命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter2「この命に名前を付けて」

#23

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 今年は十二月になっても日中の気温が高く、雪が降ってもすぐに溶けてまだ根雪にはなっていなかった。車で行くか迷ったが、昨年コインパーキングが満車だったことを思い出す。探しているあいだにユウを待たせるのは悪い。今となっては当たり前のように制服に着替えて外に飛び出した僕は、姉の自転車を無断で借りてサドルに跨り現場に急いだ。

 車を出すほどでもない近くのコンビニへ行くために姉が使っていた自転車は、野外に駐車されていたからか錆び付いたチェーンが嫌な音を立てる。それに加えて、普段使わない筋肉を使っているからか、走り始めてすぐに太ももに張りを感じ始めた。

 それでもそんなことは些細なことだと感じるくらい今の僕は強い。ユウに会えるんだという事実は無限の力を生み出す。このエネルギーを使えば、いま僕は自由自在に雪を降らすこともできるんじゃないかと幻想的な考えさえ抱く。好きな人のことを考えるとき、どうしてこうも朦朧的になってしまうのだろうと僕は風を切りながら笑った。

 最初は凍結路面を恐れてゆっくりと足を踏み出していたが、やがて大丈夫だと確信した僕の足は駆けるようにペダルを漕ぎ続けた。ユウはもう到着しているだろうか。興奮が熱を持って身体を温めているからか、寒さはまったく感じなかった。早くユウに会いたい。顔が見たい。声を聞きたい。一瞬にして特別な日に模様替えしたクリスマスイブが、つい先ほどまで疎外されていた僕をライトアップするように道を照らしてくれる。

 イルミネーション会場が近付くにつれて、人とすれ違うことが増えた。そのほとんどの人の表情は明るく幸せそうだ。クリスマスイブなんていつもと変わらない一日だと嘆き、昨年の今日は現実を痛感して涙すら流していた僕も、今年は幸せの空気を吸って息ができそうだった。

 クリスマスイブという物語の登場人物として僕は名を連ねている。想像を超えるエンドロールを夢見ている。もう少し、もう少しで光を掴める。

 やがて現場が視界に入った。たしか、次の交差点を越えた先に駐輪場があったはずだ。途端に緊張してきた僕は、深呼吸をしながら白い息を大気に浮遊させていく。それらがシャボン玉のように溶けて消えていくと、様々な記憶が甦る。

 今日に至るまで本当に色んなことがあった。思えば始まりは――――。

 真横から大きな物体が飛んできた。実際に“それ”が飛んでいたわけではない。けれど、何度あの時の出来事を振り返ってもその表現が正しいと僕は思う。条件反射的にブレーキを握ったが、ほとんど効かなかった。ある程度のスピードが出ていたことも災いした。気付いた時には宙を舞っていた僕は、受け身をとる間もなく地面に体を打ち付けられた。

 ああ、終わったかもなと思った。一瞬の出来事だったが、交通事故に遭ったのだとすぐに理解できた。視界は乗り物酔いを極限のレベルまで上げたように、ぐるぐると回っていて焦点が定まらない。呼吸をするという簡単なことも、いまはまともに機能せず苦しさが襲う。

 地面に触れている頬にはコンクリートと違うひんやりとした冷たさを感じる。それが何かあらかた想像はできるが、答え合わせをしてしまったら今すぐにでも気を失ってしまいそうで、僕は目蓋を閉じて意識を保つことにした。

「大丈夫ですか?!」

 通行人か、あるいは僕を跳ね飛ばした人物が、僕の耳元で叫んでいる。大丈夫かと訊ねるくらいには見ていられる外傷なのだろうか。

 そういえば、ここは地元のテレビ局でよく報道されている有名な事故多発エリアだった。報道特集を他人事のように見ていた僕が、何もこんな大事な時に自分が当事者になるなんて。関心を持たなかった罰が当たったのか。

 声を出そうとするが、上手く生成することができない。ここにきて“持病”が出たのではなく、物理的に声が喉元を通っていかなかった。体を動かそうとする。やはりこちらも動かない。けれど不思議と痛みはなかった。あまりにも重症で生存できる見込みがないと判断した脳が、痛覚すら止めてしまったのかもしれない。

「はやく救急車を!」
「安全な場所に移動させたほうが」
「いや、下手に動かさない方がいい」

 その会話全てが僕に関わることなのに、当人である僕は夢を見ているように現実味がない。いつの間にか複数の人が集まっているようだった。もうこの現場からイルミネーション会場まではそう遠く離れていない。通り道の一つとして、それもクリスマスイブの夜にたくさんの人がいるのも当然のことだ。
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