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放課後。カードキーをタッチして家に入ると玄関には黒と白のシンプルなスニーカーが置かれており家政婦の葛がまだ家にいることを知らせていた。
「葛さん?」
「翠ちゃん。おかえり」
「うん、ただいま」
翠が葛に会うのは久しぶりだった。普段ならばこの時間はもう葛が帰っている時間であって、いつも書置きだけが残されているからだ。
靴を揃えて脱いでから家にあがるとちょうどリビングのテーブルで葛がメモ帳に書置きを残している最中だった。
「あっ、チーズタルト美味しかったよ。ありがとう」
「それは良かった」
葛はもう長い事この家に家政婦として勤めているが、翠が思うにその容姿は昔から変わらずいつでも年齢不詳だ。
ただ翠は年齢以外にも葛の事はよく知らなかった。小学校に上がってからというもの葛は翠が帰宅する前に姿を消している。今日のようにごく稀に顔を合わせる程度で長い事家政婦を務めているとはいえ翠との距離は他人同然だった。
「メモにも書いたけど今日の夕飯はビーフシチューね。お鍋に入ってるからあっためて食べて」
「わかったよ」
「それじゃあまたね。早めに着替えること」
「あっ、待って葛さん」
「うん?」
「えーと……」
ぼくが小さい頃、何かなかった? そう尋ねようとして、唐突にそんなことを尋ねれば怪しまれパパに告げ口されてしまうかもしれないと翠は気が付く。けれどそう尋ねる以外に良いアイデアは浮かばず翠は黙り込んだ。
「や、やっぱりなんでもない」
「そう? じゃあまたね」
大きめのトートバッグを肩にかけて手をふると葛はあっという間にガチャンとドアの音を立てて家を出て行った。 保育園の頃は夕方になると葛が大きな車で保育園まで迎ええに来てくれていたが、小学校に上がるとそれもなくなった。一人で家に帰りパパが帰宅するまで一人で過ごしているのは寂しかったが我慢してパパが買ってくれた本や映画を見ているうちに次第に寂しさは薄れていった。
(そもそもパパが早く帰ってきてくれればそんな思いしなくてもいいのに……)
寂しいという気持ちは我慢していればそのうち薄れていくものであると十一歳にして翠はどこか寂しさについて達観している節があった。
今の翠には紅がいる。学校から帰ればクローゼットの中の友達が待っている。その事実があるだけでもここ数日翠の気持ちは寂しさからは遠いところにあった。おやつを食べるのも一人ではない。一緒に食べる相手がいる。それだけのことでも翠にとってはとても嬉しいことだった。
今日も紅と話をしよう。葛に言われた通り先に着替えようとした翠だったが紅が制服なのを考えるとお揃いの服を着て会う事に意味があるような気がして、翠は着替えをしないままクローゼットへと向かう。しかし。
ガッという鈍い音。何度かドアノブを引いてみてもそれは変わらず、ただガッガッと鈍い音を立てるだけだった。
「紅……?」
ドア越しに声をかけるが中から返事はない。
何度かドアノブを引いてみたが結果は変わらなかった。数回試したところで翠は諦めた。そうしてこの日は紅には会う事ができなかった。
夜。夕食をひとりで食べた後。リビングにある大きなテレビも今日は面白い番組を映し出してはくれず、明日が土曜日ということもあり宿題もやる気が起きなかった。映画でも見ようかとディスクの入った箱の中身を探してみたが小さな女の子が好みそうなアニメ作品かパパのものであるドキュメント作品のディスクしか入っていなかった。完全に暇を持て余した翠は自室に戻りランドセルの中にある教科書とノートを棚に戻す作業を始めた。
「あ」
ブルーのノート。交換日記だ。
紅の事がありすっかり忘れていたが翠はまだ中身を読んでいない。
去年新しくしてもらったばかりの勉強机に座って交換日記の中身を読み始める。そこには玲那が練習したまるっこい文字で『面白かったマンガ』と『そのマンガの主人公の絵』が描かれていた。玲那の描いた主人公はセーラー服を着て口元に笑みを浮かべた黒髪(鉛筆のみで描かれている為本当は違うのかもしれないが)の女の子で、翠はそのマンガを読んだことはなかったがよく描けていると感じた。そしてこれは翠の主観だが――この絵はどこか紅に似ているなと思った。
(紅のこと、このノートになら書いてもいいかな?)
これは秘密のノートだ。誰にも見られることは無い。それに、玲那は翠の友達だ。玲那自身がこの交換日記を玲那と翠以外は閲覧禁止であると定めたわけで、内容を誰かに話すとは思えない。
クローゼットにいるとは書けない。翠はペンケースからお気に入りの緑色のペンを取り出して、まずは今日の日付を記した。それから、紅とはクローゼットで会ったのではなくマンションのエントランスで出会ったことにして――そう、エントランスで会う友達という事にして紅のことを書いた。
「その子ともっと仲良くなるにはどうしたらいいかな? ……っと」
ページの上半分を使って紅との出会いと紅がどんな子かを簡潔に記し、相談という形で文章を終わらせた。紅のことを誰かに話したかった。もちろん自分だけの秘密だと翠は思っていたが秘密というのは誰かに話したくなってしまうものだ。それに、仲良くなる方法を誰かに教示してもらいたかったのも本音だ。実のところ翠はあまり人間関係を築きあげるのが得意ではないのだ。
残ったページの下半分に翠は簡単な愚痴を書いた。映画のディスクも充実しておらず、マンガやゲームも買ってもらえず家にいては暇を持て余してしまうと。要は現状に対する不満だった。
パパが買ってきた海外の児童文学なんかを読むことは許されていた。しかしそれだってもうとっくに飽きていた。テレビだって、見ているものがミステリー系のドラマやクイズ番組であれば黙認されるがバラエティ番組なんかを見た日には翠はパパに叱られてしまう。
全くもって退屈で窮屈な生活を強いられていると翠は常々感じている。思春期に差し掛かっている多感な時期だからこそ尚更だ。
「葛さん?」
「翠ちゃん。おかえり」
「うん、ただいま」
翠が葛に会うのは久しぶりだった。普段ならばこの時間はもう葛が帰っている時間であって、いつも書置きだけが残されているからだ。
靴を揃えて脱いでから家にあがるとちょうどリビングのテーブルで葛がメモ帳に書置きを残している最中だった。
「あっ、チーズタルト美味しかったよ。ありがとう」
「それは良かった」
葛はもう長い事この家に家政婦として勤めているが、翠が思うにその容姿は昔から変わらずいつでも年齢不詳だ。
ただ翠は年齢以外にも葛の事はよく知らなかった。小学校に上がってからというもの葛は翠が帰宅する前に姿を消している。今日のようにごく稀に顔を合わせる程度で長い事家政婦を務めているとはいえ翠との距離は他人同然だった。
「メモにも書いたけど今日の夕飯はビーフシチューね。お鍋に入ってるからあっためて食べて」
「わかったよ」
「それじゃあまたね。早めに着替えること」
「あっ、待って葛さん」
「うん?」
「えーと……」
ぼくが小さい頃、何かなかった? そう尋ねようとして、唐突にそんなことを尋ねれば怪しまれパパに告げ口されてしまうかもしれないと翠は気が付く。けれどそう尋ねる以外に良いアイデアは浮かばず翠は黙り込んだ。
「や、やっぱりなんでもない」
「そう? じゃあまたね」
大きめのトートバッグを肩にかけて手をふると葛はあっという間にガチャンとドアの音を立てて家を出て行った。 保育園の頃は夕方になると葛が大きな車で保育園まで迎ええに来てくれていたが、小学校に上がるとそれもなくなった。一人で家に帰りパパが帰宅するまで一人で過ごしているのは寂しかったが我慢してパパが買ってくれた本や映画を見ているうちに次第に寂しさは薄れていった。
(そもそもパパが早く帰ってきてくれればそんな思いしなくてもいいのに……)
寂しいという気持ちは我慢していればそのうち薄れていくものであると十一歳にして翠はどこか寂しさについて達観している節があった。
今の翠には紅がいる。学校から帰ればクローゼットの中の友達が待っている。その事実があるだけでもここ数日翠の気持ちは寂しさからは遠いところにあった。おやつを食べるのも一人ではない。一緒に食べる相手がいる。それだけのことでも翠にとってはとても嬉しいことだった。
今日も紅と話をしよう。葛に言われた通り先に着替えようとした翠だったが紅が制服なのを考えるとお揃いの服を着て会う事に意味があるような気がして、翠は着替えをしないままクローゼットへと向かう。しかし。
ガッという鈍い音。何度かドアノブを引いてみてもそれは変わらず、ただガッガッと鈍い音を立てるだけだった。
「紅……?」
ドア越しに声をかけるが中から返事はない。
何度かドアノブを引いてみたが結果は変わらなかった。数回試したところで翠は諦めた。そうしてこの日は紅には会う事ができなかった。
夜。夕食をひとりで食べた後。リビングにある大きなテレビも今日は面白い番組を映し出してはくれず、明日が土曜日ということもあり宿題もやる気が起きなかった。映画でも見ようかとディスクの入った箱の中身を探してみたが小さな女の子が好みそうなアニメ作品かパパのものであるドキュメント作品のディスクしか入っていなかった。完全に暇を持て余した翠は自室に戻りランドセルの中にある教科書とノートを棚に戻す作業を始めた。
「あ」
ブルーのノート。交換日記だ。
紅の事がありすっかり忘れていたが翠はまだ中身を読んでいない。
去年新しくしてもらったばかりの勉強机に座って交換日記の中身を読み始める。そこには玲那が練習したまるっこい文字で『面白かったマンガ』と『そのマンガの主人公の絵』が描かれていた。玲那の描いた主人公はセーラー服を着て口元に笑みを浮かべた黒髪(鉛筆のみで描かれている為本当は違うのかもしれないが)の女の子で、翠はそのマンガを読んだことはなかったがよく描けていると感じた。そしてこれは翠の主観だが――この絵はどこか紅に似ているなと思った。
(紅のこと、このノートになら書いてもいいかな?)
これは秘密のノートだ。誰にも見られることは無い。それに、玲那は翠の友達だ。玲那自身がこの交換日記を玲那と翠以外は閲覧禁止であると定めたわけで、内容を誰かに話すとは思えない。
クローゼットにいるとは書けない。翠はペンケースからお気に入りの緑色のペンを取り出して、まずは今日の日付を記した。それから、紅とはクローゼットで会ったのではなくマンションのエントランスで出会ったことにして――そう、エントランスで会う友達という事にして紅のことを書いた。
「その子ともっと仲良くなるにはどうしたらいいかな? ……っと」
ページの上半分を使って紅との出会いと紅がどんな子かを簡潔に記し、相談という形で文章を終わらせた。紅のことを誰かに話したかった。もちろん自分だけの秘密だと翠は思っていたが秘密というのは誰かに話したくなってしまうものだ。それに、仲良くなる方法を誰かに教示してもらいたかったのも本音だ。実のところ翠はあまり人間関係を築きあげるのが得意ではないのだ。
残ったページの下半分に翠は簡単な愚痴を書いた。映画のディスクも充実しておらず、マンガやゲームも買ってもらえず家にいては暇を持て余してしまうと。要は現状に対する不満だった。
パパが買ってきた海外の児童文学なんかを読むことは許されていた。しかしそれだってもうとっくに飽きていた。テレビだって、見ているものがミステリー系のドラマやクイズ番組であれば黙認されるがバラエティ番組なんかを見た日には翠はパパに叱られてしまう。
全くもって退屈で窮屈な生活を強いられていると翠は常々感じている。思春期に差し掛かっている多感な時期だからこそ尚更だ。
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