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Chapter2「この命に名前を付けて」
#2
しおりを挟む高校三年の夏、大学に進学しないと僕が告げた時の両親は、言葉を認識できない赤ん坊のように真っ直ぐな目で僕を見ていた。そのまま笑うか泣いてくれたら良かったのに、すぐに大人の姿に戻って怒号が襲った。
「何を無責任なこと言っているの?!」
「ふざけたことを言うな! これまで誰のおかげで学校に通えていたと思っているんだ!」
母の言葉も父の言葉も、異なる角度で僕の身体に深く突き刺さった。途端に弱った心が僕の意思を曲げようとする。
だけどすぐに姉の顔が浮かんだ。姉は今の僕よりずっと幼い頃から耐えていたのだ。今すぐ姉のようには強くなれなくても、ユウとの約束の日を迎えるまでには僕もいつか、きっと。
「無責任……か」
僕が苦笑すると、それはもう大きな雷鳴が家を揺らすように響き渡った。
それから何度も家族会議が開かれたものの、話をする度に関係性は悪化していった。大学に進学するなら自分が興味のある学問を学べる所へ、と僕が少しだけ妥協案を出したこともあったが、両親には大手企業から求められるランクの高い大学以外に価値はないと言われてしまった。
その言葉に僕は何度も悩まされた。自分に価値がないことを恐れていたのは今に始まった話ではない。ただ、これまで両親の言葉を信じて生きてきた僕にとって、『他の道を選択しても価値が生まれる』という確証がないのも事実だった。
現実問題、どちらも正解でありどちらも間違いなのだろう。むしろ両親はそれで成功したのだから、僕に当てはまるかどうかは置いといて前例として根拠も存在している。それに大学は行かないと決めた僕の進路先も未定で、興味のある学問というのもハッタリだった。
これでは客観的に見て分が悪いどころか、両親の言っていることが正論にも思える。最終決断の時間はすぐ目の前まで迫っていた。
そんな時、姉から連絡があった。高校を卒業して実家を離れて行った以来だったので、実に二年半ぶりだった。引っ越しをするから手伝ってほしいという内容に僕はすぐ承諾した。
久しぶりに会った姉は、また一回り大人になったように見えた。実際、姉は既に成人を迎えていたわけだが、社会人として生きた経験がそのまま顔に刻まれたような、同年代の大学生とはまったく違う顔つきをしていた。
「ごめんね、ちょっと仕事が忙しくて。一人だと時間もかかるし、どうしてもやる気が起きなくてさ」
部屋は適度に散らかっていて、コンビニの袋や惣菜が入っていたのだろう空の容器などがテーブルの上に散乱していた。いま姉の置かれている現状が普通ではないとすぐに分かる。
「姉ちゃん、無理してない?」
僕の問いに、姉は無理やり笑顔を作った。
「正解。だから仕事を辞めるの」
僕は何も言えなかった。自分の進路で両親と揉めていた真っ只中、また深く考えなければいけない現実だった。
決して姉の選択が間違っていたとは思わない。だけど僕の中で尊敬する姉でさえ上手くいかないことがあるのなら、僕はその何倍、何十倍も上手く生きなければいけないということでもあった。
「ねえ、コウタ。しばらくお姉ちゃんと一緒に住まない?」
それは僕にとって、とても優しい逃げ道だった。
「姉ちゃんと一緒に……?」
「その様子だとコウタも大変なんでしょ? 余裕ができるまでお姉ちゃんと一緒にいてよ」
僕と姉の共同生活は、こうして始まることになった。
高校卒業をした翌日に、「就職先が決まったから一人暮らしをする」と言って僕は十八年間住んだ家に別れを告げた。
大きなリュックを背負い、キャリーケースを引く僕の姿は、周りから見たら旅行者にでも見えていただろうか。実際は十八年間生きてきた中でこれだけは持って行きたいという物が、衣服や生活必需品を含めてこの程度しかなかったという悲しい現実だ。
しかし姉の新居がある最寄り駅まで電車に揺られているあいだ、僕の心臓は強く高鳴っていた。もちろん不安がなかったわけではない。就職先が決まったなんていうのは嘘で、進学をしたわけでもなかった。現時点ではまだ進路未定の学生という括りだが、四月になればただの無職となってしまう。上手くいかなかったからやっぱり実家に戻らせてくださいなんて都合のいい話は存在しない。
だけど初めて自分で選んだ道は何もかも未知の世界で、不安より期待や希望の顔が覗かせていた。それに、また姉と一緒に生活を過ごせるのも嬉しかった。僕の人生はここから再スタートするのではなく、まったくの別人として生まれ変わった気持ちで生きていこうと強く意気込んだ。思えばユウと再会するまで、この時がいちばん活力に満ち溢れていたかもしれない。
姉が再就職先を見つけるまでそう長く時間はかからず、僕も自分の仕事先を見つけることにしたが、面接でことごとく落ちた。電話連絡の段階で「募集を締め切ってしまって……」と求人サイト掲載の初日に言われたこともあった。
ユウとの文化祭期間を経て僕の声は一時的に回復していたが、それは日常生活を送る上で支障はないというレベルであり、社会の歯車になれるかどうかはまったくの別問題だった。
第一、面接対策が不十分なことに加えて、覇気もない姿で使い回しの言葉を機械的に述べていたのだから上手くいかなくて当然だろう。自分を出すのが苦手な僕にとって、唯一の武器は進学校を卒業しているという点だったが、なぜ進学しなかったのですか? という最もな問いに対して答えることができなかった。
両親の教育方針に疑問を感じたから、声を出すことが難しいから、そんなの相手からしたら知ったことじゃない。仮にそれが理由として認められても、それではなぜ学生のあいだに就職活動をしていなかったのですか? と言われてしまえば詰みだった。
僕にできることは、僕だけにできることは何だ。そんなものはずっと存在しなかった。ずっと見つけられなかった。ただ今日を乗り越えるために精一杯頑張って生きてきた。だから明日もそうして生きていく。それ以上の理由が必要あるだろうか。大人になるって、生きていくことって、こんなにも大変なことなのかと僕は深く悩んだ。
物事において上手くいかないことが続くと視野が狭まっていく。太陽の光が眩しすぎるくらい感じるようになった。人の視線が肌を刺すように痛くなった。ちょっとした物音がうるさく聞こえるようになった。これ以上は危険だと脳が身体に伝え、状態異常や拒否反応を起こさせて休ませようとしているのだろう。
それでも頑張らないといけない。ここで休んでしまったら二度と立ち上がれない気がした。携帯電話を持つ手が震える。合否待ちの面接先から連絡をもらっていて折り返しをしなければならないのに、たったそれだけのことで数時間も躊躇う。ようやく勇気を出して繋がった先から聞こえた声は。
「今回は残念ながら──」
今回“も”落ちた。いっそ、落ちるところまで落ちたらどうなるんだろう? と考えていた時、「アルバイトから始めてみたら?」と姉に言われ、僕は自我を保てているうちにすぐ切り替えた。今度はあっさりと面接を通り、製造会社の工場で働くことになった。実家に住み続けていたら僕は本当に堕ちていたかもしれない。
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