上 下
25 / 29
動き出した未来

しおりを挟む
 アパートについて鍵をあける。柚月さんはアパートをみて「なんだか歴史を感じるね」と感想をこぼしていたけど実際ぼろいので仕方がない。精一杯のオブラートだ。

「狭いですけど、どうぞ」

 キッチンの他に六畳程の狭いリビング。二人ともさほどお金がないので大きな家具はなく、最低限のもので暮らしている。

「へぇ~この広さに二人で住めるってすごいね!? あ、貶してるわけじゃなくてね? あたしだったら一人の空間ないと喧嘩しちゃうと思う」

 いつもはこの狭い部屋に布団を一組しいて一緒に寝ている。喧嘩はしたことがないしわたしたちの生活は穏やかだ。時々鬱の症状がひどいとーまお兄さんが落ち込むことはあっても、二人の関係は変わらない。
 さっそく朝食づくりに取り掛かる。昨夜、家を出る前にホットケーキをリクエストされたのでそれを作ることにした。さっそくキッチンに立って作り始めようとした時に部屋の真ん中に座る柚月さんに声をかけられた。

「これって誰の? 旦那さんの?」

 そう聞かれて柚月さんの方を見るとテーブルの上に置きっぱなしにしていたとーまお兄さんの薬があった。

「旦那のです」
「へぇ、そうなんだ。ほら、あたし今までスナックとかキャバしかやったことなくてさ、これとおんなじ薬飲んでる子いたなぁって。夜ってそういう子多いんだよね」
「そう、ですよね。母もそうでした」

 母は気分で病院に行ったり行かなかったりしていたけど家には母の飲み忘れた薬がよく転がっていた記憶がある。

「お母さんも夜職やってたんだ」
「はい。父と結婚するまでは」

 どのみち柚月さんとも全く関係がなくなるからわたしは正直に全てを話していた。嘘をつくのが苦手ということもあるけど、家から逃げるようにここへ引っ越してきたことも全て話している。

「うちと一緒だね~あたしのママもずーっとスナックで働いてて客のジジイと再婚したの。それがほんっとにただの金持ってるだけのじいさんでさ、とてもじゃないけどパパには見えなくて」

 柚月さんと一緒に働き始めてもうすぐ二か月。そんな事情は初めて聞いたけど苦労している人なのをこの期に及んで悟る。
 それと同時に、意外と境遇が近い人が身近にいるものだと考える。渡瀬くんもそうだった。類は友を呼ぶ、ってやつなのかな。
 それにどちらかといえば、柚月さんのような明るい人は両親共に仲良くて大事に育てられてきたのかな……とある意味で偏見を持っていたから。

「柚月さんも、大変だったんですね」
「そりゃもう。てか敬語じゃなくていいのに。一個しか違わないんだし」
「えっと、じゃあ」

 歳というよりはバイト歴からして柚月さんが先輩なので敬語の方が良いかなと思っていた。それに敬語で話せば自然と距離が生まれるしいずれ見知らぬ仲になるのだから下手に距離を詰めるとわたしが苦しくなってしまう。

「うん。ため口で話そうよ」

 そう言われては敬語をやめる他なかった。

「柚月さんもホットケーキ、食べていく?」
「えっいいの?」
「多めに作ればいいだけだから」
「じゃあご馳走になろっかな。へへ、ホットケーキなんて久しぶり」

 とーまお兄さんが帰宅するまでは時間があるし、わたしの事情で家に連れてきておいて何も出さないというのはさすがにどうかと思ったから。

「それにしてもみのちゃんってばしっかりしてるよね」
「そう?」
「うん。勤務態度も真面目だしこうして朝ごはんまで作ってくれるし。旦那さんも病気があるのに支えてるわけでしょ? あたしなんてバイト中にスマホいじりまくりだし料理はできないし、彼氏によくキレちゃうし」
「そんなこと、ないよ。柚月さんこそ明るくて羨ましい」

 本音。真面目なのはそういうふうにしか生きられないから。そう生きてくるしかなかったから。料理も必要に迫られて覚えただけだし、とーまお兄さんの病気は別に気にならない。むしろ病気をすることで涙を流す機会が増えているならその方がわたしは、みゃうは嬉しいってだけ。
結構最低だよって、言おうかと思ったけど説明がややこしいからやめておいた。

「あたし? あたしはただバカなだけだよ~中卒だし。彼氏も底辺高校卒だしね。みのちゃんとこは二人とも大卒だっけ?」
「うん。一応」
「大学生活って楽しそうだよね、あたしもせめて高校行けば良かったかなぁ」

 なんてことない会話を繰り返しているうちにホットケーキは焼きあがって、それをお皿に乗せてはちみつをかけた。うちではいつもはちみつをかけて食べていたから。

「はちみつかけちゃったんだけど大丈夫?」
「うん! わ、美味しそ~」

 柚月さんはわかりやすく喜んであっという間にホットケーキを食べてくれた。わたしはとーまお兄さんと一緒に食べたかったけどお客さんだけ食べてわたしが食べないのは気を使わせちゃうかと思ってはんぶんだけ。

「みのちゃんってなんでもできるんだね」
「ううん、そんなことないよ」
「そぉ? あたしからすればスーパーマンだよ、はは」

 冗談を言って笑う。こんなふうに笑って毎日を明るく過ごす幸せという道も存在しているのかなぁなんてもしもの世界を考える。
 だめだめ、たまにこうして別の世界のことを考えちゃうけどわたしの世界はとーまお兄さんだけだから。

「はーおなかいっぱい。ありがとね」
「ううん」
「ん、ていうか一緒にこうして時間つぶしに付き合ってくれて感謝してるんだ。あたし、一人でいるの苦手でさ」

 その時、がちゃがちゃと鍵を開ける音が聞こえた。
 いつもより三十分も早い、とーまお兄さん、もう帰ってきたんだ。
 その時わたしの心臓はきゅっと小さくなった。なぜって、この家に柚月さんをいれてしまったこと。バレなければいいかなぁなんて思っていたけどこれじゃバレバレだ。何もやましいことはない、だけどきっとわたしがとーまお兄さん以外と親しくすることを彼はきっとよく思わない。
 どうしよう、何て言おう、どうしよう……。

「ん? 旦那さんかな?」
「ただいま」

 二人の声はほとんど同時で、玄関を入って狭く短い廊下の向こう、とーまお兄さんには既にわたしたちのことが見えているはずだ。
 バイト帰りでとても疲弊しているとーまお兄さん。この状況が何て映ってしまうのか。あまりの罪悪感にわたしは自分の胸元を押さえてごくりと唾を飲み込む。
 大丈夫、思っているより事態は深刻ではないと言い聞かせるように。

「……お客さん?」
「あ、えっと、バイト先の先輩で」
「佐々木柚月って言います。あたしの暇つぶしに付き合ってもらってて、ごめんなさい勝手にお邪魔して」
「いや、いいよ。あ、ちょっと車に忘れ物したからとってくるよ」

 わざとらしくポケットの中身を探るようにしてとーまお兄さんは再び家を出て行く。
 やってしまった。彼を傷つけてしまった。
 そんな焦りで頭が真っ白になる。なぜなら、わたしたちは車を持っていない。それは単なる口実で彼は逃げるように飛び出してしまったのだと理解できたから。

「柚月さん、もし良かったら駅前のファミレスに移動しない? たぶん、旦那……はこれから寝ると思うから」
「あ、じゃあそうしよ。ごめんね?」
「ううん、平気。駐車場ちょっと遠いからまだ戻ってこないと思う」

 わたしは柚月さんを連れてアパートを出た。そして駅への道、わたしは何か全く別の話をしようとするけれどそれが浮かばなくて、自然と無言になってしまう。
 早朝の太陽が心地よくてカラスやスズメが鳴いている、そんな平凡な朝なのに。

「……ねぇ、もし気のせいだったらいいんだけど。旦那さんと上手くいってない?」

 ふいにそんなことを言われてわたしは柚月さんの方を見ながら静止してしまった。

「なんか旦那さんが帰ってきた時のみのちゃんちょっと様子が変だったから……ごめんねお節介で。でもほっとけなくて」
「う、ううんちがっ……」

 そう否定しようにもわたしの口は思ったように動かなかった。どうせわたしはこの人とも縁を切ることになる。それなら。

「ちょっとだけ、気難しいんだ。わたしが他の人と親しくなることに抵抗があるみたいで……」

 それは極めて特殊な独占欲。とーまお兄さんの中にはわたししかいなくて、彼もわたしの中に彼だけがいることを望む。歪んだ関係性。そんなものはとっくにわかっていたけど。

「えー、束縛ひどいんだ。優しそうにみえたけど人は見かけによらないね」

 返ってきたのは意外にもあっさりとした言葉だった。束縛。恋愛においてそういう言葉があることは知っている。

「大丈夫? 暴力とかうけてない?」
「それはない! 大丈夫」
「そう? ならいいんだけど、何かあったら相談しなよ?」
「うん、ありがとう」
「そ。じゃああたしはこのまま彼氏の店まで向かうよ。付き合ってくれてありがとね、早く帰りなよ!」

 駅前についた途端、柚月さんは小走りになって駅の中へ消えていく。時間、大丈夫なのかな。一人が苦手だと言っていた。気を使わせちゃったのかもしれない。
 でもわたしはそれより心配しなくちゃならないことがある。とーまお兄さん、ショックを受けすぎてなければいいんだけど。

 急いでアパートへの道を引き返す。今頃どうしているかな? 泣いているかな? そんな期待。ともかく急いで帰らなくちゃ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろうにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

処理中です...