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Chapter1「イキワズライ」
#10
しおりを挟む演劇グループの披露が終わると、会場は爆発音のような拍手に包まれた。主演の女子生徒が感涙し膝から崩れ落ちると、周りの仲間が集まって労いの言葉をかけている。あえて月並みな言葉で表現したいくらい、絵に書いたような青春模様だ。
「すごかったね」
舞台裏で次の出番を待っていたユウがぽつりと言葉をこぼした。五分後には自分もあのステージに立つというのに、緊張の面持ちはなくとても落ち着いた様子だった。作詞という役目を終えて後は見守るだけの僕のほうが何故か緊張していて言葉を返せなかった。いや、本音をこぼすならそれをすごかったと言えるユウのような優しさを、僕は持ち合わせていなかったと言ったほうが正しい。
ステージ上では、裏方を含めた演劇メンバー全員が一列に並び、リーダーと思わしき男子生徒が御礼の挨拶をしている。「誰一人欠けることなくこのメンバーで披露できたことが本当に嬉しい。今日という日を一生忘れないように大切にしたい」とこれまた涙を流しながら、客席に熱い言葉をぶつけていた。
「誰一人欠けることなく……か」
心の中だけに留めたつもりだったが、僕の口からわずかに声がもれた。僕たちの事件はなかったことにされているのか、あるいは同じような離脱が起きなかったことを言葉にしただけか。
「私たちも欠けることなかったね」
隣にいたユウが一瞬僕の方を見て、再びステージ上に視線を戻しながら言った。
「二人だとどちらかが欠けたら、それはもう形として成さないな」
「たしかに。じゃあ私たちは一心同体ってわけだ」
「それはとてもポジティブな考え方だな。でもユウなら、僕がいなくても今日を迎えられたよ」
「それなら逃げ出しても良かったのに」
「現実から逃げ出したからここにいるんだ」
「なるほど、そういう考え方もあるなあ。でもね、コウタくんは闘ったからここにいるんだよ?」
僕がどれだけ思考を不幸に引き寄せられても、ユウはいつも軽々と拾い上げて軌道修正してくれる。ユウを信じていないわけではない。むしろ、何よりも縋りたい存在になっていた。
だからこそ、僕はそれを恐れる必要もある。
この世界で何かを得るには、必ず何かを失う必要があって。物を買うのにお金が必要なように、何でも交換条件が存在する。だからこの期間、僕はユウに求められた歌詞を書き、そのあいだ僕が求めるものとしてユウの側にいられたらそれで良かった。それ以上求めることは何もなくて、文化祭が終わればまた一人で生きていく。これで僕は結果的に何も得ていないし、何も失ってもいない。記憶という財産は残るが、過去で生きるものは既に現実ではなくて夢のようなものだから。
それが声を得たことで僕の心情に欲が出た。
この夢から醒めたくない、と。
「闘った……? 僕が?」
「うん、もう一人の自分と。歌詞で綴られている物語の主人公ってコウタくんでしょ?」
「いつから気付いてた?」
「歌詞の清書をもらって一読した時から」
「そりゃすごいや」
もしかしたら僕は、ユウと同じ世界で生きられるかもしれない。そう思い込んでしまった瞬間に、僕の世界は燦爛と花を咲かせた。それが仇花であると知らずに。
「あの歌詞はユウが書かせてくれたんだ」
「その時、コウタくんは幸せだった?」
「幸せ? そうだな……自分が自分ではないみたいだった。この期間だけは理想の僕になることができていたんだ。そういう意味ではとても幸せだったよ」
「へへ、そっかあ。こんな私でも誰かの幸せを作れたんだ」
僕が絵でも描ければ、あるいはカメラを趣味としていれば、その瞬間を切り取りたいくらいユウは幸せそうな表情をしていた。瞳の奥底に靄は見えない。僕が救いのない現実を粧していない限り、本当の姿と言っていいだろう。これまでならギターに触れている時にしか見ることができなかったその表情を、どうして僕に向けてくれるのかは分からなかったけど嬉しかった。
客席から今度は雷鳴のような拍手が聞こえてきた。もう残された時間は僅かのようだ。
「コウタくんはこれからどうするの? 進路とか」
思わぬ問いかけに僕は口を噤む。いつか僕も訊こうと思っていたことだったが、結局タイミングを逃して今日という日を迎えてしまった。
もっとも、ユウがどんな答えを口にしても、僕の選択肢が変わるわけではなかった。ユウと同じ進路を歩みたいだとか、ユウの夢に僕も加わらせてほしいなんて言う気持ちも、形を得ただけですぐに崩れた。学力的にも才能的にも、ユウと僕は生きる世界があまりにも違う。
しかし、僕の世界からユウという人物を映せなくなった時、何も残るものがないのも事実だった。僕のやりたいこと、なりたいものは何だろう? 子供なら誰しも一度は何かしらの夢を見て、だけど成長するにつれて現実を感じて見定めるようになるのだろうが、僕は一度も夢を見たことがなかった。
何も夢は職業に限らなくても良い。世界旅行をしたいだとか、環境や動物の保護活動をしたいだとか、毎日笑顔で生きたいだとか、どんな形でも夢は成立する。それなのに僕の思考は夢の作り方を何も知らなかった。
夢って何だろう? 幸せって何だろう? 生きるって何だろう?
どれもこれも僕には意味を見出せない。
「まだ決めていないよ。ユウは?」
僕が訊ねると、ユウは何の迷いもなく答えた。
「私は音楽を続けたい。この期間、コウタくんと一緒にいてそう思った」
僕と視線を合わせたユウが言葉を重ねる。
「私ね、小さい頃からずっと自分の感情を押し殺して生きてきた。周りの期待に応えたくて、でもそれが自分を苦しめる原因にもなって、息をしているけど溺れているみたいで苦しかった。だけど音楽をやっている時だけは本当の私でいられたの。何かの役を演じる演劇と少し似ているけれど、私は理想の私を演じる必要があった。そうしないと本当の自分を忘れてしまいそうで怖かったから」
ドクンと僕の心臓が反応する。僕もそうなんだって、このままユウと一緒にいられたら大切なものを見つけられそうなんだって言えたら。でも、言えなかった。いまさら言う資格がなかった。
「でもね、コウタくんのおかげで私は自分を見つけることができたの。ああ、私は本当に音楽が好きなんだって、音楽をやっていれば私は私でいられるんだって、これが私の生きる意味なんだって。そしてコウタくんが正解だよって証明してくれた。この期間、私とっても幸せだったよ。──きっとね、私みたいな人ってたくさんいると思う。だから今度は私が誰かを幸せにできるような存在になりたい。あなたはあなたのままで良いんだよって、今度は私が夢を与える番なんだ」
にっこりと笑ったユウの眼差しが、僕の心を優しく撫でた。
ほとんど変わらない同じ時間を生きてきて、僕とユウはどこで差が生まれたのだろう。よく過去は変えられないが未来は変えられると言う。けれど、とても今の僕には当てはまりそうにない。僕の声は失う原因となった過去を変えないと完全に取り戻すことはできないのだ。
僕はあまりにも気付くのが遅すぎた。一見、ユウだってこの期間で夢を掴んだようにみえるが、前から下地あるものに色彩が揃っただけだ。僕にはまだ夢を描く道具もスケッチもなければ、今後見つけられる保証もない。こうしている今この時だって、時間は瞬時に過去へと姿を変える。そしてそのまま、僕の人生は徒爾に終わりゆく。
でも、それでいい。ユウだけは幸せになってくれたら。
誰かの幸せが自分の幸せになることだってある。
「素敵な夢だ。きっと、ユウならできるよ。僕が保証する」
何の価値もない僕の言葉に、ユウは「ありがとう」と言って顔を綻ばせた。
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