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Chapter2「この命に名前を付けて」
#19
しおりを挟む「違うよ。この2サビはソの音だけ半音下がるでしょ? だからスムーズに動かすために同じBメロでも指番号が変わるの。つまりこの小節部分の手の形は――」
英莉さんの指導を聞きながら、僕はため息をつきそうになるのを何とか堪える。勉強は得意な方だと思っていたが、ピアノは頭の中で原理を理解したからと言って、指先が正確な音を奏でられるとは限らないことを序盤で察していた。これでは先が思いやられる。
いちど休憩を取り、僕はダイニングチェアに腰掛けながら窓に視線を向けた。英莉さんの実家――小柴ご夫婦のお家は昔ながらの日本家屋だ。庭先には桜の木が一本植えられている。窓枠からはその全貌を拝めないほど大きくて立派なものだ。
満開に咲き誇った花びらが美しく世界を彩り、限りある命を全うしている。この情景を見るだけで、英莉さんがどういうふうに育ち、また英莉さんという人の姿が確立されていくさまを理解できる気がする。
「オレンジジュースでよかった?」
「ありがとうございます」
僕がお礼を言いグラスを受けると、英莉さんが隣のチェアに座った。僕たちは庭先の桜を見ながらグラスを傾けて喉を潤す。英莉さんが動くたびにふんわりと甘い香りがする。その匂いと視線の先にある桜が、春のコントラストを上手く調和させている。
「英莉さんは、このピアノをずっと弾いていたんですか?」
「うん。正確に言うなら、これは二代目のピアノなんだ。だからあたしが子供の頃に弾いていたものとは違うけどね」
「なるほど。英莉さんのお母さんも弾いていたんですもんね」
「そうだね。あたし運命って言葉あんまり好きじゃなくてさ、最初から何かが決まっていたら面白くないでしょ? でもあたしがピアノを始めたのは間違いなく運命だよね。お母さんがやっていなかったからここにピアノはなかった。つまり、あたしが興味を持つこともなかった」
外では春の風が強く吹き込んでいた。一秒前までは枝葉に繋がっていた花びらが、ひらひらと舞ってその生涯を終えていく。
「でも別の機会で触れる形はあったかもしれませんよ」
「たしかにその可能性もあるけれど、同じピアノを弾くという人生でもまったく違う世界になっていたと思う。それこそ小学生の時に皆の前で弾くこともなくて、中学生の時に合唱の伴奏をすることもなくて、大人になって子供たちに教えたりBARで弾くこともなかったんじゃないかな。素敵な彼に出逢うこともね」
誰にも見られず散っていく花びらも存在する。花見のような場所でたくさんの人に惜しまれる花びらも存在する。どちらも同じ桜なのに、生まれた場所が違うだけで最後の瞬間はまったく違う景色が目の前に広がる。だけど、どちらにも幸せの形はある。
「もし何かを運命と呼ぶなら、それこそ生まれた環境や境遇くらいなのかな。あたしはピアノというものが幼き頃から身近にあったけど、でもそれは自分が興味を持って、選んで、続けたからこそ拓けた未来でもある。ピアノなんて興味ないやって思っていたらそこで終わっていた。だから運命をどう活かすかは自分次第なのかもね」
英莉さんの左手の薬指にはめられた指輪が蒼く光る。とても説得力のある言葉だった。
僕も両親の元に生まれた運命によって幼き頃から勉学に勤しんだ。やがて二人の関係性を繋ぐために会話も勉強の一環だと努力し、深く追い求めた結果一時的にではあるが声を失った。僕はそれを自分の人生の汚点だと考えていたが、だからこそ同じ症状のユウと出会い、高校で運命的な再会をし、繋がれた約束によって英莉さんとも出会った。その英莉さんに、いま僕はピアノを教えてもらっている。
もし僕が英莉さんの過去に触れてなかったら、今頃どうなっていただろう。英莉さんが結婚するという未来は変わらなくとも、ご両親とはすれ違いのままだったかもしれないし、僕自身も英莉さんとプライベートの話をするような関係性にはならなかっただろう。そういった意味で僕は英莉さんの運命を変えている。
だけど僕がそうしたのは、元々英莉さんが気さくに話しかけてくれたからだ。何者でもない僕に偏見の目を向けることもなく、純粋に僕という人間を映してくれた。だから英莉さんが僕の運命を変えたとも言える。
過去を振り返れば、そういう出来事の繰り返しで人生は成り立っていることが分かる。それは巡り合わせによる運命と呼べるし、偶然の重なり合いとも言える。しかし英莉さんの言う通り、生まれた環境や境遇など最初から決まっている部分もあるが、根本的な自分の人生を作るのは自分自身でもあるし、自分の周りにいる他人でもある。
僕たち人間は自分で選択することができる。決めることができる。人によって同じ手札なんて存在しなくて、不公平のように強さも違くて、配られた時点で勝敗が決まっていることもある。一見、そんなの選んでいるようで制限されているじゃないかと嘆きたくもなる。けれど、誰かと協力して場に出した手札を合わせたり繋げることもできる。一人では作れなかった役を完成させて、新しい結果を生み出すことができるのなら可能性は無限大だ。
もし言動の一つひとつが自分の意志を持って選択したことによるものならば、それは偶然などではなく必然的な起こりうるべき運命に変わるのではないか。
「それで、そのユウちゃんっていう子は好きな人なの?」
それで、の文脈がどこにあるのかよりも、あまりにも核心をついた質問だったので、最後の一口だったオレンジジュースが少しだけ鼻に流れてツンとした痛みを感じる。
「当たりだね」
そんな僕の様子を見て英莉さんが笑う。またいつものように冷やかされるのかと思ったが、今日は少し違った。
「なんか嬉しいな。ずっと心配してたんだよ、コウタくんのこと」
思わぬ展開に僕は言葉を失う。悩みが絶えない日々ではあったが、英莉さんの前では上手く笑えていると思っていた。それは決して隠していたわけではなく、英莉さんといるときは日常を明るく照らしてもらえていたからだ。
「今だから言えるけどね、ふいに話しているとき梓ちゃんと同じ目をする時があったの。なんていうのかな……瞳の奥にある本当の気持ちっていうか、無意識に溢れ出てしまっているもの。なんか分かるんだよ、そういうの。あ、一人でいるときめっちゃ気分落ちてるんだろうなって」
「……分かる気がします。でも自分がそんな目をしてるとは気付きませんでした」
「あたしもそうだったけど、自分の中では上手く笑えてると思ってるんだよね。同じような気持ちを抱えている同士、分かることがあるのかな? それともこの人なら気付いてくれるかもしれないって無意識に助けを求めているのかもしれないね」
無意識に助けを求めている。とてもしっくりくる言葉だった。
「だからこの話を聞いた時ホッとしたんだ。コウタくんにも自分を理解してくれる大切な人がちゃんといて、今度はその人のためにピアノを弾きたいなんて素敵な話だもん。そして、あたしに頼ってくれた。とても嬉しかったよ」
「いえ、僕のほうこそありがとうございます。気恥ずかしくて言えなかったんですけど、結婚式で弾いていた英莉さんの姿、本当に恰好良くて感動しました。鍵盤を移動する様がこれまでの人生をなぞるように、そして躍動する音がどこまでも空高く羽ばたける未来を作るようで。そんな英莉さんに教えていただけて僕も本当に嬉しいです」
英莉さんがオレンジジュースより甘い表情で、照れるように笑う。
「それは褒めすぎだよ。でも、ありがとう。あたしはね、ピアノを弾くことで誰かの人生を豊かにするのが夢だった。結婚式の時は自分自身が主役になってしまったなあって思ってたから、それが今叶うかもしれないってワクワクしてる! ユウちゃんの未来を奏でてあげよう! 一緒に頑張ろうね」
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