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Chapter2「この命に名前を付けて」
#5
しおりを挟む夕焼けが空を染め上げ、街灯りがぽつぽつと目を覚まし始めたなか、目の前の建物は大きな口を開けるように僕たちを歓迎していた。一足早く濃紺に満ちた空間に足を踏み入れた僕は、前を歩く英莉さんの後を付いていく。
ワンドリンク代の五百円玉が同じくらいの大きさのプラスチック製コインに変わり、もぎられたチケットの半券を受け取る。それらを握りしめて薄暗い灯りを頼りに、僕たちは地下へと降りていく。
事前にキャパシティー百人の小さなライブハウスと英莉さんから聞いていたが、全席スタンディングでコンクリートの床が広がる空間は、思ったより広く感じた。とは言え、まだ客は疎らにしかいない。これから人が集まってくると圧迫感を抱くのだろうか。あまり人混みが得意ではない僕は、それなら端っこか後ろの方で静かに観たいなと思っていたが、その心配は多くの人にとって悪い意味で必要なかった。
結局、英莉さんと一緒に最前列の端で開演を迎えた僕は、前方のステージに目を凝らした。幕袖から四人の女の子が出てくると、ライトが彼女たちの足元をわずかに照らす。定位置に着いたのか各々がポーズを取り静止すると、Sound Effect――通称SEと呼ばれるらしい音楽が流れて彼女たちが静かに踊り出す。
その姿に視線を揺らしながら、僕は一週間前のことを思い出した。
「一緒にアイドルのライブを観てほしいんだ」
僕にそう告げた英莉さんは、どこか緊張しているように見えた。
「アイドルのライブですか」
「うん、コウタくんは観たことある?」
「いえ、僕はその辺には疎くて……。テレビの歌番組でたまに見るくらいです」
「なるほどね。あたしがこれから話すアイドルは、そのイメージとは少し違うかもしれない」
「と言うと?」
うーんと少し悩んだ英莉さんが不意にパッとひらめいた表情を見せ、バックからスマホとイヤホンを取り出した。
「その子たちの曲を流すから聴いてみてよ。きっと、それでわかると思う」
英莉さんからイヤホンの片耳を借りた僕は、流れる音に耳を澄ました。約四分間、僕はその楽曲からさまざまな感性を刺激された。それは初めての感覚だった。たしかに、僕が想像していたアイドルの曲とはかけ離れている。
「Colorful Parasolっていうライブアイドルの曲なんだ」
曲が終わりこの感情に当てはまる言葉を探していた僕に、英莉さんが呟いた。
「あたしはこの曲に何度も救われて、勇気を与えられて、未来を描いてもらったから今日まで頑張ることができた。きっとこの先もずっとね。だからこそ、長く続けてきたピアノを辞めることにも躊躇いはなかった。諦めたんじゃなくて、もう後悔はないって納得したから辞めたんだ」
今日に至るまでアイドルや自分の話をするとき、英莉さんは真剣に語ることが多かった。別に普段からずっと戯けているわけではなかったが、この時だけは英莉さんが歩んできた色んな経験が表情に刻まれていて、僕は大事にそれを受け取った。
「もともとは好きで始めたことだった。お母さんが趣味でピアノをやっていて、それを見ていた幼き頃のあたしも興味を持って弾かせてもらっているうちに好きになったっていうよくある理由。発表会とかコンクールにも出たことなくて、ただ趣味でやっていただけなんだ」
記憶を振り返る英莉さんの視線が上がる。太陽の熱視線に目を細めて、右手で影を作っている。その一つひとつの仕草がとても絵になる人だ。
「小学生の時、学校に仲良し広場っていう場所があって其処にピアノが置いてあってね、休み時間になるとよく弾いてたの。あたしは外で活発に遊ぶタイプでもなければ、本を読んだり絵を描くタイプでもなかった。何だろうな……夢中になれるものがなかったというか、子供ながらに冷めていたというか。だけど唯一ピアノだけは何も考えず楽しむことができた。だからいつからか其処が自分の居場所になった。あたしが毎日弾いていると少しずつ聴いてくれる人が増えるようになってね、同級生だけじゃなくて下級生や上級生の子も集まってくれて、みんなわくわくした表情で耳を澄ましてくれていたの。それがとっても嬉しかったな」
英莉さんが微笑む。その表情から情景を想像できた僕も頷く。
「中学生になって、学校内の合唱コンクールであたしは伴奏に選ばれたんだ。一年生、二年生の時は金賞を取ることができた。別に取ったから何があるってわけではないけど、学生の時って体育祭の時もそうだけど競うことがみんな好きでしょ? もちろんその雰囲気が苦手な子もいてあたしもそうだったけど、でも自分のクラスが金賞を取れると嬉しかった。だから三年生の時には不安なんてなくて自ら立候補した。周りもあたしが伴奏者なら楽勝だねなんて笑ってた。だけどあたしは当日ミスをしてしまったの。サビに入る前の何でもない小節で、右手の人差し指が一音だけズレたんだ。練習でも一度もミスをしたことがなくて、緊張をしていたわけでもなかった。今でもどうしてミスタッチをしたのか分からないんだよね。自信ゆえの油断だったのかな」
英莉さんが右手を広げて鍵盤を落とすように指を動かす。音が聞こえたような気がした。
「人ってさ、想像もしていなかったことが起きたとき、逆に冷静になるんだよ。知ってた? その時のあたしは『え、止まったけどどうするの?』なんて他人事のように考えてた。もしかしたら笑ってすらいたかもしれない。すぐに何でもなかったかのように再開させたけど、数秒も止まってしまった世界を動かすのは難しかった。結局、あたしたちのクラスは何の賞も貰えなかった。もうあの時のクラスの空気は最悪だったなあ。今でも夢に出てくるくらい。合唱コンクールって言うくらいだから、伴奏者のミスなんて関係ないのかもしれない。でもそういう空気感ってあるでしょ? できて当たり前だけど、失敗したら大きな減点になること。どれだけ正解を出せるかじゃなくて、どれだけミスをせず普通になれるか。学生の時なんてそれで自分の立ち位置が決まってしまうくらい運命を決めてしまう。人生ってそういうのが多すぎるとあたしは思うな」
苦しそうに息継ぎをした英莉さんが言葉を重ねる。
「上手く言葉にするのは難しいんだけど、世の中には最初から選ばれた人がいるんだよ。誰だって努力で水準を上げることはできる。だけどね、その上限が決まってる。あたしの上限が誰かの初期値だとしたら、あたしはもうその人には絶対敵わないことになる。次第に努力をすることに意味があるのかなんて考えるようになって、学生の頃はずいぶん悩んじゃったな……。だけど結局は自分の弱さなんだろうけどね。あたしより秀でている人が才能だけで積み上げてきたとは思わない。ちゃんと同じように努力を重ねてる。それは素直にすごいって大人になって認められるようになったよ」
英莉さんの左手にはめられた指輪が光る。右手から左手へ、まるで人生の道のりを移動するように光が辿り、時間は現在に到着した。
「それで気付いたの。あたしは誰かに勝つために、一番になるためにピアノを弾いていたんじゃない。好きだから始めてずっと続けていた。それ以上の理由なんていらなかった。世界は変えられなくても、大切な人に届けばいいんだって。小学生の時、私の演奏に耳を澄ませてくれた人が微笑んで聞いてくれていたように――それが何よりも幸せなことなんだって気付かせてくれた人がいた」
英莉さんが大事そうに指輪をなでる。
「彼はね、あたしがピアノを辞めようと思うと言った時、もう少し頑張ってみようと励ましの言葉を掛けるわけでも、あたしがそう言うならと委ねるわけでもなく、『どんな未来でも君のピアノに僕が救われた事実は変わらないよ』って笑って認めてくれた。きっとその時、あたしの夢は叶ったんだ」
幸せそうに微笑んだ英莉さんは、話の最後をこう締め括った。
「それにね、あたし思うんだ。誰かの夢が自分の夢になることもあるんじゃないかって。これは勝手な話だけど、あたしは自分の好きなアイドルの子に夢を託したの。もしその子が今後夢を叶えたら、あたしはそれを自分のことのように嬉しいと思うし幸せだと感じる。それってもう自分の夢が叶ったようなものじゃない? だから、あたしはピアノを辞めた。それでもコウタくんが求めるならあたしは弾くよ。でもね、もう一度鍵盤に指を落とすその前に、あたしの好きな子の姿を見てほしいんだ。今となってはそれを含めて奏でることができる音だから」
そんな英莉さんが夢を託したアイドルに僕は興味が湧いた。ライブアイドルというカテゴリがあることも知らなかった僕に、英莉さんは基礎知識からマイナーな情報までたくさんの話をしてくれた。
揺らめいた時が戻る。
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