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Chapter2「この命に名前を付けて」
#20
しおりを挟む僕がユウの前で何らかの音楽を披露すれば、ユウの心の針はまた動き出すのではないか。ライブ終わりに口元を綻ばせたユウの様子を見てそう考えた僕は、英莉さんに事情を話してピアノの特訓をお願いした。僕の話を聞いた英莉さんは喜んで承諾してくれた。
僕にピアノの経験はまったくなかった。楽譜も読めなければ、どの鍵盤がどの音かさえも分からない状態だ。それでも一曲弾くだけなら、さいあく楽譜と鍵盤の位置を丸暗記すればいいだろうなんて考えが安直であることにはすぐに気付かされた。
同じ音でも音符の種類が違えば長さは変わるし、指の力で音の強弱も変わってしまう。リズムや指感覚を求められるそれらは想像以上に難しくて、思い通りに指が動かなかったりミスタッチをすると苛立ちもあった。これがちょっとした興味本位で触れただけだったら、すぐに放り投げていただろう。
けれど僕にはユウの幸せを取り戻すために弾きたいという明瞭な目的があった。少し形は違うが、幼き頃に両親の関係性を良くしたいと会話を勉強していた時に似ている。自分のことより誰かのためにと頑張れる力が僕にあるのは、ある種両親の元に生まれたから身に付いた精神力なのかもしれない。
時は流れ、季節の主役に夏が立っていた。僕がピアノを披露できるレベルになるまで、ユウの命の灯火は光を保ち続けられるだろうか、という心配は杞憂だった。
夏は農園の仕事が忙しくなるなか、ユウとは月に一度だけ会うようにしていた。それも決まってカラパラのライブがある日だ。ライブ後、メンバーとチェキを撮ったりお話ができる特典会の時間では、僕と一緒に梓さんのレーンに並ぶ。どうやらユウも梓さんの魅力に惹かれて推しになったらしい。
今では一人で行くこともある、とらむからメッセージが来た時はさすがに驚いた。けれど人生において、いかに自分の居場所や依存先を作れるかは生きるうえで大事になる。その場所が増えれば増えるほど、たとえ何かが一時的に欠けたとしても、別の何かが満たしてくれて上手くバランスを取ることができる。
現にユウは、らむの家でギターを弾いたり、休学していたという大学に再び通い始めたり、アルバイトもするほど症状が回復傾向にあった。少しずつ色んな表情を見せるようになったり、僕とも連絡先を交換してらむを介さなくても文字でなら簡単な会話くらいはできるようになった。
ユウは自らの力で変わろうとしている。だから僕もユウを信じて、休みや仕事の空き時間を見つけてはピアノの練習に打ち込んだ。
残暑が秋の足を粘り強く掴んでいた頃、英莉さんから指定された最初の課題曲は、趣味の披露であれば問題ないと言われるくらい弾けるようになっていた。けれど、ユウを救うにはもっと大きなものをと日々頭の中で想像を展望していた。
その結果、オリジナルの楽曲を作れないだろうかと僕は考えるようになった。文化祭の日のアンサーソングをというのは少し大袈裟だが、あの日の楽曲は僕たちの中で続いている気がするのだ。
“どうか君の目には この世界が美しく映りますように”
“そんな君の笑顔を いつまでも傍で見ていられますように“
“どうかもう少しだけ 夢見る僕で居させて”
アウトロにかけて願いを込めるような歌詞は、元々言葉どおり希望的観測に近い表現だった。けれど今、あの日の夢を現実にする時が訪れたのだと僕は強く意気込んだ。
作曲は英莉さんが引き受けてくれた。弾き語り仕様にしようか? と提案を受けた僕は幾ばくか悩んだ。歌詞があることでユウに自然と想いを伝えられるメリットはあるが、歌にはまったく自信がない、というより最後に歌を唄った記憶さえ曖昧だ。
試しに風呂場でカラパラのお気に入り曲をアカペラで歌い録音してみると、あまりにも音程が外れていて音痴だったので、危うく恥ずかしさから湯船に全身を沈めるところだった。どうやら僕は感覚を求められるものがめっぽう苦手らしい。
結局、通常演奏の楽曲を制作してもらい、その代わりと言ってはなんだが手紙を書くことにした。ユウにはたくさん伝えたいことがあるはずなのに、いざ筆を取ろうとするとどうも納得いく文章を作れずピアノ以上に苦戦した。今度はセンスの問題にぶち当たる。
英莉さんに相談してみると「本を読むのはどうかな? あれはね、世界旅行ならぬ人間旅行だよ」と言うので、僕はさまざまなジャンルの本を読みあさった。
たしかに、本の魔力はすごかった。流行りの酷似した設定から始まっても、作者という項目が一つ違うだけで物語の展開は多種多様に枝分かれしていき、唯一無二の結末に辿り着く。しかし元を辿れば表裏一体なのだから面白い。同じ家に生まれた僕と姉がまったく別の人生を歩んでいるように、人の数だけ世界は存在している。
こうして様々な表現や描写を学び、今の自分の気持ちに合う最適な言葉を見つけては紡ぎ合わせて、手紙は無事完成した。読み返してみると、これまでの感謝の気持ちとこれからも一緒にいられる未来を願う当たり障りのない文章だったが、だからこそ真っすぐと気持ちが伝わるのが文字であり、それが手紙の良さなのだろうと思った。
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