パパには言わない

田中潮太

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平穏なひととき

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 翠は机の上に置かれたマグカップを凝視していた。よく見て、画用紙に描く。美術の時間だ。翠は絵にそれ程自信がなく自分でも出来栄えに期待はしていなかったが隣で真剣にマグカップを描く葉月の作品は形の描き方から陰影のつけ方までとても上手だった。美術部に入部していてもおかしくない。

「葉月、やっぱ上手だね」
「そう?」
「うん。ぼくのとは大違い」

 翠の描いたマグカップは形こそ正確に捉えられているものの、陰影の薄い部分と濃い部分が些かくっきりと別れすぎており違和感が拭えない。

「ん~でも感覚だよ」
「感覚で描いてるなら余計すごいよ」
「あはは、褒めても何も出ないよ」

 葉月と翠の関係も良好だった。翠は葉月といることを楽しく思っていたし、来年のクラス替えでも同じクラスになりたいと思う程には葉月のことを良い友達だと感じている。葉月といると学校生活も楽しいものだった。紅の次に大切に思う友人が葉月だった。

「あ、そういえば昨日の、大丈夫だった?」
「昨日?」

 昨日は紅が登校した日だ。紅から聞いた学校での出来事を思い返すが心配されるような出来事は見当たらない。
 葉月が翠の方へ体を寄せ、声を潜める。

「ほら、ブラウスの袖口に血ついてたから」

 袖口の血。全く聞き覚えがなかった。紅もそんな話はしていない。

「あ、うん、平気だったよ」

 それとなく話を合わせるべきだと判断しそう返事をした。

「本当? なら良かった。お父さん厳しいって言ってたからブラウス汚して怒られたりしてないか心配だったんだ」
「さすがに服をちょっと汚したぐらいじゃ怒んないよ」

 葉月にはパパが厳しいという事だけを伝えていた。それにしてもブラウスの袖口を汚したという話を翠は聞いていなかった。そんな出来事があったのなら二人の間で共有すべきだったと思うが翠はそんな報告は受けていない。
 紅の中では報告しなくても良いくらいの小さい事だったのだろうか? 

「ほら、生理の血がついたってお父さんには言いづらいじゃん? だから心配だったんだ」

 葉月が周囲に聞こえないようさらに小声でそう言った。

「大丈夫。パパが帰ってくる前に洗ったから」

 今の話からすると生理の血が袖口についたと紅が葉月に話した事になる。けれど翠は月経はおろか初潮もまだだった。それ以外の部分で紅がどこか怪我をしたのだろうかと思ったが見える範囲にそれらしい怪我はない。帰ったら紅に聞いてみよう。そう思いこの件は一旦忘れ授業に集中することにした。

「そういや翠の家ってお手伝いさんがいるんだよね? どんな感じなの?」

 昼休み。給食を食べ終えいつものように教室の自分たちの席に座り翠と葉月は会話をしていた。

「どんな感じって言われても、別にそのままだよ。家事をしてくれるだけっていうか……うちはママがいないからその代わりというか」
「やっぱそういうのっておばさんなの? ベテラン主婦みたいな?」
「ベテラン主婦って。ううん、若い女の人だよ」

 そう言い切ってから翠は葛の年齢が三十を過ぎている事を思い出す。葛の見た目や言動が若いせいか葛のことを若くないと思った事がなかった。

「そうなんだ。もっとこう、ザ・家政婦みたいなエプロンしたおばさんを想像してた」
「あはは、そういう人もいるのかな?」

 言われてみればドラマや映画などのフィクションの影響で家政婦イコール中年の女性というイメージがあるだろう。実際翠の中の家政婦のイメージもその通りだ。葛は家政婦らしくないのだな、と翠は改めて考える。

「葉月はお兄ちゃんがいるって言ってたけど仲が良いの?」
「あーっとね、長男は私が小学校入ってすぐに家出てるからあんまり。でも次男と三男は私とよく遊んでくれたし仲良しかな。今でも三人でゲームやったりするんだ」
「兄妹で遊べるんだ、良いなぁ」

 翠も紅とゲームをしたり遊んだりできたらどんなに楽しかっただろうかと空想する。

「うん。まぁね、でも長男と次男がすごく仲悪いから長男が帰って来た時は大変だよ。口喧嘩ですめばいいけど、一度つかみ合いになって長男が次男を投げ飛ばしたの。ほんっとにびっくりしたし今もその壁には穴があいてる」

 葉月はその光景を思い出したのか参ったようにがっくりと肩を落とした。翠には想像もつかなかったが実の兄弟で掴み合いの喧嘩になるなど余程馬が合わないのだと同情する。翠は紅を姉妹だと思っているが、二人が喧嘩をする事は無い。だからこそきょうだいで仲が悪いというのは想像がつかなかった。

「壮絶だね、葉月のとこ」
「長男と次男だけはね。でも翠のとこだってお父さんが厳しいでしょ? 嫌じゃない?」
「うーん、嫌というか……」

 翠にとってパパが厳しいのは当たり前だった。過剰なまでに行動を制限される生活も、それが普通だと思い生活してきた。それ故にその厳しさも苦ではない。反抗しようとも思わず素直に従って生きてきた。反抗という言葉は翠の中に存在しない。今は紅という心強い味方もいる。窮屈さは多少感じてはいるがこれが翠の中での『普通』なのだ。

「パパも忙しいし大変なのかなって」

 そんな普遍的な言葉で誤魔化した。
 流されていれば苦痛は感じない。そうしてきた翠に今更反抗しようという気もなかった。そもそも不満らしい不満もないのだ。少し窮屈なだけだ。自分が何も言わずに黙って従えば全ては上手くいく。紅のことを除けば。

「平気なんだ、意外~」
「そう?」
「うん。だってほら、前に一組の男子にズバッて言った事あったじゃん? だからあんな感じでお父さん相手にもハッキリ言ったりするのかと思って」
「パパは怖いから言えないよ、まさか」

 紅の発言をここで引き出され翠は狼狽えた。そういえばそんな事もあったなという程度の認識ですっかり忘れていたのだ。

「ま、そうだよね。私もお母さんには逆らえないし」

 パパに逆らう。逆らうも何もパパに対する不満などない。不満は無い筈なのだ。
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