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第4章:魔族の子

第36話 ドロリスの涙

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 意識を失っていたようだ。朝陽が上体を起こすと、魔王の間の玉座に座り、デュベが身につけていた衣服を撫でるドロリスと目が合った。

「目が覚めたか」
「はい……。あの、ソフランとペトラは……」
「一命をとりとめた。今はぐっすり眠っているよ」
「そうですか……。よかった……っ」

 デュベがこの世を去った時も、ソフランとペトラの命が助かった今も、ドロリスは変わらず無表情のままだ。彼女はただ、いつもと同じ冷静な声で朝陽に礼を言うだけだった。

「感謝している。しかしお前はなんてバカなヒト族なんだろう。魔族の子のために自らの身を削るとは」

 朝陽が天井を見上げると、三日前と同じように水滴がぽたぽたと落ち続けている。その雫はドロリスの服の上に落ち、じわりと沁み込んだ。

 朝陽はドロリスの言葉に応えず、筆を手に取った。
 床に文字を書く朝陽の筆運びに見惚れていたドロリスは、彼が床から筆を離したタイミングで尋ねた。

「異世界の言語か。何を書いた?」
「『限りあれば 薄墨衣浅けれど 涙ぞ袖を 淵となしける』」
「意味が分からん。何だそれは。呪文か?」
「これは、僕のいた世界で有名な歌なんです」

 朝陽が床に書いたのは、『源氏物語』の中で、正妻を亡くした光源氏が詠んだ歌だ。慣習で薄墨色の喪服を着ているが、涙で袖は淵のように深く濃い色の悲しみで濡れている、という、愛する人を失い悲しみに暮れる心情が詠まれている。

「魔王という立場上、ヒト族の僕に弱みを見せたくなくて、あなたはずっと無表情なんでしょうね」
「……」
「城の中でぽつぽつと振る、この水滴。これはあなたの涙の代わりに落ちているものなんだろうなと思っていました。だって、この水滴が降り始めたのは、子どもたちが臥せってからですから」
「……アサヒ。もういい、やめろ」

 額に手を当てるドロリスは、少し震えていた。
 天井から、水滴が墨の上に落ちる。

「僕の世界では、弔事では薄い色の墨を使うんです。墨を磨っている時間もないほど急いで駆けつけたという意味もありますし、涙で墨が薄れてしまったからという風に言われていたりもします」

 それからしばらく、朝陽とドロリスは静かにデュベの死を悼んだ。
 ドロリスはデュベの衣服を眺め、小さな声で言った。

「デュベはエルフに憧れていた。魔族じゃなくてエルフが良かったと。灰色がかった肌ではなく、青白い肌が良かったと。闇に覆われた黒髪ではなく、太陽に照らされた金髪が良かった。牙ではなく、耳が尖っていれば良かったのに。……デュベがそんなことを言う度に喧嘩していた」

 俯いている朝陽に、ドロリスは言葉を続ける。

「この子は外の世界を知る前に、薄暗くて辛気臭い城の中で死んじまった」

 ドロリスは立ち上がり、デュベが遺した光の球体を差し出した。

「これは、魂魄――デュベの命そのものだ。これをお前に預ける。どうか、これからお前が、デュベに外の世界を見せてやってくれ。美しい物をたくさん教えてやってくれ」

 デュベの魂魄は母親の手を離れ、すぅっと黒猫の体の中に入っていった。
 朝陽は黒猫を撫で、頷く。

「……はい。約束します」

 そしてドロリスは跪く。

「お前はその身を削り、私の子の命をふたつ救ってくれた。そして失われた命に、生前恋焦がれていた外の世界を見せると約束してくれた。感謝する……心から」

 朝陽は首を横に振り、ドロリスの顔を上げさせる。

「僕は、僕がこの子たちに生きて欲しかったからやっただけです。救えなかったデュベに、僕が外の世界を見せたいから見せるだけです」
「それでも、私はお前に感謝する。この恩は忘れない」

 二人が手を繋ぎ合っていると、部屋の外から怒号が聞こえた。
 ドロリスは冷たい表情で舌打ちする。

「はあ。まぁた来たのかあいつらは」
「あいつら?」
「ほら、お前を見捨てたやつらだよ」
「勇者ですか……。こんなときに」

 朝陽は扉に目をやった。魔王の間を開錠しようと、エルムが呪文を唱えているのが聞こえる。

「手下の情報によると、またあいつらは囮にする用の人間を一人連れているらしい。あー、なんと言ったか」
「ローラー、ですか」
「そう、それだ。脅されたか、金に目がくらんだか、どちらかは知らんが」

 ヒト族として勇者を応援しなければならないはずなのだが、朝陽はどうしてもそれができなかった。
 心配そうに視線を送る朝陽に、ドロリスが不敵な笑みを見せる。

「お前にとって幸か不幸か、今回も私はやられんよ。さあ、お前はさっさと帰れ」

 ドロリスが指を鳴らす。
 家に帰された朝陽の背後には、杖を手の平に何度も叩きつけるソチネが怖い顔で立っていた。朝陽が事情を説明しなくとも、彼女はだいたいのことを把握していた。

「図書館に忍び込んだのも知っているのよ。誰があそこの門番をしていると思っているの? 私よ?」

 本来であれば、許可のない者が南京錠を開けた時点で、ソチネが飼っているケルベロスの檻の中に転移する魔法陣が発動するらしい。それなのに朝陽が転移されなかったのは、ソチネが目を瞑ったからだそうだ。

「あなた、とっても切羽詰まっていたじゃない。余程の事情があると思って、今回だけは特別に」

 でも、とソチネは朝陽の左手を掴む。

「まさかあの儀式を成功させるとは思わなかった……」

 ソチネが朝陽を野放しにしていたのは、どれほど知識を仕入れても、魔力がないから実践はできないと踏んでいたからだ。
 呪式が刻まれた朝陽の手を、ソチネは包み込む。

「痛かったでしょう。苦しかったでしょう。ここまでして、魔王の子どもを救いたかったのね」
「……ごめんなさい、ソチネさん。あなたの、ヒト族のための魔法陣を……僕は魔族のために使いました……」
「私こそ、ごめんなさい。あなたがしようとしていることを、分かっていながら力を貸さなくて……。私には、それが許されないの……。目を瞑ることしかできなかったの……」

 朝陽はソチネの手を握り返し、彼女の言葉を否定した。

「いいえ。あなたはずっと、僕に力を貸してくれていました。僕があの魔術史書を見つけられたのも、僕があの子たちを助けられたのも、全部、全部、あなたのおかげなんです。……あなたにとっては、とても複雑でしょうけど……。それでも、本当にありがとうございます、ソチネさん」

 朝陽が魔王の子の魔石を与えられたと聞いたソチネは、のけぞるほど驚いた。ドロリスの魔力は非常に良質で、彼女の眷属の魔石は魔族間でも殺し合い、奪い合うほどだとか。

 しかし、残念ながら、朝陽はデュベの魔石をもってしても、魔力を自在に操ることはできなかった。攻撃魔法も、回復魔王も、彼は少しも使えない。朝陽は、魔法陣や魔法スクロールを通してやっと魔力を使うことができた。

 落ち込んでいる朝陽をソチネが励ます。

「それでも充分よ。これで、あなたの魔術師への道がやっと開かれたんだから」
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