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Chapter3「仇花が生きた世界」
#16
しおりを挟むそうして迎えた約束の日はひどく冷え込んでいた。道中のことはほとんど憶えていない。車にクラクションを鳴らされたり、誰かに危ないよなんて言われた記憶は断片的に残っているけれど、私の目の前には一筋の光しか映っていなかった。
もう少しでコウタくんに会える。あまりにも長い苦しみだった。それもようやく解放される。
中学生の時、私たちは偽名を騙って会話していたことを思い出した。コウタくんはダーク、私はレイ。たぶん、この名前は私たち自身を表していたのではなく、私たちがそれぞれ望んでいたことなのだと思う。私はどこかで救われるだろうと光を求めて、コウタくんは救いなんてないと闇を求めて。
どちらが正しいかは今でも分からないけれど、希望なんてあるせいで何度も苦しんだのは事実だ。最初から期待していなければ傷付くこともなかった。だからコウタくんの生き方はとても合理的で正しい。
文化祭の本番前、逃げ出そうと言ったコウタくんの誘いに乗っていたら、私たちは救われていただろうか。たとえそれがメリーバットエンドだとしても、私たちは一瞬でも幸せを感じることができただろうか。
今日に至るまで何度も考えたけれど、人生のどんな物事においても一つの答えに絞るのは難しい。自分なりに選択して答えを導き出しても、時期や環境においても正解は変わるし、今日の正しさが明日になったら間違いになっていることも珍しくない。
それなのに生きていれば選択の連続を迫られるうえに、二度と同じ条件でやり直すことはできない。だから人生における“運”と呼ばれるものは、そういうときに引き当てて使うものだと私は思っている。
つまり私は幼き頃、母親から受け取った言葉を誤って解釈した悪運を引いてしまったわけだ。ツキがなかったと済ませるには、あまりに重い十字架だ。
そんなことを考えながら待ち合わせ場所まで辿り着き、約束の三十分前まで時を進めた時、不意に私はひとつの不安を抱く。
今日という約束の日、私は当然コウタくんが来てくれるものだと脳内で話を進めていた。しかしその仮定があまりにも脆くて崩れやすいことを、手のひらに舞い落ちてすぐに溶けていった雪を見て気付く。
ふと辺りを見渡すと、カップルや家族連れが映画の登場人物のように燦然とこの世界に染まっていて、イルミネーションに負けないくらい綺麗な幸せの花びらを咲かせていた。おまけに空は雪まで降らせる洒落た演出まで加えた。その空間のおかげで、私も大切な人を待つ女の子と周りから認識してもらえているだろう。ここに悲劇や惨劇なんて落とす必要はない。コウタくんが来ることで全てが完成する、月並みなシンデレラストーリーで良いのだ。
だけどもしコウタくんが来なかったら。あの日から三年間、その可能性を一度も考えたことがなかった。私が一日たりともコウタくんのことを忘れなかったように、コウタくんもまた私を忘れることなどないという根拠のない自信があった。同じ痛みを分かち合い、同じ時を過ごし、同じ未来を約束したのだから、枝分かれした道を歩んでも最終地点は同じ場所に繋がっているのだと信じ続けていた。
しかしコウタくんにとってこの約束が足枷になっていたら?
私が三年の時を耐えてようやく報われると思っている反面、コウタくんは三年の時を耐えてようやく解放されると思っていたとしたら?
相対した二人が出会ってしまったら、何もかも壊れてしまうのではないか?
そんな曖昧な気持ちで迎えたのが良くなかったのだと思う。
結論から述べると、コウタくんはちゃんと来てくれた。まだ視界には米粒くらいの大きさの時に認識した私は「コウタくん」と呟いていた。
びっくりした。自分の声が呼吸のように、いとも簡単に出た。あれほど錆び付いていた喉が、今は滝のような潤いを持ち、全てを吐き出したいと叫んでいる。
「コウタくん」ともう一度言ってみる。私の聴覚が正常に機能しているなら、やはり間違いなく声が戻っている。運命という言葉は、こういう瞬間に生まれたのではないかと高揚する。
そんな感動に浸っているあいだも、コウタくんは数年ぶりの再会にも関わらず私の元へ一直線に歩いてくる。特に待ち合わせに最適な目印があるわけでも、詳細な時間を手紙に記していたわけでもない。こんな別人のような私に気付いているのだろうか。その答えもあと十数秒もしないうちに分かる。
と同時に私は悩んだ。これからコウタくんと接し続けることは私のためにはなる。しかし、コウタくんを苦しませてしまうことになるのではないか。三年もあれば新しい世界を作るのには十分だ。何も変わっていない……いや、この世界に価値を見出せなくて変わり果てた私の姿を見てコウタくんはどう思うだろう?
きっとコウタくんは優しいから私に寄り添ってくれようとする。私が傷付かないように言葉を、私の心を癒すために行動を、私が生きられるように全てを作り選んでくれる。でもそんなの嫌だ。それは昔の私が散々してきた演じることと変わりない。それでは本当のコウタくんに触れることはできない。私はありのままのコウタくんと接していたいのだ。
だけど今の私にコウタくんと関わる資格はない。寸前になって声こそ取り戻したけれど、毎日泣いてばかりいる私なんてコウタくんは望んでいないだろう。
せっかくコウタくんが取り戻してくれた純粋な花咲ユウは、もうコウタくんの記憶の中でしか生きていない。それならせめて、今の私が過去の私を守ってあげるべきではないか。
ここで私が過去のことを話して何になる? 同情されて、慰められて、励まされるのも良い。しかしそうしたとき、私はもう自分の力では立てなくなる。一生コウタくんに責任を背負わせて生きていくことをとても幸せなんて呼べない。
離れることなんて望んていないけれど、それ以上にコウタくんには幸せになってほしい。
「ユウ……だよな?」
だから。
「久しぶり。会えて嬉しいよ」
私は声が出ないことにした。
「ずっとこの日を待ち望んでいた。ユウに聞きたいことも言いたいこともたくさんあるんだ」
幸いにもと言うべきなのか、らむの前でも声が戻っていなかったから、仮にコウタくんがらむにコンタクトを取って探られても問題はない。
「正直、怖い気持ちもある……。僕の過去を話すことで、ユウは幻滅するかもしれないし、二度と会いたくないと思うかもしれない。でも、それでも。ユウには僕のことを知ってほしいし、僕もユウのことが知りたい。僕にとってユウは、かけがえのない大切な人だから」
そんな大事なことを、たった十数秒のあいだに決めてしまった。
『ごめんね』
声を出せず唇だけ動かした私を見て、コウタくんの息を呑む音が聞こえた。その表情はとても困惑していて、私を保護してくれた時のらむと同じ目をしていた。この日に至るまで同じような目はたくさん向けられてきたけれど、私にとって大切な人から見られるその視線はまた違った痛みを感じるものだった。早くこの場から逃げ出してしまいたかった。
三年越しの約束にも関わらずすぐに帰ろうとした私を、コウタくんは駅前のバス停まで見送ってくれた。
乗り込んだバスが発車する寸前、コウタくんが不器用な笑顔で手を振ってくれた。その光景に私は思わず視線を逸らす。すぐに揺れ動いた車内の振動で涙がこぼれた。コウタくんにはもっと素敵な笑顔があるのに、私があんな表情をさせてしまったのだと思うと罪悪感に押し潰されてしまいそうだった。
あれほどコウタくんとの再会を待ち望んで生きる意味としてきたのに、どうして私は悲劇のヒロインを演じているのか。進路を両親に打ち明けて否定された時のように、コウタくんにも受け入れてもらえないかもしれないと怖かったから? それも一つの理由としてある。
しかしおそらく、私はコウタくんとの別れなんて最初から微塵も望んでいなかったのだと思う。こんな私を見てもなお、それでも君が必要だとコウタくんに言ってほしかったのだ。
もっと鮮明に言うなら愛されたかったのだ。それは恋愛的な感情ではなく、一人の人間として受けとめてほしかった。花咲ユウという徒花のような儚くとも命あるものが、コウタくんにとって代わりのいない唯一無二の存在であると証明してほしかったのだ。
そうすることでしか私はもう、自分の存在意義を測ることができなくなっていた。たった一つの細い糸に私の心臓は繋がれていて、かろうじてこの世界にぶらさがっている。その糸を持っているのはコウタくんしかいない。たとえその手を離されたとしても、私はコウタくんを恨むことはない。私の大切な人がそう判断したのなら、この世界に未練なんて残らない。好きな人に抽象的にでも最期をみとってもらえるなんて幸せなことだ。
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