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Chapter2「この命に名前を付けて」
#18
しおりを挟む当日券をなんとか購入できた僕たちは、中列の端で開演を待っていた。肌が触れ合うほどではなかったが、隣の人の熱気を感じるくらいにはお客さんが埋まっていた。英莉さんに連れられて初めて観に来た時は、キャパ百人の会場でも空間に余裕があったのに、ずいぶん活力を取り戻したようで僕も嬉しかった。前から知っている英莉さんは彼女たちの躍進にもっと喜ぶだろう。
本当は英莉さんも来たいと言っていたのだが、新婚旅行のスケジュールと丸被りしたと言っていた。日付をずらすべきか、と英莉さんは最後まで悩んでいたものの、さすがに今回は夫婦の時間を優先してくださいと僕の言葉に頷き、帰ってきたらお土産話を交換しようと言って英莉さんは旅立っていった。今頃、何物にも変えられない幸せのひと時を過ごしているに違いない。
開演の直前、ユウが僕の制服の袖を掴んだ。初めてのことで僕は一瞬戸惑ったが、すぐに冷静になって考える。もしかしてこの空間が怖いのだろうか。僕もライブハウスの独特な雰囲気に慣れるまで時間がかかったので気持ちは分かる。
「大丈夫?」
訊ねた声が会場の喧騒のなか届いたかは分からない。ただ、ユウはまだ誰もいないステージに真っ直ぐな目を向けていた。暗転すると、さらに握る力が強くなる。震えている様子はない。これから訪れる初めての時に胸が高鳴っていると受け取っていいだろう。僕もカラパラの生き様を目に焼き付けるため、ステージに強く目を凝らした。
九十分のライブは夢のようなひと時で、隣にいるユウの存在を時折忘れてしまうくらい、あっという間に終わってしまった。胸に手を当てると、大音量に合わせて揺れていた心臓が、まだ終わったことに気付いていないくらい高揚している。この感覚がたまらなく気持ちいい。
アンコール後の最後の曲が終わると、メンバー全員がステージ中央で一列に並び、客席に深々と頭を下げた。すぐに蝉時雨のような拍手が響く。僕もユウも手を合わせて喝采の音を届けた。
鳴り止まない拍手に涙するメンバーや感慨深く眼下するメンバーもいたなか、梓さんは笑顔で「ありがとう」と何度も言いながら泣いていた。思わず僕ももらい泣きしそうになった。
「みなさんに大切なお知らせがあります」
ようやく会場が落ち着きを取り戻すと、梓さんが意を決したように言葉を切り出した。今度は耳鳴りが聞こえてくるほど静寂が訪れる。いよいよ重大発表の内容が明かされるのだろう。
ファンの事前予想では、CDアルバムの販売やライブツアー開催、中にはメンバーの卒業を危惧する声もあった。ライブアイドルの寿命は、ある日突然宣告されることから、推すにはそれなりの覚悟を持たなければいけないと以前英莉さんが言っていた。たしかに僕も、もし梓さんがそうなったとき、しばらく無気力になるかもしれない。
数秒後、パッと明るく変わった梓さんの表情から、悲しいお知らせではないことが分かる。あとは梓さんの声が耳に届くのを待つ。
「Colorful Parasolは新メンバーを募集します!」
客席がドッと沸いた。感情の整理が追いつかないまま梓さんはさらに言葉を重ねる。
「それに伴って、しばらくのあいだ活動休止期間を設けます。だけどこれは新体制として活動するための前向きな準備期間です!」
歓声や悲鳴の後ざわめきが襲い、色んな感情が混ざって浮かんで溶けていく。その空気感が、ここにいる誰もが歓迎したわけではないのだとすぐに感じた。
一つの形となっているものに、新たな色を加えるのはとても勇気がいる。今ステージに立つメンバーだって、自分たちだけではダメなのかと今日に至るまで悩み受け入れるのに時間を要したことだろう。
しかしどんな形であっても、彼女たちのアイドル人生がカラフルに輝く素敵な未来を。そしてここにいる人の誰もが、応援する理由や形こそ違えど、みな彼女たちの幸せを願っていると僕は信じたい。
「私たちと一緒に、これからも未来にたくさんの色を描いていきましょう!」
たくさんの想いを語ったあと、そう締めくくった梓さんの声に、最後は溢れんばかりの拍手で応えてライブは幕を閉じた。
記憶の回想から帰還した僕は、やはりいつもと違う感覚に少し戸惑っていた。夢うつつのような、白昼夢を見ているような、ふわふわした意識が醒めない。いつもなら痛いほど突き刺してくる現実の空気が、今日は身体に温かく澄み渡ってライブの余韻を深く残してくれている。
僕は隣を歩くユウの横顔を今度は自分から見た。そこに映る光景があまりにも自然だったゆえに、一瞬反応が遅れた。二度見をして再確認をしたあと、身体に強い電撃が走る。
ユウが微笑んでいる――。
長いあいだ固く結ばれていた口元が緩み、僕と同じようにライブの余韻に浸っているのであろうその表情は、これまで付けられていた分厚い仮面を溶かすように優しく崩れていた。
数年ぶりに見た美しい光景は、まるで流星群を見たような感動さえ覚える。このまま一秒でも長く見ていたい。忘れないように時間を保持したい。けれど僕の視線に気付くと影を落として戻ってしまう気がして、僕はできるだけ自然を装っていちど視線を逸らす。
音楽に触れたら何かが変わるのではないか、という僕の期待はユウの心に届いてくれたようだ。カラパラのコンセプトや楽曲世界観も、いま何かに悩んで苦しむユウの救いになってくれると思ったが正解だった。
その時、隣を歩くユウの手が動いて僕は横目で確認した。何かを抱えるような角度で止まったかと思うと、手首をスナップさせるように指先が何かを描いている。目には映らないそれを、僕にははっきりと視認できた。ユウはギターを弾いている。その音が、不確かな明日の道を紡いでいく。
やっぱりユウはまだ音楽が好きなのだ。文化祭で弾き語りを披露した時のように、自分が自分でいられる瞬間を取り戻すことができれば、いま失っている声も戻るかもしれない。
それなら後は何が不足している? あの時にあって、今にないもの。ユウが声を出すために必要なきっかけ。僕はどうやってユウに声を取り戻してもらった?
その日はなかなか眠りに付くことができなかった。ライブを観ていた時より意識は冴え渡り、心臓は躍るように跳ね、いつまでも興奮状態が冷めない。
また明日から仕事なのだからいい加減寝ようとした時、僕の頭に星が煌めくようなひらめきが舞い降りた。その星々を思考の指でなぞり、星座を作るように繋いでいく。今は名前こそ付けられなかったが、一つの形として浮かび上がったそれを僕は手の中に収める。
もしこれを実現できれば――。
翌朝、小柴農園に出勤した僕は、挨拶もそこそこに英莉さんの元へ駆け寄った。
「英莉さん!!」
「うん? 朝からずいぶん元気だね。あ、カラパラのライブどうだった? あたしの旅行話と交換しよ」
結局、一睡もできず朝を迎えてしまったが、僕の身体は疲れを感じさせず元気だった。新婚旅行から帰ってきた英莉さんも変わらずいつもの調子であることに安堵した僕は、英莉さんの話もそこそこに一つの願いを申し出た。
「僕にピアノを教えてください!」
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