命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter3「仇花が生きた世界」

#13

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 そんな毎日を繰り返して再び進路と向き合う時期になり、私はたくさん悩み考えた。高校受験の時は自分には何もなくて、ただ両親の期待や理想通りに生きられたらと思っていた。

 今もその気持ちは大筋変わらない。けれど、あの時には不明瞭だった音楽という道が拓けた。なにも音楽の専門学校に通いたいというほどまだ強い熱量はない。しかしこの自分の気持ちが本当に確かなものなのか、大学期間のうちに明瞭とさせたかった。

 事前の二者面談で思い切って担任に相談すると、意外にも否定されることはなかった。両親との関係性も話して伝えることが不安だと私が言葉をこぼすと「分かるよ。でもね、言わなきゃ分からないこともあると思うんだ」と担任は言った。言わなきゃ分からないこと。その言葉を聞いた時、私はちゃんと関心した表情を作ることができていただろうか。

 その言葉が間違いだとは思わない。でも一瞬の勇気でそんな単純明快に問題が解決するのなら、私はこれほど悩んでいない。あるいはその言葉に正しさを持たせるなら、あまりにも手遅れだった。もう両親の理想である私という人格が形成されてしまっている。枠から一寸でもはみ出たらサイレンが鳴り、その瞬間私は牢獄に閉じ込められて自我を奪われる。変わりたくても変われない。

 そう思いながら「そうですよね。話してみます」と私は先生に笑って感謝を伝えた。悪い癖だ。

 三者面談を翌週に控えた日の夜、私は初めて両親に自分のやりたいことを打ち明けることにした。正直なところ、両親に今すぐ認められるとは思っていない。

 以前、コウタくんが初めて声を出してくれた日、その嬉しさを自宅に持ち帰り、思わず文化祭で弾き語りをするんだと話したことがあった。しかし両親は、趣味の範囲を超えて音楽に触れられるのは高校生までだから楽しんできて、というようなニュアンスであっさりと会話を流した。それは大学では勉学を最優先にするのはもちろん、サークルや文化祭規模の披露でさえ今後音楽に触れるのを認めないということでもあった。

 だから計画的に文章を練った。認められなくても、理解くらいはしてもらえることを期待して。私はこれまで人に好かれる仮面を幾度となく付けて散々演じてきたのだ。それくらいお手の物だろう。花咲ユウという物語の主人公を演じられるのは、他の誰でもない私しかいないのだから。

 平日も休日も大好きなギターの時間を削り、何度も添削を繰り返して、明るい未来を想像しながら私は言葉を紡ぎ合わせていった。そういえば、コウタくんも歌詞を書いた時、自分の人生と照らし合わせながら考えたと言っていた。頬杖をついて、時折横目で私の弾き語りを見てくれながら考えていた時、こんな気持ちだったのかなと思うと頑張ることができた。

 そうして完成させた言葉たちを両親の前に届けた私は、祈るように目を閉じて俯いた。

 志望した大学は両親が望む学校ではない。カリキュラムに音楽の分野が入っていることに当然疑問を持つだろう。けれど私は今、自分の気持ちを包み隠さず伝えることができた。両親には初めての経験だった。今すぐには届かなくても、理解されなくても、いつかはきっと認めてもらえたら。

 そう信じて私は再び顔を上げた。しかし私の目に映ったのは、希望を感じる間もなく現れた絶望だった。耳を塞ぐ時間さえなかった。

「音楽でどうやって生きていくつもりなの? それだけで食べていけるほど甘い世界ではないし、ユウだけの人生じゃないのよ? 無責任なことは言わないで!」

「もっと真剣に将来と向き合え! そんな道に進んだら恥ずかしくて周りに顔向けできないじゃないか! これまで父さんたちがユウにどれだけ――」

 突然、そのようなことを言われたわけではなかったと思う。しかし記憶に残ってる母の言葉は正確に私の心の急所を捉えた。呼吸の仕方を忘れてしまったような、声も出せないほどの苦しい痛みが一瞬にして全身に広がる。だからその後に続けられた父の言葉は途中から何も聞こえなくなった。だけど母より崩れていたその表情を見れば、聞こえなくて良かったと思った。

 どのくらいの時間、私は言葉を浴びせられていたのだろう。気付けば自室のベットにいた私は天井をぼんやりと見つめていた。カーテンの隙間から月明かりが僅かに部屋を照らしている。その小さな光でさえ今の私には掴めそうにない。

 未だ頭の中をうるさく駆け巡る言葉に、私は思考を合わせる。

――音楽でどうやって生きていくつもりなの?

 違うよ、お母さん。音楽をやっているから私は生きていられるんだよ。音楽がなかったら、本当の私はもう居なかった。その方がお母さんにとって良かったのかな。誰にでも自慢したくなる絵に描いたような娘を演じ続けられたら、私はお母さんの望む私になれたのかな。

――もっと真剣に将来と向き合え!

 違うよ、お父さん。私の思いを知ってほしくて、たくさん真剣に悩んで考えたんだよ。今までお父さんたちが喜んでくれるからっていう理由で何でも決めてきて、でも自分が本当に好きだって確信を持てることを初めて見つけたから知ってほしかったの。

 そう言い返せていたら何かが変わっていただろうか。
 言葉ではなく涙と変わった思いが目に溢れて視界がぼやける。

 ほらね、先生。やっぱりこうなるんだ。言わなきゃ分からないことがあるなんて詭弁だ。先生だって立場があったから私を肯定してくれたんだよね。でも私は知ってるんだよ。ずっとそうだった。相手がそれを受け入れようとしてなきゃ言ったって意味がない。だから演じ続けてきた。

 それに演じることは万能な手法ではない。どれだけ相手に合わせた見て呉れを演じることはできても、外部から受けた刺激を全て吸収するのは、いつだって仮面を付けた本体である私自身の心なのだ。

 だから私の心にはいろんな色が存在する。一つの物事を目に映したとき、いろんな感情や考えが頭に浮かぶ。その中から相手に最も適したものを選択する。それを人の気持ちを分かってあげられる優しい人だと皆は私に言ってきた。

 でも私の気持ちは誰も分かってくれなかった。自分の本心を出した途端、みんな嫌な顔をして攻撃してくる。だから野生の虫が天敵に狙われないよう、草木や枝葉と同化する擬態みたいに、私は少しでも異変を察知したら身を隠して生きてきた。

 それなら私にも責任があるのかもしれない。演じるなら最後まで演じきらないと、正体が明かされて捕食されるのは当然のことだ。

 しかし私だって好きで演じているわけじゃない。自分の好きなように生きていたい。そう思うのは我儘なのだろうか。そう望むのも許されないのだろうか。

 なんだかもう疲れてしまった。何も考えずシンプルに生きていきたい。たとえば、花を見て綺麗だなってただそれだけ思えたら。名称、花言葉、開花期、自生地……そんなのどうだって良いよ。表面の綺麗な部分だけ見てこの世界は燦然なものだと抱いていた幼き頃のように、それが悪い大人の作った嘘でも偽りでも幻であっても、希望と夢に溢れて生きていけたらもう何もいらない。

 私は両親のことが好きだ。だからずっと責任を背負って生きてきた。その重荷を下ろしたことなんてたった一度もない。それだけは自信を持って言える。あんなことを言われた今でも嫌いになんてなれない。好きなのに、大好きなのに、どうしてこの気持ちが伝わらないのだろう。

 音楽もお母さんとお父さんが教えてくれたんだよ? 最初はピアノに興味を持った幼い私の手を取って自分が弾いているように「こうするんだよ」ってお母さんが嬉しそうに教えてくれた。次第に手を借りなくても一人でゆっくりと弾けるようになって、「ユウはとっても上手だね」って言ってくれたよね。

 ギターを教えてくれたのはお父さんだったよね? 私が格好良いって言ったら、お父さんは嬉しそうに笑って「ユウも弾いてみるか?」って言って教えてくれたの、とっても嬉しかったんだよ。ある日、いつものようにお父さんの部屋にこっそり侵入して練習してた時、早上がりで帰ってきたお父さんに見つかっちゃったよね。それでもお父さんは叱らず私の演奏を「ユウには才能がある」って褒めてくれたよね。

 中学生になって吹奏楽部に入った時もたくさん応援してくれた。コンクールメンバーに選ばれなかった時は慰めてくれた。初めて大きなホールで演奏した時は仕事を休んで観に来てくれた。その全てが嬉しかった。

 でもこんな思いをするなら最初から無駄だと教えてほしかった。突き放してくれた方がよかった。

 音楽ではご飯を食べていけないから夢中になるなって。
 コンクールで賞を取っても将来に何の意味もないって。
 部活動をする時間があるなら勉強しろって。

 そうすれば最初から夢も希望も持つことなんてなく、両親が望む理想の私を演じられたかもしれないのに。

 音楽を知ってしまった今の私の生き方を無責任だなんて言われたら、私はこの先どうやって生きていけばいいのだ。ずっと死ぬまで誰かの理想を演じる? 何のために? もう嫌だよ。全部ぜんぶ投げ出してしまいたい。

 ただ知ってほしかった。ユウはそういうことを考えていたんだねって。
 ただ受けとめてほしかった。じゃあこういう道もあるんじゃないかなって。
 ただ認めてほしかった。ユウの人生だからたくさん悩んで最後は自分で決めなさい。見守っているよって。

 いつも誰かの顔色を伺って。自分の気持ちを押し殺して。周りが喜ぶことをやって。みんなが笑うたびに、私の心は泣いていた。

 私の本心が私の人生を苦しめるなら、もう声なんか出す必要はない。

 私はようやくコウタくんの気持ちが理解できた気がした。中学生の時、何も分かっていなかったのは私の方だったのかもしれない。コウタくんはすごいや。こんな辛い気持ちをあの日からずっと抱えて生きているのだから。

 布団を深く被った私は、夜通し声を押し殺して涙を流した。一睡もできないまま残酷にも朝日は登り、また新しい一日が始まる。とても学校に行ける状態ではない。しかし休みたいだなんて言っても怒られるだけだろう。早々と諦めた私は身支度を始める。

 大丈夫。昨晩のことは忘れてまた演じて生きていこう。昨日までできたことを、たった一日の出来事でできなくなることはない。

 鏡の前で無理やり笑顔を作る。涙焼けの痕がひりひりと痛み、目元が痙攣する。ダメだ。これではバレてしまう。もっと上手に笑わないと。

 『ほらユウ、あなたならできるよ。これまでもそうやって生きてきたでしょう?』
 「生きてきたけど。でも、もう」

 ねえ、コウタくんならどうする?
 私はもう分かんないや。

 約束の日さえなければ全てを投げ出して終わらせられるのに。
 約束の日があるからこの世界に期待してしまう。
 コウタくんがヒーローのように現れて、何もかも変えてくれるんじゃないかって。

 まだ私はこんな世界に夢を見ている。
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