命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter2「この命に名前を付けて」

#12

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 久しぶりに見た実家は、周りから浮いて随分くすんで見えた。十八年間、毎日ここが帰る場所だったのに知らない家のようで少し不安になった。もう二度と帰ってくることはないと思っていたが、どうしても訪問する理由ができたので訪れた。

 姉も近くに用事があるというので車を出してもらい連れて来てもらったものの、自分の用事を済ませてくると僕に別れを告げた。本当は一緒に来てもらえたら心強かったが、そこまで言うのは贅沢というものだろう。

 深呼吸をした僕は、意を決してインターホンを押す。チャイム音のあと、長い沈黙が襲った。反応はない。もう一度押してみても同じだった。今日は休日のはずだが、買い物にでも行き不在なのだろうか。

 そういえば子供の頃、姉と一緒に外で遊んでいて、つい門限の時間を過ぎてしまったことがあった。その時はなかなか家に入れてもらえず、しばらく真っ暗のなか僕たちは座り込んで待っていた。姉は「なんかドキドキするね!」なんて笑っていたが、僕はこの先のことを考えると夏なのに体が震えるほど怯えていた。そしてようやく扉が開いて光が見えたかと思いきや、やっぱりこっぴどく叱られて僕は二度と同じことを繰り返さないよう反省したものだ。

 なんだかその時のことを思い出しながら、ため息混じりにもう一度押そうと指をかけた時、玄関の扉が勢いよく開いた。そうだ、あの時もこんな感じだった。しかし今、目の前に現れた生え際の白髪が目立つ人物を父と理解するのに、幾ばくか時間がかかった。

「何しに帰ってきやがった!」

 その父の第一声から察するに、インターホン画面に映る僕に驚き、しかしすぐに怒りが沸き上がってその勢いのままに、と言ったところだろうか。半ば家出のような形で別れた以上、三年ぶりの帰省に歓迎がないことは分かっていたが、より関係性は悪化してしまっているようだ。

 両親には極めて穏やかに努め、いつも笑顔でいればいいと僕は自らの体験から学んでいた。
 
「父さん久しぶり。身体は大丈夫?」

「お前……! 自分が何をしたのか分かっているのか?! お前は親の期待を裏切った親不孝者なんだぞ!」

 しかし三年の月日を得て、僕にも少し余裕ができてしまったようで上手くいかない。散り積もった鬱憤が溜まっているのか辛辣な言葉を浴びせられているが、僕の心は何も受け付けなかった。こんなふうに冷静に考えられる思考さえ持っている。

 それにしても、父はこんな声を荒げるような人だっただろうか。記憶が正しければ、お前と呼ばれたことは一度もなかった。どんな時も冷静沈着で、口数の少ない人だったと記憶している。だからこそ、たまに学問のことで呼び出された時は、何を言われるのか慄いていたものだ。しかし今は何か様子が違うのは明らかだった。

 また住まわせてもらう理由があれば早急に服従した態度を取らなければいけないが、今日訪問した理由はさして時間のかかることではない。早々と用を済ませてしまおうと僕は父親越しに玄関の奥を覗く。

「母さんはいないのか?」

 その瞬間、僕は父に服を引っ張られて家の中に連れ込まれた。バランスを崩した僕は玄関ホールに倒れる。背後で鍵の閉まる音が聴こえた。あれ、もう少し慎重に行動するべきだっただろうか……。鼓動が早くなるのを感じる。振り向くと、憤怒の形相に変わった父が僕のことを見つめていた。

 父はこの三年でかなり老けたように見えた。あるいは僕が大人になったからそう見えるのだろうか。姉と僕が家を出たことによって、両親を悩ます存在はいなくなりストレスを抱えることもないと思っていたが、そうでもないらしい。

「こっちに来い」

 父はそう僕に促すと、短い廊下の先にある扉を開いて居間に歩みを進めていった。てっきり痛み付けられるのかと思い身構えていた僕は視線を上げる。遅れること十数秒後、身体を起こした僕も恐るおそる後を追った。

 一歩足を踏み出して自分の体重がかかる度に、フローリングが軋んで嫌な音を立てる。何だろうこの言葉にすることができない雰囲気は。妙に静かで、それでいて空気が重たい。徐々に血の気が引いていくのを感じる。身体が近付くなと警告しているのだ。それでもこの先に何があるのか確かめろと好奇心が歩みを止めない。

 やがて居間に辿り着いた僕は“それ”を見た。自然と目が見開く。

「母さんがこうなったのはお前のせいだ」

 いつの間にか背後に廻っていた父親の拳が僕の頭に落ちた。



「本当に心配したんだからね」

「ごめん、助かったよ。姉ちゃんが来てくれてなかったらやばかったかも」

「やばいなんてもんじゃないよ。見た? あいつの眼。うう……思い出しただけで鳥肌が立つ」

 あいつがどちらを差しているのかは分からなかったが、姉が両親をそういうふうに呼ぶのを初めて聞いた。しかしそれも無理はない。僕もあんな姿を見てしまっては、これから父さん、母さんだなんて気軽に呼べそうになかった。もっとも、その機会が今後訪れるとすれば、人生の最期に関わるような場面くらいかもしれない。

 だとすれば、これで本当によかったのだろうか。

「もしかして気にしてる?」

 姉は本当にすごい。すぐに心情を見抜かれてしまう。

「……少しだけ」

 僕が答えると、目の前の信号が赤に変わった。減速した車がぴたっと停まる。姉はハンドルを持つ手を握り直して、そのまま前方を見ながら言った。

「コウタが思い詰める必要はないよ。いずれ、あの二人はああなる運命だった。私たちが長いあいだ防いできたから、今まで爆発しなかっただけで」

「そうかな」

「そう、だから大丈夫。お互いプライドの高い人間だからまだ受け入れられていないだけで、いつか現実に気付く時が来る。そのときは助け合って生きていこうとするよ。家を出るときの二人を見たでしょ? あの二人は子供がいない方が上手くいったんだよ。幸せな家庭のステータスには子供がいると勘違いしていたんだろうね。もしかしたら二人も、幼き頃からそういう教育をされた被害者なのかもしれない」

 僕は無言で時を流した。信号が青になり、再び車は動き出す。目蓋を閉じると、先ほど見た光景がじわりと浮かんだ。

 居間には僕が知っていた光景はなく、あらゆるゴミが散乱した部屋の中で母は病人のように窶れていた。僕の姿を捉えた母は何かを呟いたが、それは言葉と呼べるようなものではなかった。その後、父が僕に向かって延々と何かを言っていた。母が憔悴した話を聞かされていたのだろうが、僕は早々に思考を止めてその場に佇んでいた。

 どれだけ時間が経過していたかは憶えていない。気付けば姉が目の前にいて、僕のことを強く揺さぶっていた。意識を取り戻した僕は、急いで本来の用事を済ませた。

 姉と一緒に家を出る直前、居間の方を振り返ると、父と母は身を寄せ合って眠るように目を閉じていた。

「それより、お目当てのものはあったの?」

 姉の声で意識が現実に戻る。もう先程の出来事は忘れよう。

「ああ、うん。押し入れの奥底で眠っていたよ」

 僕は収穫物を車の中で広げた。姉がそれを横目で見ながら、

「それって学校の制服? また何で?」

 と驚いたように言った。

「ユウを救うために必要なんだ」

 ここで僕は初めてユウの現状を姉に話した。自分の記憶を整理する意味も込めて、あらためて出会いから全てを振り返った。ユウと出会う前の十七年間より、空白期間を大きく含むユウと出会ってからの三年間のほうがよっぽど壮大な物語を描いていた。

 話の途中で自宅に辿り着いていたが、姉は最後まで話を聞いてくれた。辺りが暗く染まり始めた頃、最後の言葉を僕は言い終わった。どれだけ正確に伝えられたかは分からない。けれど姉は、僕の頭に手を置き優しく微笑んだ。
 
「そっか、ここまでよく頑張ったね。お姉ちゃんとして誇らしいよ。コウタはもう縛られなくていいんだからね? 自分の行きたい場所に、自分が信じる場所に羽ばたいていく時が来たんだよ。何か困ったことがあったらすぐに言って? どんなことでも力になるから」

 ありがとうと呟いた僕の目が滲む。

「ユウちゃんが元気になったら、お姉ちゃんにも紹介してね」

 そんな時が訪れたら幸せだろうな、と僕は珍しく楽観的に未来を展望した。それが僕を何度も救ってくれた姉に対してできる恩返しかもしれないなと思いながら、僕は指先で目元を拭って頷いた。
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