻い潜り、開けた視界に映る光景を見て、私はすぐに大切な人の名前を叫ぶことになった。まるで用意していた台詞のように。

「コウタくん!!」

 彼が私と同じ制服を着ていたからというより、一目見ただけで残像が重なり合うように、そこに仰向けで倒れているのがコウタくんだと分かった。何もかも悪い直感通りに物事が進んでいく。何人かの方が声を掛けているけれど、コウタくんが応対している様子はない。

「すみません! 状況を教えてください! 待ち合わせ相手なんです!」

 急いで近くまで駆け寄り声をかけると、目撃者であるという女性が優しく教えてくれた。

 自転車に乗っていたコウタくんが、一時停止無視をした自動車と出会い頭に衝突したこと。コウタくんの意識はあるものの、会話をできる状態にないこと。大きな外傷こそないけれど、受け身を取れず頭を強く打った可能性があること。

 つまり状況は限りなく悪い方へ辿っている。違う。私はこんなことを望んでいない。早くこの不幸を堰き止めなくては。
 
 心配から思わず体に触れてしまうと、コウタくんは痛みを堪えるように顔を歪めた。咄嗟に離そうとすると、コウタくんが弱々しい力で私の手首を掴んだ。私のことを認識しているのだろうか。私は躊躇いながら添えるように手を重ねる。

「コウタくん? 私の声が聞こえる?」

 わずかな反応から私の声は聞こえているようだ。けれど言葉として認識できているかは危うい。たしかに、目を背けたくなるような外傷はないけれど、額からツーッと垂れる流血が確認できる。素人の私にはハンカチで拭ってあげることしかできなかった。

 既に私に話をしてくれた女性が救急車を要請してくれたようで、その到着を祈るように待つ。怪我を負ってるコウタくんにとってあまりにも長く感じる時間だろう。せめてその痛みが少しでも和らぐように、私はコウタくんに声をかける。

「コウタくん、大丈夫だからね。すぐに助けてくれるよ」

 コウタくんの目には涙が浮かんでいた。きっと私には想像を絶する痛みなのだろう。何度も声を掛けて、体温を分け与えるように手を重ねて、コウタくんの命が途切れず紡いでくれることを私は心から強く願う。

 今度は遅すぎる時間の流れに焦燥しながら、救急車はまだ来てくれないのかと辺りを見渡した時、私は言葉を失った。

 ひそひそと身を寄せ合って話す者。
 珍しいものを見たと興奮気味な表情で視線を向ける者。
 私たちにカメラを向けて傍観する者。

 過去の記憶がフラッシュバックする。まただ。そうやって背景も何も知らない人間が、結末だけを覗いて言葉を残していく。そんなの撮って何が面白いんだろう。またそうやって私たちの命は消費され、誰かの活力に変換されていくのか。

 でもこうなったのは私のせいだ。会いに来てなんて私が言わなければ。もっと早くに私が勇気を出していれば。なにより昨年のクリスマスイブ、素直に声を出して助けを求めていれば。

「ごめんねコウタくん……。全部私のせいだ……」

 私の目から滑り落ちた涙がコウタくんの頬に落ちた時、コウタくんの目蓋がゆっくりと開いた。その瞳の光があまりにも眩しくて私は目を細めた。

 その中で聞こえたコウタくんの声は残酷すぎるほど綺麗で美しかった。

「僕を見つけてくれてありがとう」

 心臓が跳ねた。そのまま身体から飛び出していきそうなのを堪えると、強い痛みが胸を襲った。その言葉の真意を探りたくなくて、私はコウタくんに悲痛の叫びをぶつける。

「違うよコウタくん! 見つけてくれたのはコウタくんだよ! 本当の私がこの世界にいることを証明してくれて、今日までたくさん私を救ってくれた! 私、コウタくんのおかげで自分のやりたいことを見つけられたんだよ? まだ言えてないのにこんなのダメだよ……。だからどうか、もう一度目を覚まして……! 私を救ってくれたヒーローはこんなところで倒れたりなんてしないよ!」

 再会してから一年も話す時間があったのに。こんなにも話したいことがあるのに。このまま物語が終わってしまったら、ずっと私を支えてくれたコウタくんが報われない。

 曖昧でもいい。不器用でもいい。辻褄が合わなくてもいい。ここからは私が一秒でも長く物語の続きを描き続けてコウタくんを救う番だ。

 刹那、その決意を嘲笑うような悲しい声が聞こえた。

「こんな真冬に自転車乗るなんて無責任だよな。車の運転手も被害者だよ」

 その言葉は、私の鼓膜を通してそのまま心に突き刺さった。いつの日か両親に言われた言葉のように鋭利だったけれど、コウタくんが今苦しんでいることに比べたら、こんな痛みは感じないようなものだった。

「どうせろくでもない人生しか送ってこなかったんだろ。最後くらい迷惑かけるなよな」

 迷惑? いつコウタくんが迷惑をかけた?

 思えば、自分のことを話すコウタくんはいつも周りのことを気遣っていた。特に両親に対しては、自分にも期待に応えられなかった責任があると悲しい顔をしていた。

 でもそれは違う。他人から押し付けられる期待や理想は自分を壊してしまう。たとえそれが家族の言葉であったとしても正しさになるとは限らない。

「そんな重荷を背負わなくてもいいんだよ」

 それはコウタくんに掛けた言葉でもあり、私自身に言い聞かせた言葉でもあったのかもしれない。

「少しだけ待っててね」

 コウタくんの手を優しく撫でたあと、私はゆっくりと立ち上がり、先ほど言葉を吐き捨てた男の前まで歩みを進めた。歳は私とコウタくんと同じくらいだろうか。でもこれだけは自信を持って言える。同じ時間を生きてきたなかで、この世界の美しさも醜さも知っているのは私たちの方だと。

 男は最初こそ驚いたように私を見つめていた。しかしすぐにこの現状が面白いと思ったのだろう、周りの観客を煽るように戯けた仕草を見せた。構わず私は言葉をぶつける。

「謝ってもらえますか?」

「はあ?」

「コウタくんに今すぐ謝ってください」

「俺が? 何で? あ、もしかして彼女さん? それは不運だったね」

 へらへらと笑う男の顔を見ていると、対話する気持ちも失せてしまう。なぜ被害者を知る者だと分かってもなお、こんな冷酷なことが言えるのだろう。それも理解できないから先ほどのような言葉を口にするのだろうけれど、不運だなんて形のない言葉でコウタくんの人生を語らないでほしい。

「あなたにコウタくんの何がわかるんですか?!」

 大きな声を出した私に、男は一瞬ビクッと体を震わせた。

「な、なんだよ。マジになっちゃって。高校生のガキが歯向かってくるなよ」

 安全圏から言葉を飛ばすことも、思わぬ反撃があって怯んだことも恥ずべきなのに、それでも自分の非を認めず今度は外見で判断して攻撃の手を止めないらしい。それなら私も枠から少しくらいはみ出しても許されるだろう。

 私は大きく息を吸い込んで、そして力強く吐き出した。

「私たちが貴方に何をしたって言うんですか?! いつだって理想を押し付けて! それを演じられなくなったら敵意を向けて! だから身を守って静かに過ごしているだけなのに! また平気な顔をして土足で人の心を踏みつけて!」

 たぶん、コウタくんはこんな私を望んでいない。だけどこうしないと私たちは報われない。悪い人ばかり得をして、黙っている私たちは無情にも搾取されていく。言わなきゃ分からないことがあるなんて嘘だけど、でも言わずに苦しむよりはいいかもしれない。ただ黙って生きてると思ってるなら大間違いだ。いつだって反撃の時を覗っているのだと知らしめないと。

「コウタくんがどれだけ苦しい思いをして生きてきたかあなたに分かりますか?!」

 分からないよね。私の大切な人の苦しさを、悲しさを、辛さを、のうのうと何も考えずに生きている人間に分かられてたまるか。それなら赤の他人に言ったって意味ないのに。それでも言わなきゃ分からない。私たちがこんな気持ちを抱えて生きていることも。

「そうやって私たちの心に入り込んでくるなら! どうして最後まで見てくれないんですか?!」

 私はいま格好の餌だ。どうせこの部分もカメラを向けている者に映像として残され、切り取られ、面白おかしく使われる。何も知らないくせに、何も分からないくせに、何の生産性もない暇潰しのために。

「私たちを救ってくれないんですよね……? 責任を一緒に背負ってくれないんですよね……? それなら最初から関わらないでください……。私たちは生きるだけで精一杯なんです……。もう放っておいてください……」

 それでも本心を押し殺して、言葉を柔らかく放っている自分が嫌になった。だからせめて自分の気持ちだけは押し殺さないように訴えかけ続けた。でも長くは続かなかった。沸騰した熱が急激に冷めて頬を濡らす涙が止まらない。

「なんか泣いてんだけど」と男が友人と思しき取り巻きに向かって笑っている。

 ああ、ダメだ。何も伝わらなかったんだ。周りを見ても同じだ。言葉にこそしないだけでみんな同じ顔をしている。これだけ言ってもまだスマホを向けて囁いて、異常で異質なものを見るような眼差しを向ける。

 もうこんな世界は視たくないと私は俯いた。
 ごめんねコウタくん。頑張ったけど勝てなかったよ。

――知れば知るほど救いがないな この世界は。

 そう口ずさんだ時、誰かが私のことを掴んだ。とうとう手を加えられるのかと私は怯えて顔を上げる。

「お姉さん落ち着いて」 

 いつの間にか婦警さんが私の側にいて宥めていた。この状況で落ち着ける人がいますか? と言葉をぶつけても仕方がないことは現場の空気感からもう分かっていた。

 コウタくんの近くには救急隊の人が救護してくれていた。私の役目はもう終わった。あとはもう祈るだけだ。

 涙はもう乾いていた。人間は悔しいときにも涙が出るらしい。最近、初めて知ることばかりだ。

 コウタくんも涙を流すことはあるのだろうか。きっと私と同じで隠してしまうんだろうな。でも我慢しなくていいんだよ。私にもコウタくんの涙を拭ってあげることはできるから。そんなことを思っているだけでは届かない。言わなきゃ分からないこともある。それは理解しようと耳を傾けてくれている人に限るけど、とても大事なことだ。次にコウタくんと話したときはきっと。

「コウタくんは助かりますか? 助けてくれますか?」

「ええ、必ず」

 婦警さんは私の背中を撫でながら頷いてくれた。何の根拠もない答えだったけれど、今はその言葉に縋るしかなかった。

 気付けば降りしきる雪が白銀の世界に染め上げている。しばらく止みそうにない。

 どうかこれが悲しみの装飾ではありませんように。誰もが想像できる安易な結末でも構わないから、コウタくんが救われるストーリーでありますように。

 まだこの世界にそんな夢を叶えてくれる人がいるとすれば。

 私は上空を見上げて祈るように目を閉じる。
 お願いサンタさん。空からこの光景を見ているなら、どうかコウタくんの命を救って。
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