命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter1「イキワズライ」

#9

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「ユウちゃんはフォークソング部だったんです」

「フォークソング部?」

「簡単に言えば軽音部ですね。人それぞれ認識は違いますが、フォークソング部はバンドを組むというより、個人で演奏を楽しむ人が多いのです」

「なるほど。らむ……桜庭さんもフォークソング部に?」

 ついユウと同じ癖で、らむのことを名前で呼んでしまった僕は慌てて言い直す。そういえば、僕はいつからユウのことを名前で呼び始めていたんだろう。記憶を遡りながら、らむの返答を待つ。

「らむで良いですよ。はい、わたしはベースを少しだけ。ユウちゃんのようには上手く弾けませんが……」

 よく考えてみると、僕はユウのことを何も知らなかった。あれだけ毎日一緒に過ごしていたのに部活動に所属していたことはもちろん、好きな音楽も、好きな食べ物も、何から何まで。

 所詮、ただのクラスメイトでしかないからと言うには少し寂しい。きっと僕が訊けば、ユウは朗笑しながら何でも答えてくれただろう。だけどユウの弾き語りは何物にも代えられない大事なもので、唯一の観客として聴ける時間には最大限の価値があった。その時も残り数日しかないのだと思うと、途端に哀愁の片鱗を感じた。

「そういえば、フォークソング部“だった”って?」

「ユウちゃんは二年生になった時に辞めちゃったんです」

 哀情を催した、らむの瞳が揺蕩う。聞いてはいけないことだと思って慌てて別の話題を探そうとした僕に、らむが目を閉じて何かを思い出すようにゆっくりと語り始めた。一転、僕はらむの声に耳を澄ませながら、脳裏に映像を浮かべることにした。



 昨年の夏休み、地元のショッピングモールのイベントに、わたしたちフォークソング部が招待されたんです。とは言っても先輩たちが演奏披露のメインで、わたしたち一年生は応援という名の雑用でしたが。けれど先輩の一人が体調不良になってしまい、その先輩と仲が良くて同じギターを扱えたユウちゃんが、急遽代わりにステージへ立つことになりました。

 結果は大盛況でした。先輩たちはすごかったよと褒めてくれましたし、代役を務めたユウちゃんもホッとしていました。ここまでは良かったんです。

 その日の様子を先輩の一人が動画撮影をしていて、それを身内だけが見られるメッセージアプリに共有していたはずが、いつの間にか誰でも見られるSNSに拡散されていたんです。ほとんどは称賛を送るものでしたが、中には演奏に関係のない容姿を評価するものや、プライベートを特定するようなコメントもあったんです。その結果、街中で知らない人から声をかけられたり、スマホに連絡が届いたこともあるのだとユウちゃんから相談を受けるようになりました。気味が悪いですよね……。

 クラスメイトから向けられる目が変わったのもその頃からだったとユウちゃんは言っていました。品定めするような眼球の動き、本音を探るような不明瞭な声色、上辺だけの言の葉。目に見えない何かが自分の大事なものを奪っていくようだとユウちゃんは怯えていました。それからです、ユウちゃんがギターを弾けなくなったのは。

 正確に言うと、弾くことはできました。だけど心や魂を抜かれてしまったような、とても悲しい音しか奏でられなくなったのです。それでも壊れないように、奪われないように、ユウちゃんは毎日ギターを弾き続けました。わたしが少し休もうと声をかけても『今休んだらずっと弾けなくなっちゃうよ』と泣きながら言われてしまい、わたしも止めることができませんでした。

 その間、周りは誰も気付くことができなかった。ユウちゃんが何を弾いてもすごいと褒め称え、らしくないミスをしても一種の表現だと過剰に受け取られ、これまでわたし以外には見せなかった涙も美しいと評価されたんです。

 そんなある日、ユウちゃんが悲しい目をして笑いながら言いました。「本当の私がどこかにいっちゃった」と。ユウちゃんがギターを置いた日でした。

 部活を辞めてからもユウちゃんの周りにはたくさんの人がいました。ギターを弾いていなくても私を必要としてくれているんだって、ユウちゃんはポジティブに考えていたけれど、裏を返せばそれはギターを弾いていたユウちゃんを否定しているようなものでした。

 仮にユウちゃんがベースを弾いていたとしても、あるいは別種のピアノを弾いていたとしても、そもそも楽器さえ持っていなくても、極論それがユウちゃんじゃなくても。みんなにとってそこにいるのは誰でも良くて、ただ有名になったユウちゃんと繋がれていることに価値を感じていただけでしょう。

 たしかに、ユウちゃんのように前向きに捉えることもできます。でもユウちゃんは、みんなから好かれたくてギターを弾いていたわけではなかった。自分の大好きな音楽に触れていたかっただけなんです。自分が自分でいられるためにギターを弾き続け、その時間が、空間が、一瞬が──。ユウちゃんにとって唯一の大切な居場所だった。それを壊されてしまい、本当の自分も見失ってしまい、誰もがそんなユウちゃんに気付かず笑顔を向け続けた。そんな残酷なことがありますか……?

 だからわたしは驚きました。ユウちゃんがコウタさんについて話してくれたこと、そのきっかけをユウちゃん自らが誘って作ったこと、それも文化祭に弾き語りを披露するだなんて夢のようでした。ユウちゃんがギターを持って登校してる姿を見た時は、とっても嬉しくて泣いてしまいました。またユウちゃんのギターを弾いている姿が見られるんだって、あの頃のようにユウちゃんの生きる場所が取り戻せるかもしれないんだって。

 わたしは友人として話や悩みを聞くだけで何もできなかった。だからコウタさんにはとっても感謝しているんです。本当にありがとうございます……!



 映像がぷつりと途切れて視界が晴れた。目の前に座るらむの表情はとても穏やかなものに変わっていた。固く結ばれていた手もすっかり緊張が解けたのか、今はしなやかに伸びる指と共に膝の上で重ねられている。

「僕は……」

 対照的に僕の表情はとても強張っていたと思う。声が震えた。いや、身体中が震撼していた。

「感謝されることなんて何もしていない……」

「え……?」

 本当に僕はユウのことを何も知らなかった。
 知ろうとすることもできたのに、僕はそうしなかった。

「僕はその話に出てきた奴らと同じだよ……。ずっとユウは誰にでも幸せを与えられるような存在だと思っていた。いつだって誰よりも幸せそうに笑っていて、どんなことでも頼られる存在で、みんなに好かれているクラスの中心人物なんだって。でも……実際は違った。ユウがみんなに幸せを与えていたのは間違いない。だけどユウはただ周りの理想を演じていただけだった。偽りの自分になりきって、無情にただ幸せを奪われ続けて。そんなユウの哀切な笑みも、悲哀な瞳も、憂愁に沈む涙も、僕は全部気付いていたのに、だけど……」

 実際、僕にユウを救える力があったかは分からない。けれど、僕はその行動すら起こさなかった。なぜなら、そのほうが僕にとって都合が良かったからだ。

「少なくともコウタさんは気付いたのですから、それだけで他の人とは違います。ユウちゃんがどれだけコウタさんについてわたしに話してくれたか知っていますか? 強引に誘ったのに同じグループに入ってくれたこと。弾き語りのために一緒に抜け出してくれたこと。歌詞を書く役割を引き受けてくれたこと。弾き語りを真剣に聴いてくれたこと。毎日放課後の時を一緒にいてくれたこと。そして、声を出して気持ちを伝えてくれたこと。最後の話をしてくれた時、ユウちゃん泣いて喜んでたんですよ?」

 ユウも僕のことを何も分かっていない。
 空っぽの心が無様に堕ちていく。

「違う、違うんだ……。全部それは自分のためだったんだよ……。もしかしたら僕は変われるかもしれない、変われなくても文化祭を良き思い出にできるかもしれない。ユウに話しかけられた時、そうやって僕はユウのことを目に映した。ユウが本当は傷心の日々を送ってると知った時、僕は自分もそうなんだと打ち明けなかった。ユウにも弱さがあるんだって、その欠けた部分に形を変えて入り込もうとした。そうやってユウに憐憫をかけることで、僕はユウに必要とされているのだと自分に価値を付けて生きようとした。ユウのためにと表面上では振る舞いながら、僕は自分のことしか考えていなかったんだよ……」

 全てを懺悔した僕は、らむから目を逸らさなかった。せめてユウの親友であるらむには許してほしいだなんて思っていない。これからどんな言葉を浴びせられても、現実から目を逸らさず受け入れようと覚悟を決めた。

 長い沈黙だった。らむは深く考え込んだあと表情を変えず、だけど言葉の角度は変えて僕にぶつけた。

「ユウちゃんがコウタさんに話しかけたのは、ただの気まぐれだと思っていますか?」

「……最初はそう思っていたよ。でも今は、声も出なかった僕に縋るくらい助けを求めていたのかもしれないって」

「半分正解で半分間違いですね。確かにユウちゃんは助けを求めていた。でもそれは誰でもよかったわけじゃないんです。というより、コウタさんじゃないとダメだったと言うべきですね」

 僕は無言でどういうことか? とらむに問う。

「これはユウちゃんには内緒にしてほしいのですが……」

 僕はユウのことを知らなかったわけじゃない。
 それもずっと前から知っていて、だけど忘れてしまっていた。

 そしてユウもまた、僕のことを誰よりも知っていた。
 僕と同じ時から知っていて、ずっと憶えてくれていた。

 けれど、あの時と違うことが一つある。

「ユウちゃん、ギターを始めるまでは──」

 らむの激白を聞きながら僕の頭の中では、未だ空白になっていた歌詞のサビ部分の言葉が浮遊していた。らむと別れ帰宅してからそれをまとめるのに随分苦労して、完成した頃にはカラスとスズメが空の五線譜に音符を落としていた。

 あの日、ユウが学校を休んでいなければ。らむが僕に伝えようとしていなければ。歌詞の完成はもっと遅くなっていたかもしれないし、そもそも完成すらしていなかったかもしれない。もっともそれが、レールを変えない限り必然的な帰着だったことに気付くのはもう少し後のことで、仮に気付いていたとしてもそれは僕一人の力なんかでは到底進路を変えられるようなものでもなかった。

 人生のたいていの事柄は偶然の重なり合いによる奇跡だが、その筋道は不条理によって成り立っていることが多々ある。たとえば、僕の境遇のように。だからこそ僕は、ユウという人物に出会えたことを幸せと思えるが、人生の終点にまで持ち込めるとは限らない。

 はたしてそれを幸せと呼べるだろうか?
 一時的な延命に過ぎないのではないか?

 僕にはとても分からなかった。
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