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Chapter2「この命に名前を付けて」
#9
しおりを挟む『ごめんね』と口を動かしたユウが、制服の内ポケットから一つのメモ書きを僕に手渡した。確認すると、らむの名前と連絡先が書かれている。状況を理解した僕は、あらためてユウの顔を見つめた。心ここにあらずといった瞳が揺れている。症状はとても重いと感じた。
そのまま背を向けて帰ろうとするので慌てて引き止める。今はユウに何を訊いても答えられる状態ではないだろう。先ほどの乱横断を見てもここまで来られただけで奇跡的だ。後日またゆっくりと話す必要があるにしても、このまま一人で帰らすなんて危険すぎる。
「この近くまではどうやって?」
小さくではあるがユウの口元が『バス』と動き、僕はそれを読み取る。
「ってことは駅前のバスターミナルまで行くんだよな。じゃあ一緒に行くよ。僕もバスで来たんだ」
ユウは何も答えず、だけど小さく頷いて歩き始めた。
混乱しつつある意識を保ちながら、僕はスマホを取り出して姉にメッセージを送る。
『姉ちゃん緊急事態だ。少し戻るまで時間がかかる。詳しいことは後で話すよ。ごめん』
箇条書きの内容に『了解』とすぐに姉からの返信を確認した僕は、再び目の前の現実と対面する。
たくさんの疑問はあるが、その全てに共通することはユウが過ごした空白の三年間に触れてみないと何も分からない。それは先ほどメモ書きに記されていたらむから聞くとして、いま僕にできることは何だろう?
一定の間隔を取りながらユウの後を追う。この場景が以前にもあったような気がして僕は記憶を探る。そうだ、高校の文化祭の時に演劇についてクラスメイトと揉めた時だ。
変わらないその小さな背中でユウは何を背負っているのだろう。優しい言葉を掛けることができたら、優しく抱きしめてあげられることができたら、優しい世界を描くことができたら。けれど、どれもこれもユウに与えられる強さを僕は持っていなかった。
答えを出すことができないままあっという間にバスターミナルまで辿り着いてしまう。ユウが待っていたバス停に近付く車体を捉えた僕は、不安定な言葉を紡ぎ合わせて言った。
「今日は来てくれてありがとう。久しぶりにユウの顔を見られて嬉しかったよ。近いうちにまた会おう。そうだ、今度はらむと三人で集まるのはどうかな。意外と三人揃って話したことってなかったし、それに――」
僕が喋れなかった時、ユウはどんな気持ちで話しかけ続けてくれたのだろう。今の僕は上手く笑えているかな。ユウを不安な気持ちにさせていないかな。その不安が僕の声を止めてしまった。
ユウは視線こそ合わせてくれたが、口が動くことはなかった。横付けしたバスが停まり、利用客が乗り込んでいく。ユウの姿もバスの中へ吸い込まれていった。
もしかしたらこれで二度と会えなくなってしまうのでは?
だとすれば僕も一緒に乗り込むべきなのでは?
そう思いながら僕の足は動かない。
これまで自分で選択してこなかった代償が、すぐそこまで僕の世界を蝕んでいた。
この三年間で僕の生活は大きく変わった。しかし、実家を飛び出したのは姉が誘ってくれたから。小柴農園で働き始めたのも姉が助言してくれたから。働き続けることができたのも姉が帰れる場所を作ってくれていたから。そして、小柴ご夫婦や英莉さんの厚いサポートがあったから。
なにより今日まで生きてきたのも、ユウとの約束があったからだ。
全部ぜんぶ、僕は責任を他者に預けて無責任に生きてきた。
その時、僕は奇妙な夢のことを思い出した。夢幻の空間に現れた怪異な人物。
『あなたの未来を邪魔する者に銃口を向けるのよ』
ローブ女はそう言った。
夢の中の僕は〝理想の僕〟を何度も撃ち、剰え想いを寄せるユウのことさえ撃とうとした。夢の中とはいえ、とても正気の沙汰ではない。
しかしだとすれば、僕はあの夢の中で誰を撃つべきだったのだろう。僕の未来を邪魔する者。
『だからどうか、コウタくんも自分に打ち勝って』
不意にユウの言葉が重なり、あの時導き出すことのできなかった答えが浮かび上がった。
そうか……。夢の中で出てきた拳銃が表していたものは勇気だ。打ち勝つ。撃ち勝つ。僕にずっと足りなかったもの。つまりあの時、拳銃を向けるべき相手は――他の誰でもない僕自身だったのだ。
バスの扉が閉まり、ゆっくりと発車する。窓側に座っていたユウがこちらを見た。僕は重く持ち上げた手を振る。ユウからは何もリアクションがないまま視線が外れる。
バスは白銀の世界を背景に去って行った。
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