パパには言わない

田中潮太

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変化していく日常

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 土曜日。支度を済ませマンションのロビーで翠は葛を待っていた。そしてテーブルを挟んだ向かい側にはパパが座っている。葛挨拶をするからとこうして一階まで共に降りてきたのだ。

「パパ、仕事はいいの?」
「今日は元々休みだ。それに急ぎの仕事はない」
「そ、そっか……」

 眉間に皺を寄せるパパにこれ以上は話しかけるべきではないと判断し翠は押し黙った。中学生になっても小学生の頃に買ってもらったキッズスマホをそのまま使い続けていた翠は葛から到着の連絡が来るのをスマホを握りしめて黒い液晶を眺めたまま待つしかない。沈黙は重たいものだった。中学校での新しい生活は毎日のように夕食を食べながらパパに話していた為に学校の話でこの場を繋ぐことはできない。翠は他に話題がなかった。どんなに難しい話でも良いからせめてパパが話をしてくれればこんなに緊張しないのに――とやり場のないもどかしさを抱えていると手の中でスマホが振動し葛からの着信を知らせた。

「もっもしもし?」
「翠ちゃん? いま正面に着いたから」
「わかった、今行く」

 そう手短に言葉を交わし正面玄関へ急ぐ。隣を歩くパパはやっぱり表情が読めないと翠は未だ緊張気味だった。そもそもパパと葛さんが話しているところを見た事がないのも緊張する要因だと、翠はおかしな方向に緊張の在処を押し付けていた。

「翠ちゃん、乗って」

 助手席の窓が開いて葛が運転席から翠にそう話しかける。心なしかいつもより顔がはっきりとしているように見え、それがいつもより化粧が濃いからであると車に乗ってから翠は気が付いた。
白い車体には王冠のマークが取り付けられており車に詳しくない翠でもこの車が高級車だとわかる。葛は家政婦なのにこんなに高い車を買うようなお金持ちなんだろうか? と翠の頭には疑問が浮かんだがお金の事は翠にはよくわからない。

「よろしくお願いします。くれぐれも危ないことのないように」

 いつもは不愛想なパパが低姿勢にそう挨拶をしたことに翠は驚いた。更に言えば危ないことのないように、と翠を心配するような発言をしたことにも。

「はい、任せてください。それじゃあ翠ちゃん行こっか」
「う、うん」

 そういうや否や助手席の窓がしまり葛は車を出した。葛に話があるとパパは話していたがそれは先程の挨拶の事だったのだろうか?

「さてと。どこに行きたい?」
「青ヶ星水族館に行きたくて。遠い?」

 青ヶ星水族館は隣の市にある水族館だった。車で向かえば四十分程で着く場所だが普段出かける事のない翠にはその距離感がよくわからなかった。出かける場所、と言われても翠には何がどこにあるのかよくわからないのだ。

「ううん近いよ。じゃあ水族館向かうね」
「うん、お願いします」
「その前にどこかでお昼食べて行こうか。何食べたい?」
「なんでも……あっパスタが食べたい」

 なんでも、は相手を困らせてしまうと翠は咄嗟にパスタと答えた。

「じゃあイタリアンのお店だ」

 葛の運転で車は進む。スピーカーからは翠の知らない爽快なテンポの洋楽が流れていた。車内はパパの車とは違って煙草の匂いはせず、代わりに甘い香水のような心地の良い香りが満たしている。
もしかすると葛さんが香水をつけているのかな……と翠はぼんやりと考える。

「翠ちゃん、中学校はどう?」

 前にも聞かれたような、ありふれた質問。
というよりも翠の生活は学校がほとんどを占めており他に特出した出来事もない。翠の話題となれば学校の話になるのは必然だった。

「楽しいよ。クラスの子とも仲良くなったし」
「そっか、それなら良かった。ここ何年かはあまり翠ちゃんと話せてなかったから」

 翠は葛と顔を合わせることが年々減っていたように思う。しかしそれは翠の成長に合わせて一人で家にいることが平気だとパパに判断されたからに違いないと、どちらかと言えば翠はパパに認められているからだと思っていた。葛はいつでも翠に対しフレンドリーだったが、翠には葛と会えなくて寂しいという気持ちが元より存在していないのだ。
 ママが亡くなってから突然現れた葛のことがあまり得意ではないのだ。

「祐二さんの教育方針、ちょっと厳しすぎるんじゃないかなって心配してたの。でも翠ちゃんがグレないで普通に育ってくれて安心したよ」
「あはは……」

 笑って誤魔化したが翠はここで客観的にみてもパパは厳しいのだと内心、その言葉がすとんと腑に落ちた。
パパは厳しいとは思っていた。遊びに行くのは禁止、運動系のクラブは危険だから禁止、ゲームやマンガ、バラエティ番組は悪影響だから禁止――禁止ばかりの生活。でも翠は慣れきってしまった。慣れるというよりもそれが普通でつい最近までは疑問すら感じていなかったのだから。

 今は紅という心強い秘密の友達もいる。退屈さも何もを忘れ翠は紅の事で頭がいっぱいになるくらいには、クローゼットの友達はかけがえのない存在なのだ。

「葛さんって、結婚してるの?」

 沈黙は気まずい。そして今日は翠なりに楽しむ努力をすると決めていた。だから翠は葛に質問を投げかけた。
 紅が言っていたようにパパとの関係を疑いたくはない。しかし言われてみれば葛の事を何も、それこそ既婚者なのか独身なのか、好きな食べ物は何で嫌いな色は何色だとか……葛の事を何も知らない。翠の口から出た質問はそこから生まれ出た純粋な興味だった。葛は美人で家政婦をしているのだから家事もできる。そして大きくて恐らく高級な車にも乗っている。
 だから結婚していてもおかしくはない。翠はそう思った。

「あたし? してないよ。結婚って何かと制限されちゃうし……あっもちろん結婚が悪いって訳じゃないけど」
「葛さんきれいだからしてると思ってた」
「ははは! ありがと。でもしてないの。パートナーになりたい人はいるんだけどね」
「パートナー?」

 聞きなれない言葉に翠は聞き返した。パートナー、とはどういう意味なのだろうか。

「そ。パートナー」

 恋人や家族と表現せずにパートナーと表現した言葉の意味。

「お互いを支え合っていく関係になりたい人。というか、あたしが支えてあげたい人かな」

 葛の説明は翠にはやはり理解のできない事だった。人を支えてあげたい。それは友人や恋人、家族とは違うのだろうか。
葛の説明通りであれば翠は紅を支えたいと思っている。しかし翠と紅は友達であり姉妹。パートナーという言葉はしっくりとこない。
 葛からこういった深入りした話を聞くのは初めてだった。今までは大抵が翠の学校生活についての話やドラマ、映画の話をするばかりで葛自身の話を聞いたのはよく考えるとこれが初めてのようだった。

「て言っても難しいけどね。翠ちゃんもこれから好きな人ができたら覚悟しておきなよ」

 ふふんと最後におどけた葛は以前よりも翠との距離が近くなったように感じた。家政婦と雇い主の娘ではない、もっと近しい間柄になったかのような会話。しかし翠は恋愛に興味がない為またしても笑って誤魔化した。今は恋愛よりも、紅と過ごす毎日のほうがずっと楽しいのだ。

(でも、もしぼくが結婚したら紅は?)

 いつか、そんな未来が来るのかもしれない。
 翠はその考えを打ち消した。そんな未来はずっと先の事だ。もしその時は紅のことも受け入れてくれる人と結婚しよう。小さな翠はまだ見ぬ将来の結婚相手への条件をたった今決定した。
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