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Chapter1「イキワズライ」
#4
しおりを挟む文化祭まで残り二週間を切り、放課後を準備時間として使えるようになった。僕が所属している(正確に言えば僕とユウは独立したが)ステージ披露グループでは、結局僕とユウを除いたメンバーで演劇をやるらしい。一度だけ練習現場を目撃したが、あの争いがなかったかのように和気藹々とした雰囲気に包まれていた。
あれほどユウを主演に抜擢したがっていたはずなのに、少なくとも僕が知る限りでは一度も引き留めに来ていない。それどころかあの日以降、演劇グループメンバーと廊下ですれ違う度に嘲笑の視線を向けられるようになった。「お前は利用されている」そんなことをユウと一緒にいる時に言う奴もいた。
結局奴らにとってユウは、自分たちにとって都合の良い存在に過ぎなかったのかもしれない。その度に僕は悲しい気持ちになった。これまでユウが周りに幸せを与えていたのではない。たった一人のユウから幸せを奪っていたのだと残酷な現実に気付きながら。
この報われない気持ちを解消させるにはとても苦労しそうだったが、その心配は必要なかった。まるでユウは最初からこうなることが分かっていたかのように、僕に歌詞を書くという役割を与えていたからだ。
あの日ユウが逃げ込んだ空き教室を拠点に、僕たちは放課後の時を過ごしている。あれから会話らしい会話はほとんど生まれていない。けれど気まずさはなかった。室内の空間には僕が走らせるペンの音と、ユウの弾くギターの音が共鳴し、まるで音で会話をしているようだった。
僕はノートに箇条書きで文章を綴り、それから短く言葉を変えて抽出し、物語を紡ぎ合わせていく。これまでそんな経験はもちろんない。自分の本心さえ偽りに変換していた僕にとって難しいものと思われたが、これが僕の使命だったかのように意欲が横溢するもので、時間を忘れて夢中になって取り組んだ。
一方のユウは、そんな僕を時折見て微笑みながら、自分の相棒であるというギターを家から持ってきて弾いていた。音楽に疎い僕には、それがオリジナルのものなのか実際に存在するアーティストのカバー曲なのかすら判別できなかったが、心音のリズムに合わせるように奏でられた音は、僕の心をとても穏やかにさせた。
だからユウが突然「無理してない?」と呟いた時、「いや、まったく」と僕の唇から声が漏れたことに気付いたのは、ユウの強い視線を感じてからだった。十数秒ほど記憶の時間を巻き戻して確かめるも、現実と断言するには確証が足りない。
「今なんか言ってた?」と訊く僕に、「今なんか言ってる」と笑いながら答えるユウ。どういう訳か僕の喉元にあったリミッターは何の前兆もなく解除され、確かに話せるようになっている。
考えられるとすれば、歌詞に本心を落とし込む作業をしていた時に話しかけられたので自然と思っていることをそのまま呟いた、あるいはユウの奏でるギターの音が声を出す補助をしてくれたなどと不明瞭な候補が思い浮かぶも、この際理由なんてどうでもよかった。
ユウも僕の声を初めて聞いたはずなのに何も追及してくることはなく、再びギターに手をかけると今度は唄を歌い弾き語りを披露してくれた。
恍惚と眺めているあいだ、僕の頭の中にはたくさんの言葉が生成されていく。形変えることなく留まり続けるこの想いを全てそのまま声にしてユウに伝えたい。そんな自分が自分ではないような感情に支配されながら、僕はその気持ちを忘れないようにノートに言葉を書き留め続けた。
帰宅した時、玄関の壁掛け時計はちょうど午後八時を指していた。放課後に残れる最長時間までユウと時を過ごしていたので、校舎を出た時点で既に外は真っ暗だった。これまで部活に所属することもなく、授業が終われば真っ直ぐと帰宅していた僕に、玄関で出迎えた両親からは当然「何をしていたのか?」と問われた。
きっと今までの僕なら、模試の勉強を学校の自習室でしていただとか、文化祭という情報こそ明かしても準備に追われていただけと話を結んでいただろう。自宅以外の場所で声を封印していた代償なのか、いつから僕は両親との会話さえ億劫に感じるようになっていた。
でもなぜか、今日は正直に打ち明けたくなった。というより、話を聞いてほしかったのだと思う。数週間前にユウという女の子が話しかけてくれたこと、一緒に文化祭のステージ披露グループに所属したこと、ユウに誘われて二人きりでグループから抜け出したこと、ユウの弾き語りに重要な歌詞を書いていること。
これまで空虚だった僕の人生に色付いた、そんな大切な記憶が色褪せないように。そして、僕以外の誰かの記憶にも生き続けるように。
「よくわからないけど、他所様に迷惑はかけないでちょうだいよ?」
「それより勉強は順調か? 前回の模試みたいな結果だと困るぞ。大学にいけなかったら、家から出て行ってもらうからな」
全てを話し終わった後に待ち受けていた両親からの返答は、とても理解するのに苦しむものだった。仮に僕が高揚して支離滅裂な伝え方をしていたとても、そんな辛辣を受けるような話をした覚えはない。
興奮冷めやらぬ身体に問いかけてみると、「やっぱりそうだろう? 求められている言葉だけ吐き出せばこんな思いをしなくて済むんだ」と何者かの声が跳ね返ってきて、僕の心に深く沈んでいった。その奥底で二度と開かれることないと思っていた記憶に触れて甦る。
まだ僕が幼き頃、両親の仲はとても悪かった。何で揉めていたのか、離婚の危機に迫るほどだったのかまでは理解できなくとも、子供ながらに二人の意見が合致することはないと感じていた。このままではまずいと考えた僕は、自らが繋ぎ合わせる役目になれば良いのだと考えた。思えば、これが僕の声を摩耗していく始まりだった。
自分を演じて生きることは案外、苦ではなかった。両親が求めていることを忠実にこなしていくことで、両親の関係性は修復されて雰囲気も良くなるという、目に見える喜びと幸せがあったからだ。しかし徐々に両親が元々揉めていた理由は、他の誰でもない僕が関係していたと察するようになる。
まだ幼い僕に両親は何を求めていたのか? そういえばこの頃、小中一貫校の受験を受けさせられたことがあった。雨で曇った窓ガラスのように不明瞭な記憶ではあるが、当時の僕は楽観的な考えで両親からの期待を微塵も感じた覚えはなく、かと言って受験の重要性を理解していたわけでもなかったので、要するに落ちたのだろう。
たしかに、小学校に上がってから両親が褒めてくれたのは、決まって学問に関することだった。運動会の徒競走で一位を取ったり、読書コンクールで入賞したこともあったが、何でもないミニテストで100点を取った時の方が「やっぱりあなたはできる子なのよ!」とでも言うような価値ある喜び方をしてくれた。学年が上がるにつれてそのハードルはどんどん高くなっていったが。
とどのつまり、両親は僕を優等生にしたかったわけだ。
「ちょっと聞いてるの?」
「返事くらいしたらどうなんだ」
回想から帰還しても、僕の目の前にはあの頃と同じような不機嫌な両親が立っているだけだった。ひとつ違うのは、幼き頃そのプレッシャーが僕に向けられているかどうか未詳だったものが、今は確実なものとして僕が認識できてしまっている点だ。
もしかすると、本質は何も変わっていなかったのかもしれない。僕は両親が求めていた偽物の自分を演じていただけだ。勉強だって両親が喜んでくれるからやった。イコールそれは僕の存在意義を他人からの評価で証明するようなものだった。
両親から解放されたとしても、僕は現時点で大学に行って学びたいことも、将来就きたい仕事も候補すら浮かばない。つまり、問題は何一つ解決しないまま明白に現実を蝕んでいて、僕だけが無意味に時間を浪費して自分を騙して生きていたのだとすれば。ただ僕は何も得られぬまま、声どころか自分そのものを失っただけだ。
「分かってるよ……。二人は分かってないだろうけど」
最後に言葉を付け足したのは、僕なりの抵抗だった。駆け足で階段を昇り自室に向かう僕の背中越しに、両親の怒号が聞こえた気がする。やっぱり何も分かっていない。両親にとって僕は一体どういう存在なんだろう。いくつか候補は浮かんだが、どれも僕が僕である必要はなさそうだった。
急激に込み上げてくる涙を堪えた僕は、自室の扉を強く閉めた。そんなことでしか反抗できる手段を僕は知らなかった。
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