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Chapter2「この命に名前を付けて」
#21
しおりを挟む秋が紅葉を染め上げて冬の種を撒き始めると、英莉さんに頼んでいた曲が完成して楽譜に起こしてもらった。英莉さんと時間が合わない時にでも練習できるようにと、なるべく指感覚がリアルな電子ピアノを購入した僕は、帰宅してからも鍵盤に指を落とし続けた。
おそらくこの時期は、学生の時のテスト期間より時間を割いていたと思う。しかし採点という確かな結果が出る勉強とは違い、ピアノは突き詰めていくとそこに明確な正解はない。それに本番でミスをしてしまったらどれだけ練習で上手くいっていても全てが水の泡となる。
それでも英莉さんが、もうあたしが教えられることはないよ、と認めてくれた時は大きな自信に変わった。こうして、僕はいつでもユウにピアノを披露できる準備が整っていたわけだが、これは絶対的な効果が見込める日を見極める必要があった。
中学生の時、ユウがレイとして僕に話しかけてくれた時、まだ僕には救いがあった。姉という支えてくれる人がいて、両親の言う通りに生きることが自分の存在意義を確立すると信じていた僕は、声を取り戻すことにそこまで価値を感じていなかった。だから僕はレイの提案を受け入れずに関係性を断ってしまったわけだ。
だが、姉が高校卒業に伴って家を出ることになり、また僕も声を出さなくなったことで人間的な活動機能を失っていた。そして両親の教育方針に少しずつ疑問を抱き始めていた時、僕は決められた枠から自分がはみ出していることに気付き戻れなくなっていた。けれど、僕は助けの求め方が分からなかった。そうして遅すぎる後悔を抱きながら空疎な高校生活を送っていた時に、ユウは再び僕を見つけて話しかけてくれたのだ。
今のユウは自らの声が出ないことを認めつつも、まだ顔を上げ前を向いて歩ける状態ではない。だからユウが心に欠けたものを埋めようとしている時。ほんの少し背中を押してあげることで一歩踏み出すことができる時。そのタイミングを僕は伺い続けていた。
身の回りの変化で言えば、姉に恋人ができた。ある日、姉が仕事から帰宅してきたかと思うと、意味もなくリビングの端から端を行ったり来たりしたり、僕のことを見てはすぐに視線を逸らしたり、何か言いたげなのは明らかな様子を見せた。
――次はニュース特集です。交通事故が相次ぐ魔の交差点。地元住民も恐れるその危険性とは。
なんとなく僕が言葉を掛けてその会話を始めるより、姉の一言から始めたほうがいい気がして、僕は姉の挙動に気付いていないふりをしてテレビをぼんやりと見つめていた。
――先日もこの場所で自動車同士が出会い頭に衝突する事故が起きました。一方の側に一時停止の標識が設置されていますが、このように道路幅員が非常に狭く、歩行者を避けることに気を取られて標識を見逃したり、一見そこが交差点ではないと錯覚してしまうドライバーが多発しているというのです。
アナウンサーの声に混じり、姉の深く息を吸う音が聞こえた。
――「何度も危険な思いをしたことがあるよ。狭いのにスピードを出す車も多いから、できるだけ通らないようにしている」「点滅式信号を設置するべきだと警察の交通課に要望しているけれど、なかなか対応してくれなくてね。先日の事故もその帰りに目撃したんだ」地元住民の方々も頭を悩ませています。
「あのね、好きな人ができたの。それで、今日から付き合い始めた」
いつもは余裕がある姉でも浮ついた様子で、断片的に言葉を紡ぎ合わせて報告された。なんとなくそんな気がしていて僕はその事実をすぐに受け入れることができた。「おめでとう」と僕が微笑ましく祝福すると、姉はホッとしたように表情を穏やかに崩した。
話を聞くと同じ部署の後輩で、一つの企画を共同で制作しているうちに距離が縮まったらしい。なんとも甘いドラマみたいな展開だ。
――昨年の夏、交通事故で夫を亡くしたAさん。現在は地元の学校や施設で講演を行っています。二度と戻らない命を訴えかけるまでの道のりを我々は――
僕はテレビの電源を消した。
「まだお互いが休みの日に遊びに行くくらいなんだけどね」とそれから何十分ものあいだ姉の言葉は止まらなかった。誰かに幸せを伝えられること、嬉しさを共有できるのが嬉しいのだろう。僕もきっと、ユウの光が戻ったら真っ先に姉と英莉さんに報告するだろうから理解できた。
早くから自立して精神的にも大人な姉が認めた人なら、その関係性はゆっくりと、だけど長く続いていくだろうと思った。そうなると、いずれは互いの家に行き来するようになっても不思議ではないわけで、僕もこの家を出て独り立ちする時が近いかもしれないなと感じた。
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