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Chapter3「仇花が生きた世界」
#15
しおりを挟む翌年の十二月十日、私は家を飛び出した。
朝一にまだ将来の道が決まっていないことを両親に電話で叱られた。大学で顔も名前も分からない人にナンパされて断ったら舌打ちをされた。アルバイト先でお客さんに理不尽に怒られた。そんな嫌なことが重なった。
もちろんそれらは、私の心で膨らんでいた風船を割った針に過ぎない。たまたまこの日だったというだけで、いずれこうなる運命だった。よく持ち堪えたほうだと思う。
帰宅してすぐにシャワーを浴び、簡易的な食事で空腹を満たしたあと、高校の時の制服に身を包んでターミナル駅まで歩みを進めた。およそ一時間の道のりで頭が冷めれば引き返そうと思っていたけれど、より身体は熱を持ったので決行することにした。
四列シートの夜行バスは、安価のメリットより過酷さのデメリットが上回るのか空席がよく目立っていた。翌日が何でもない平日というのも関係しているだろう。私にとって目的地に辿り着ければそれでいいし、今はなるべく人がいる空気も感じたくないので好都合だった。
窓側の席に座った私は、間もなく発車したバスに揺られながら、しばらく窓の奥の景色をぼんやりと眺めていた。
夜に家出というのは私にとって大きな反抗だった。実家に住んでいた時から周りと比べると厳しい門限をしっかり守り、一人暮らしをしてからもその習慣は消えていなかった。
高校生の頃は不満を持っていたけれど、最近は特にその気持ちも失せていた。大学の友人が夜通し遊んで寝ていないだとか、好きな人の家に泊まったと話を聞くたびに、私の知らない世界の話をされているようで反応に困った。それらに対して興味の持ち方が分からず、同時に疎外感も抱くのだから面倒な思考だった。
まるで私は飛翔能力が欠如した飛べない鳥のようだ。自分を偽り続けて失くした羽根なのに、毎日空を飛ぶ同族を見て私もいつかは羽ばたきたいと夢を見ていた。だから私もようやく仲間入りできたようで嬉しかった。
胸の高鳴りを抑えながら目蓋を閉じると、暗闇の奥底にコウタくんの顔が浮かぶ。あれから千日の時を経ってもなお、その顔は褪せてない。私の夢想によって都合よく書き換えられている部分もあるだろうけれど、それで今日まで生きてこられたのだから何も問題はない。
もう二週間後に控えていた約束の日を待てなかった。しかし当然、当日になるまでコウタくんに会うことはできない。探し当てるなんて途方もないことだし、何よりコウタくんも高校を卒業して地元を離れているかもしれない。結局今の私には、ただ時間が過ぎ去るのを待つことしかできない。それでも会いに行きたかった。そんな自分の気持ちに嘘を付きたくなかった。
衝動的に駆け抜けた割に頭の中は至って冷静だった。大学は間もなく長期休みに入るため心配はいらない。しかしアルバイトはそうも言っていられない。
連絡先を交換していた社員の主婦さんに、非常識なのは承知のうえで相談の連絡をメールで入れた。大学の生活に未だ慣れることができず体調を崩して……と断片的には嘘ではない言葉を厳重にコーティングした。幸いにも人数に余裕のあるシフトが常に組まれていたので、落ち着くまでゆっくり休んでいいとすぐに承諾してもらい、心配の言葉までかけてもらってしまった。瞬時に良心の呵責が襲ってスマホを見られなくなった私は俯く。
こうやって社会に出たら自分だけの責任ではなくなる。自分の生き方も無責任と言われる私が、他人の責任も背負うなんてとても耐えられない。
本当に日々普通に働いている人たちがすごい。どうしてそんな平気な顔をして生きていけるのだろう。それとも一人の時は私と同じように悩んでいるのだろうか。
ふと顔を上げて窓の奥を見つめると、酔っ払いと思わしき人が千鳥足で歩いていた。辛いときはお酒を飲んで忘れるとよく聞くけれど、それでは根本的な解決になっていない気がする。お酒に限らず、世に溢れる幸せと言われる娯楽や嗜好の全ては、醜い世界を誤魔化すための現実逃避に過ぎないのではないかとさえ思ってしまう。
それが生きるということなら、やっぱり私は大人になんかなりたくない。見たくないものばかりだ。
考えることをやめた私は意識が途切れるのを待つ。このまま眠りに付いて二度と目が覚めなければ悩むこともないのだろうか。生きたい気持ちはあるのに、シャボン玉のように浮かんでパッと消えられたらなんて気持ちもある。わからない。自分のことなのに自分が。
ああ、また考えている。
考えて答えが出たことなんてないのに。
数年ぶりに故郷の地に戻った私は、その日から安価なネットカフェを拠点にして生活を始めた。必要最低限のものだけを口にして、何をするわけでもなく放浪者のようにただ街中を歩き続けた。
文化祭の前日、コウタくんと一緒に歩いた道のりに立つと強い郷愁にかられた。個人店がチェーン店に変わっていたり、空き地が駐車場になっていたり、街並みの風貌はたった数年で別世界のように変わっていた。それでもあの日の思い出は今も私の心に留まり続けていて、変わらない景色を頭の中に描くことができる。
あの日から一歩も前になんて進めていない。しかしこの記憶が生き続けている限り、私はこの世界に存在していたことを認められる。だから今日も歩き続ける。忘れないようにずっと、ずっと。
「ユウちゃん……?」
それは何日目の朝だっただろう。見つかりたくない人の声が聴こえた。恐るおそる振り返ると親友のらむが居た。正直言うと、その人物がらむであると確証はなかった。けれど、いつも優しい声で私に話しかけてくれたその声色が記憶の片隅に触れた。
私と違って、らむは綺麗な大人の女性になっていた。きっとすれ違っただけでは、私はらむであると瞬時に判断できずスルーしていたと思う。
こんな高校の時の制服を着て放浪している私を、らむは今どんな目で映して声をかけたのだろう。振り返ってしまった以上、私がユウであると認めてしまったので、いまさら白々しく別人を装うことなんてできない。なにより、セーラー服に刺繍されている名前が私であることを証明している。
らむがゆっくり近付いてくる。逃げたいという気持ちと受け止めてほしいという気持ちが交差してぶつかり合い、どちらも泡となって消えた。やがて目の前でぴたりと止まったらむは、私の顔を心配そうに覗き込んだ。そして決壊の言葉を浮遊させる。
「大丈夫?」
大丈夫という言葉はどうしてこんなにも簡単に心を濡らしてしまうのだろう。
『たすけて』
今までなら助けを求めることなんてできなかったのに言葉にできた。だけどなぜか声が出なかった。それでも僅かに動いた口の動きを、らむは正確に読み取ってくれて私を抱きしめてくれた。頬を伝う涙があることに、まだ私の感情は死んでいなかったのだと安堵する。
結果的にらむに見つかったのは幸運だった。勢いそのままに家を飛び出たことで、見積もりを誤ったお金は尽きかけていて、約束の日まで持ち越すには野宿でもしないと乗り越えられない状態だった。
らむの家に居候させてもらうことになった私は久しぶりに人の温もりを感じた。もっとも私が他人の善意を冷まさないように受け取ったのは、いま目の前にいるらむとコウタくんくらいだったけれど。
たくさん聞きたいことがあるはずなのに、らむは私をまるで久しぶりに帰省した家族のように(もちろん想像の話でしかない)もてなしてくれた。美味しいごはん、温かいお風呂、心休まる寝床。そのどれもが今の私の身体に深く染み渡った。
声を出せなくなった私に「話したくなったらでいいからね」と言われると申し訳なくてやっぱり涙が止まらなかった。ごめんねと何度も言ったけれど、喉元で押し返される言葉が空気中に浮遊することは一度もなく、心の中に腐敗物として溜まっていった。
日中、らむは社会人として働きに出ていたので、私は一人でいる時間のほうが多かった。テレビや漫画本を好きに見ていいよとは言われたものの、それらに集中できるほど気持ちは安定していなかったし、何もせず過ごすような落ち着きもなかった。
こんなとき、ギターでもあれば自分の本当の気持ちを引き出せたかもしれない。しかし手元にあるのは、わずかなお金が入った財布とスマホだけだ。だから必然と私の一日は外をふらつくことから始まり、らむが仕事を終えて帰宅すると一緒にご飯とお風呂を済ませて寝るだけという自堕落な生活を送っていた。
意味もない虚無の一日を過ごして約束の日が来るのを待つ。指折り数えるさまは、子供がクリスマスプレゼントを楽しみに毎日過ごしている姿にそっくりだったと思う。その目に輝く光の重みは段違いに違っただろうけれど。
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