命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter1「イキワズライ」

#11

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 間もなく会場が暗転し、司会者にスポットライトが当たった。いよいよユウの出番のようだ。

 あらためて今日という日を迎えられたことが夢のようだ。とは言え、現実と夢の定義に明確な違いはない。どちらも自身が体験するもので、過去になれば記憶に変換され、溢れたものは流されて忘却していく。

 違いがあるとすれば、夢はその記憶が自分の中だけに存在しているものに対し、現実は他人の記憶にも生きていることを意味する。だからこそ僕は、夢なんて言葉で終わらせたくなかった。太陽のように暖かいユウの朗笑も、月のように優しいユウの言葉も、地球のように何物にも代えられないユウの存在も。全部ぜんぶ、現実じゃないと救いがないから。

 一瞬にして流れた追憶がこの夢から醒まそうとした直前、僕は抗うことにした。

「一つだけ訊いてもいいかな」

 高揚しているようなユウの横顔に、僕は図々しく声をかける。ユウは「うん?」と首を傾けて、僕の言葉を待った。

 最後まで僕は我儘な人間だと思う。これだけ現実に光を注いでもらったのに、これ以上何を求めるというのだ。楽しんできてと笑顔でユウを見送ればいいのに。

 だけどまだ僕は自分の弱さを認められていない、認め方がわからなかった。これから一人で生きていくには、弱さを認める強さが必要だった。

 刹那、らむの言葉が頭の中で甦る。

『ユウちゃん、ギターを始めるまでは──自分の本心を声にすることができなかったんですよ』

 ユウがレイを演じなくなっても生きることができたように。

 ユウがレイとして生きていたあの時、たしかに僕と同じように一度も声を出すことはなかった。真夏日でもマスクを付けて、ショートボブの髪で輪郭をすっぽりと隠し、前髪のわずかな隙間から覗く眼はいつも何かに怯えていた。

 僕は思考の問題で声を断片的に失っていただけだったが、彼女は間違いなく精神的なことで声を失っていたのだと思う。彼女が初めて僕に文字で話しかけてきた時、『あなたも声を出さないんだよね?』と言ってきたが、僕の警戒を解くために繋ぎ合わせただけだろう。それが彼女の唯一妥協した部分だった。

 そういった意味で僕は声を〝出さない〟に対して、彼女は声を〝出せない〟はずだったのだ。だから、僕と彼女が持つ声の価値観は違ったし、互いを理解して協調性を保つのはとても難しかった。

 そんな彼女の名前、本名を知る機会がなかったわけではない。だけど知る必要がなかった。僕のような見て呉れだけで確立しているものではなく、彼女はあの時、確かにレイとして生きていた。それを疑うのは彼女の存在を否定するということだったから。

「どうすればユウのように……いや、レイのように強くなれるのか教えてほしい」

 僕はとても自分勝手だ。あの時、ユウを──レイを見捨てたのに、声を得たと知ったら今更助けを求めようとしている。

 本当は僕も声を出せなかった。周りの人間が分かっていないから出さないだけと強がっていたが、価値のない自尊心は結局自分の人生を苦しめるだけだった。だけど再びやり直せる機会があるのなら、今この時しかない。

 僕の問いかけに、ユウは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに涼し気な表情を見せて言葉を紡ぎ合わせた。

「私は強くなんかないよ。でも、コウタくんからは私がそう見えているのだとしたら、それが答えなのかもね。強いんじゃなくて、強くいられる理由。私が求めているのもまた──」

 言葉の続きは客席から聞こえてきた音に遮られた。

「行ってくるね」

 止まらない時間に邪魔されて僕たちの視線が外れる。

 ぬるま湯のような拍手に向かい入れられ、ユウはステージ上に用意されたマイクの前で歩みを止めた。途端、耳鳴りが聞こえてくるほどの静寂。たった一点に幾つもの視線が集まっているのが分かる。

 ユウは変わらず冷静な表情で客席を見渡したあと、ゆっくりと視線を落としてギターに手をかけた。静かなメロディーから始まるイントロに、会場の雰囲気がガラッと変わったのを肌で感じる。

 その空気感を味わいながら、僕は歌詞を書いた時のことを思い出した。



 この楽曲は、とある少年が旅をする物語だ。少年はたった一枚の地図を持って目的地に向かい歩みを進めていくのだが、道中地図にはない道を発見する。どうやら地図は古いものだったのか、新しい便利な道が整備されていたようだった。少年と同じように歩いていた人たちは皆そちらに向かっている。

 しかし少年は興味を示さず、地図通りの道を忠実に辿っていく。地図は両親からもらった大切なものであり、どんなことがあっても記された通りに進みなさいと少年は言われていたからだ。

 ここまでを考察するなら、決して周りに流されることなく立派な矜持を抱いている少年の話かと思いきやそうではない。

 次第に困難が少年を襲う。徐々に道と呼べるものではなくなった道のりは、砂漠のような先の見えない果てしない景色に変わった。喉を枯らしながら歩き続け、やがて緑を見つけたと思えば、今度は蔓植物や灌木が密生する見通しの悪いものになり、ようやく抜けた先には流れが急な川が一直線に引かれていて少年は命がけで横断する。

 そんな苦労を重ねた少年に待っていたのは、至福の面影もない断崖絶壁の行き止まりだった。少年はひどく困惑する。引き返そうにも再び生還できるか命の保証はなく、持ってきた食糧も底をつき始めていた。どうすればいいのか分からなくなった少年はパニックになり、足を踏み外して崖から落下してしまう。

 死を覚悟した少年の頭の中では、さまざまな記憶を切り取った映像が目の前で流れていた。幼少期のとあるシーンで時間は止まり、少年は目の前の記憶に触れる。

『自分の人生に名前を付けてみてください』

 小学校低学年の頃、道徳の授業で教師が投げ掛けた言葉を少年はよく憶えていた。周りは「ハッピー人生」「友達たくさん人生」など年相応のネーミングセンスであったし、回答の内容どうこうより考えることを学ぶ意味があったのだと思う。

 しかし少年は、最後まで名前を付けることができなかった。真面目に考えなかったわけでも、自分のことを理解していなかったわけでもない。むしろ、誰よりも真面目に考え、誰よりも自分を理解していたからこそ、そこに当てはまる言葉が存在しないことに気付いたのだ。

 あの日抱きかけた少年の気持ちが明白になる。名付けられない僕の人生なんて存在していないのと一緒なのではないか、と。

 再び少年の意識が戻った。ひどく時間の流れが緩やかになっていて、まるで世界が止まっているようだった。それでも命の灯火を残すかのように、少年の手にはくしゃくしゃになった地図が握られていた。そういえば、目的地には何があったのだろう? 命を懸けて、そして実際に命を失うほど危険を冒したにも関わらず、少年は目的地の名称はおろか、その目的すら知らなかったのだ。

 この地図を授けてくれた両親が行きなさいと言ったから、ただそれだけのことで疑う必要なんてなくて、そこに意味を求める必要もなくて。

 だけど騙されたとも少年は思っていない。新しい道を見つけた時、周りを歩く人に話を聞いていれば。道と呼べない道に景色が変わった時、これはおかしいと引き返していれば。結局自分自身で選択をして未来を決めたのだから、それを他人のせいにするのは間違っている。

 だけど、もし時間が巻き戻ってやり直せたとしても、本当の自分を見つけることができなければ同じ道を辿るだろうと少年は思った。せめて来世は“正しい普通”になれますように、と願った少年はゆっくりと目蓋を閉じる。

 そんな時、飛翔する一人の少女が、少年の前に現れて──。



 ユウの弾き語りは練習期間に何度も聴いていたが、本番の今日がいちばん心を震わせた。もちろん、色々な条件が重なり合ったこの空間が幻想的な時を演出しているのもある。けれど練熟した技巧というより、もっと単純に命を削り歌っているような儚さと力強さを僕は感じた。

 文化祭が終われば、この曲は長い永い眠りにつくだろう。歌詞という名の花びらがひとつ、またひとつと散っていき、一瞬の時を色付けていく。それはまるで夜空に浮かぶ花火のような情景だった。

“僕を連れていって 君が視ている世界へ”

 1サビ終わりの歌詞が花を咲かせて瞬く間に散ると、バラード調だった曲が転調してアップテンポに変わる。まるで別の楽曲のようだ。

 僕は歌詞を書いただけなので、他の部分に関してはリクエストもしていない。だけどこの曲調の変化は僕が頭の中で描いていたイメージ通り、むしろそれ以上の表現がユウによって施されていた。

 清書を一読しただけで楽曲世界の主人公が僕であると見抜いたユウの力は伊達ではない。となると、歌詞に出てくる少女がユウであることも見抜かれているのだろうか。袖幕から覗いて見えるその後ろ姿からは判断できない。

 そのまま客席にいる他の生徒を眺める。最初は周りと顔を見合わせながら様子を見ていた雰囲気も、今はユウの弾き語りに心を奪われているようで、みな真剣な眼差しをユウに向けていた。

 2Aからの歌詞は、直前になって大きく書き加えた部分だった。らむと出会ったことで心情に変化が生まれたからだ。それまでは希望も救いもないこの世界の不満を連ねていたが、この楽曲は決して僕だけのものではないのだと気付いてから色鮮やかに描くことにした。

 希望的観測を描くのは得意だった。たとえそれが事実にならなくとも、自分の眼にはそう映せばいいのだから簡単なことだ。就寝前の真っ暗な部屋で目を閉じている時、僕は瞼の裏側でよくそんな空想をしていた。いつだってそんな美しい光景は、夢のような儚く消えてしまったが。

 生きることって大変だ。止まない雨はないが、それまで耐えて乗り越えられるかどうかなんて分からない。今日できたことが、明日突然できなくなることだってある。そういう意味では照らし続けてくれる晴天だってなくて、頑張れなくなっても時間は止まってくれない。そんな波風に揉まれていくうちに息をすることが煩わしくなって、生きることに患いを感じて。

“世界にとって間違いでも 君の正しさになれるなら”
“この光を掴み取りたい 夢が現実に変わるまで”

 好きな人の力はすごい。よく物事は自分がどう映すかで変わると言うが、世界そのものが変わって見えるようになる。突然降り出した雨も、雨雲が去って行ったあとの虹を想像できるような、全てが幸せの欠片であると楽天的な考えになれるのだ。それは好きな人と一緒にいられることが、一緒の時間を過ごせることが、一緒の物事に触れて感情を共有できることが、何よりも幸せと感じるからかもしれない。

 そんな影響力を与えられるユウはきっと将来、僕に語ってくれた夢を叶えられるだろう。何百人という在校生がいる前で物怖じせず今この瞬間、未来へ煌めく音を奏でている。これが夢の一ページ目になるのなら、見届けることができた僕はとっても幸運だ。

 この光景を、そしてユウの姿をよく目に焼き付けておくことにした。
 一生忘れないように、最期の瞬間ときも思い出せるように。

 この文化祭という期間の日々が少しでもユウの力になったのなら。
 僕が歌詞を書くことによってユウの夢を模ることができたのなら。
 ユウが自分らしくいられる瞬間を再認識できたのなら。

 僕はもう何も望むことなどあるまい。
 瞬きを忘れて視線を注ぐ僕の目に涙が溜まる。
 零れ落ちないように、僕は大好きな人に向かって呟いた。

 「もう大丈夫。君は他の誰でもない、正真正銘のユウだ」

 その時、不意にユウが振り向いた。弾き語りは落ちサビ前の間奏に入り、終盤に差し掛かっている。僕は慌てて涙ぐむ目を見られないよう指先で拭う。この距離から僕の声が届くはずはない。それなのにユウは優しく微笑み、小さく口を動かした。

「ありがとう」

 ああ……きっと僕は今日という日のために、この瞬間のために頑張って生きてきたんだと思った。もう涙を止めることはできなかった。

“どうか君の目には この世界が美しく映りますように”
“そんな君の笑顔を いつまでも傍で見ていられますように“

 決壊した涙腺により視界が歪み、点々とした光だけが残った。
 今なら自分の人生に名前を付けられそうな気がしたけどやめた。
 これがきっと、僕が僕でいられる最初で最期の瞬間だから。
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