命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter1「イキワズライ」

#13

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 その生活は、ある日突然終わりを告げた。

 僕が高校受験に合格した時、自宅で祝賀会が行われた。両親はこれまでのどんな日よりも上機嫌で、しばらくは姉との争いが起きなさそうだと僕も呑気に笑っていたが、姉は終始浮かない表情をしていた。

 あと数分で日付を跨ぐ頃には、両親はすっかり酔いつぶれて爆睡していた。そういえば、おめでとうと言ってもらったっけ……? と思いながら、いつも毅然たる態度で接している両親が、アルコールに少し体を浸けられただけでこんなにも無防備な姿になってしまうことに少しだけ寒気がした。

「コウタ、散歩に行こっか」

 それがこの日、初めて聴いた姉の声だった。こんな深夜に? と言いかけて僕は口をつぐむ。思えば、ずっと受験勉強が続いていて、姉と会話らしい会話を最後にいつ交わしたかも思い出せないほどだった。それに二人きりで外を歩くなんて、なんだか小学生の時を思い出して懐かしい。僕は深く頷いて、寝静まった住宅街を姉と一緒に歩くことにした。

 三月の夜はまだ肌寒くて、だけど嘘みたいに空が綺麗だった。すぐに寒さなんて忘れてその光景に魅入る。藍色の闇夜に散りばめられた星屑がはっきりと視認できた。一つくらいこぼれ落ちてこないかな、なんて思考を巡らせるほど幻想的だった。

「姉ちゃんは高校卒業したらどうするの?」

 ふと、姉の進路を訊いていなかったなと思い、僕は訊ねた。

「事務の仕事に就くよ。ああそれと、家から出ていく」

 さも当然かのように言われたが、僕はあまり驚かなかった。いつかそんな日が来る気がしていたから。一際輝いていたひとつの星が光を失って消えたように見えた。

 姉は市内の公立高校に在学していて、人並みの青春は送っていると本人から聞いていた。三年前、姉が高校受験する頃には、両親はもう完全に僕一人だけを優等生に仕立て上げようとしていたので、良く言えば姉に対して一切干渉することはなくなり、悪く言えば存在そのものを認識しなくなったかのような、家族とは思えない関係性を見せていた。僕はそれを心痛く見ていたが、姉はそちらのほうが快適だと僕に話していた。

 部活動にも所属していた姉だったが、当然両親からの援助は一円たりともなく、すぐにアルバイトを始めて自分で部活費用を稼いでいた。学業に部活動にアルバイト。どれも疎かにすることなくこなし続け、たまに訪れる休みの日も朝から外出し、夜まで帰宅することはなかった。この家を避けているのは明らかだった。

「そっか、寂しくなるな」

「本当に言ってる?」

「姉ちゃんは大切な家族だから」

「嬉しいな。コウタはいつでも遊びに来ていいよ」

 現実的に僕が姉の家に行っていると両親に知られたら、さぞ憤慨されるだろうから実現することはないと思う。それは姉のほうが充分わかっているだろうが、僕は無言で頷き、姉もまた頬を緩めた。

 それにしても僕とたった三つ歳が違うだけで、もう姉は自立しようとしている。三年後、僕も姉のようになれるだろうか? イメージを頭の中に展開しようとしても、真っ白な空間が現れるだけだった。

「コウタはさ、将来のこととか考えたりする?」

 呟いた姉の横顔を見る。そこにはもう僕の知っている姉はいなかった。身体的に成長して女性らしさが増したのもあれば、人生のターニングポイントに差し掛かり決心した精神的に大人らしい雰囲気もある。だけどそうじゃない。

 小学生の頃、放課後になれば姉と揃って公園へ遊びに行き、将来のことなんて考えず無邪気に時を過ごした毎日。夕焼けや宵闇を目に映して余韻に浸りながら、こんな日がずっと続くと思っていた帰り道。確かにその場景を姉も隣で見ていた。

『あなたの幸せのためなのよ?』

 両親のそんな言葉が誘い、たくさんのことを犠牲にして僕は今日まで頑張ってきた。そして高校受験に合格した僕は、誰かの涙が降るこの世界で安堵して笑った。その幸せを掴めない人だっている。それなのに何だろう、この報われない感情は。

 目に見えるものはずっと変わっていない。だけどきっと姉には、あの頃とは世界が大きく違って映っている。僕だけがあの日に置いてけぼりのまま、前に進めていない。待ってよ──そんな声は姉に届かぬまま、僕は何処へ。

「考えることはあるけど、今はまだ想像もつかないんだ。自分のことなのに自分が分からなくて、だけど何が分からないのかも僕には」

 その時、上空から何かが舞い落ちて僕の鼻先に落ちた。ほのかな冷たさを感じながら見上げると雪が降っていた。土地柄、三月に雪が降ることはことさら珍しいことではないが、春の訪れがまた一歩遠のいたような、どこか悲しさを醸し出す雰囲気が襲う。

「そっか。コウタはとっても偉いよ。お母さんたちの期待に応えて、ちゃんと結果を残している。私とは違って真っ直ぐ生きていて、その魅力はずっと大事にしてほしい」

 ふいに姉が僕の手を握った。冷え性の姉の体温は僕の手を温めるのに不十分だったが、僕の胸は何かを訴えかけるように熱を持って疼き始めた。

「だけどね、誰かにとっての正しさが自分にとっての正しさになるとは限らない。その逆もまた然り。法律で決められて刑罰が科せられると分かっていても破る者だっている。そういう意味ではこの世界に正しさなんてないんだよ。だからもしこの先、コウタが疑問に思うことがあってそれが自分の将来に関係する大事なことで対立した時、自分が正しいと思うことを選ぶんだよ?」

「それが間違いだったら……?」

「うん、間違いかもしれない。だけど相手の言うことだって間違いかもしれない。それは結果が出てからじゃなきゃ分からないんだ。それなら自分が信じたものを選んで、自分の人生は自分で守らなきゃ」

 姉はいつも毎日が楽しければ幸せだと楽観的に考えているのだと僕は思っていた。でも決して利己的に生きていたわけではない。いつだって両親が望んでいた結果を僕と同じように出し続け、その道筋を自分で作っていた。そして今、両親が何かを論述しなくても、姉は自分の人生観を確立できるようになっている。それは少なくとも三年前、いま僕と同じ年齢の頃には。

 ああ、本当にすごいな……とあらためて姉を尊敬した瞬間だった。

「でもね、この世界で生きていくには自分一人で解決できないこともある。大人になるにつれて自由が利かなくなるんだ。コウタも気付いているでしょ? だからそういうときは誰かに頼らなきゃいけない。もし今後、コウタのことを理解してくれる大切な人と出会った時、その人の言うことは信じて頼ってみて? この人なら何でも話せる、この人なら分かってくれる、この人のためなら何でもしてあげられる、そんな自分が自分でいられる大切な人。そしてその人が助けを求めた時は、コウタが救ってあげるんだよ」

 はたして、僕の前にそんな大切な人は現れるだろうか。

 夢も希望もないことは言わず僕が無言で頷くと、姉は握っていた手をゆっくりと離した。ひんやりとした感触が抜けたはずなのに、僕の手は一段と冷えていく。

「コウタ、合格おめでとう」

 姉の祝言に僕は何も返すことができなかった。
 代わりに温かい涙が頬を伝って、雪と混じり溶けて消えていった。
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