命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter2「この命に名前を付けて」

#3

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 しかしアルバイトとして働き始めてからも困難に直面していた。学校と社会は似たような属性を多く持っているが、ひとつ違うのは責任の大きさだった。たとえば学校では成績を落とそうが欠席しようが、ほとんど自分にしか影響はない。しかし社会では自分のミスが会社の損失になったり、周りに迷惑をかけることになる。

 そうなると同じ時間を過ごすなかでも気の遣い方や意識の張り巡らせ方が断然違う。仕事を覚え、与えられた業務をこなし、周りの目を伺い適度なコミュニケーションも築いていく。性格的な問題もあるだろうが、それらは僕にとって常に心が全力疾走している感じだった。

 着実に心身の疲労に繋がっていき、だんだんと朝起きることが、考えることが、動くことができなくなっていった。

 そうして僕はわずか一ヵ月で初めてのアルバイトを電話一本で辞めた。「体調不良は仕方ないけど、いきなりそれは無責任だよ」電話越しに告げられたその言葉が忘れられない。もちろん、自分が悪くて周りに迷惑をかけることだったと自覚している。だからこそ、しばらくのあいだ罪悪感に襲われた。

 やがて自分が生きることに対して強い執着心がないことに気付いた。正確に言うなら、ユウとの約束の日を迎えるまで命を繋ぐことができたらそれでよかった。もし、その生活の中で自分のやりたいことや生きる意味を見つけたら、そのときはそれに縋って生きていけばいい。

 きっと、僕の考えをほとんどの人が甘いと否定するだろう。そんな甘い生き方は無責任だと。そんなの分かっている。だから僕は生きることを望んでいない。『それでもみんな頑張ってる』って誰が僕の人生を生きたんだ? 視えない声に僕は喚いていた。

 それから数か月のあいだ、僕は短期アルバイトを転々とした。姉は僕がそういう生き方をしていることに何も言わなかった。「今回のバイトはどうだった?」「私も興味あったんだよね」と笑顔で話を合わせてくれたのが救いだった。

 季節は夏になり、僕はまた新たなアルバイト先に向かっていた。今回は市街地から大きく離れたずいぶん遠い場所だったが、送迎付きで時給も良かったので決めた。それが小柴農園だった。

 ご夫婦と主婦のパートさん数人で切り盛りしているところで「若い子がいると助かるわ」と暖かく迎え入れてもらった。屋外での体力仕事ではあったが、自然豊かな環境で伸び伸びと体を動かすのはとても心地良かった。もちろん、人間関係の良さも僕の心を穏やかにさせた。

 元々は二週間の短期だったが、次が決まるまでうちで働き続けない? とご夫婦に延長打診をしてもらい、僕は喜んで引き受けた。なんだかんだそれからずっと、僕は小柴農園で腰を据えて働いている。

 ある日、野菜の検品作業を倉庫でしていると、一台の車が目の前に停まった。小柴農園で使っている軽トラでもなければ、ご夫婦やパートさんの私用車でもない。それなら取引先の方だろうか? と思った僕が立ち上がって挨拶をしようとすると、中から若い女性が出てきた。

「あれ? みかけないお兄さんだね!」

 それが小柴家一人娘の英莉さんだった。そよ風が揺れると、英莉さんが着ている白いワンピースがたなびいた。農作業をするにはあまりにもそぐわない恰好だったが、田舎の情景に立てばモデルになりそうな美しい人だった。

 僕が茫然としていると、お構いなしに英莉さんは言葉を重ねた。

「暑い中お疲れさま! これ飲む?」

「あ、お疲れさまです。えっと、それじゃあ頂きます」

 この人は何者なのだろうと素性を探りながら、僕は英莉さんが手渡してきたペットボトルを受け取ったのだが、冷えているものだと思っていたそれは、冬場の浴槽のような熱を持っていて驚き思わず落としてしまった。

 すると、英莉さんは愉快そうに手を叩き笑った。

「あはは! これ朝一に買ったんだけどうっかり車の中に置きっぱなしにしちゃってさ、もう気付いたら熱々の水なの! いや、熱々のお湯か! こんな暑い時に飲めたもんじゃないよねえ」

「はあ……」

「ごめんごめん、そんな嫌な顔しないでよ。ほら! ちゃんと冷たいお水もあるよ!」

 僕は警戒しながら、英莉さんから差し出された新たなペットボトルを受け取る。今度は言葉どおり冷えた水だった。僕がお礼を言うと、英莉さんの表情がより眩しくなる。

「今度はあたしにもおごってね! あたしはパウチ型のスポーツドリンクが好き! 凍らせて持ってきて、それがちょっと溶けかけになってる時が美味しいんだよね!」

 英莉さんは、最初からこういう人だった。ユニークというか、少し変わっているというか。だけど僕は嬉しかった。姉やユウのように色眼鏡をかけず接してくれることが、僕の命がこの世界に存在していることを証明してくれた。

 その時、僕たちに向かって一つの声が届いた。

「こら! 英莉! あんたどこ行ってたんだい?!」

「やっば、お母さんだ。ごめん! 今日はこの辺で!」

 なるほど、娘さんだったのかと合点がいきながら、急ぎ足で車に乗り込んだ英莉さんを僕は見つめる。一瞬動き出した車体がすぐに止まると、運転席の窓が開いた。

「ねえ! 名前何ていうの?」

 僕は戸惑いながらも自分の名前を告げた。

「コウタくんね、覚えておく! あたしは英莉! 気軽に英莉ちゃんって呼んで! それじゃあまた来るから!」

 色んな意味で急加速して去っていった英莉さんの車が見えなくなった時、ビニールハウスで作業していた奥さんが、息を切らして僕の元までやってきた。奥さんは呼吸を整えながら額から流れた汗を拭い、英莉さんが去っていた方を見ながら呟いた。

「全くあの子ったら、逃げ足だけは早いんだから……。何か失礼なこと言われてないかい?」

「いえ、大丈夫です。それより娘さんがいらっしゃったんですね」

「ろくでもない子だけどね。何年も前からずっとほっつき回っててねえ」

「以前はここで働かれていたんですか?」

 少しだけ間が空いたあと、奥さんは首を横に振った。

「夢を持っていたんだ」

「夢、ですか」

「あの子は幼稚園の頃からピアノをやっていてね、将来はピアノの先生になるって言っていたんだよ。だけど大人になるにつれて迷いが生まれたんだろうね、不安ばかり口にするようになったんだ」

 あの明るい英莉さんの姿からは少し想像できなかった。

「しばらくはアルバイトで子供たちに教えたり、夜になれば小洒落たBARで弾いていたみたいだけど、もうしばらくそういう話は聞かなくなったね。今は滅多に連絡も寄こさないし、どうやって生活しているのかもわからないよ」

「なるほど……」

「もういい大人なんだから、真面目に生きるコウタくんを見習ってほしいものだよ。また来たら、コウタくんの方からも言ってあげて。家を継ぐのか、それとも真面目に働くのか決めなさい。そして、無責任に生きるのは辞めなさいってね」

 溜めていた思いを言って満足したのか、スッキリした表情に変わった奥さんが「今日も暑くてまいっちゃうわ」と言いながらビニールハウスに戻っていく。僕も倉庫に戻ったが、しばらく作業を再開できなかった。
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