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第三章
第41話 奪われたモノ
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◇◇◇
市杵島姫命の川で遊んだ翌朝、私は妙に寝心地の良い場所で目が覚めた。
「ベッド……? あれ、なんでぇ……?」
私は大きなあくびをしながら、寝がえりを打つ。
「ムミィ、あんた珍しいじゃん。私をベッドで寝かすなんて――」
しかし、うしろには誰もいなかった。部屋にも、トイレにも、家中を探し回っても、ムミィはいなかった。
それだけじゃない。ムミィと叶えてきた夢の思い出が――駄菓子も、小学生向け雑貨も、羽ペンも――私の部屋からなくなっていた。
「……」
静かで無駄なものが何ひとつない部屋は、こんなにも広かったのか。
一日経っても、三日経っても、ムミィが戻ってくることはなかった。
そして一週間が経った日の朝、広すぎる部屋に耐えきれなくなった私は鞄を引っ掴み家を出た。
近所の公園の中にある廃れた公衆電話の中に一度入り、硬貨を入れずに三三八とボタンを押す。それから公衆電話を出て、五分ほど歩いたところにあるマンホールを左足で踏む。その手順を踏んだ上である路地裏を歩いていくと――
――歩いていっても、汚れたポリバケツが乱雑に並ぶ路地裏にしか辿り着かなかった。
パブの扉があるべきはずの壁に向かい、私は震える声で笑う。
「まだあと四ヶ月あったじゃん。私の厄年はまだ続いてるよ? なんで私の前からいなくなるの? 職務放棄ですか、ムミィさん?」
そして私は壁に拳を打ち付けた。
「私に最上の不幸を与えるんじゃなかったの!? 私、まだあんたに不幸にされてないけど!? 仕事放り投げて何してんの!? はやく戻ってきて私を不幸にしなさいよ!!」
気が付けば私は泣いていた。地面にしゃがみこみ、唇を噛み締めて、抑えられない嗚咽を漏らしながら。
突然いなくなるなんて聞いていない。出て行くなら前もって言いなさいよ。あんたはいっつもそうね。自分勝手で、気まぐれで、私の気持ちなんて全く考えずに動くんだから。しかも私の大切な思い出まで持っていきやがって。
それに、あんたがいなきゃパブにだって入れない。あんたがいなくなったら実質失業したのと同じ――
「……ああ、そういうこと……。はは、やるじゃん、ムミィ」
私はよろよろと立ち上がり、自分の家に向かって歩き出した。
部屋着のままの私を、通行人が嫌悪感丸出しの目でちらりと見てはすぐ逸らす。
この八カ月間気にならなかった、交差点の騒音が今日はやけにうるさく感じた。
白線の上を歩き、ガードレールに手を乗せ、マンホールを踏むクセがついてしまっていた私は、はっと我に返りそれらを止め人混みに紛れた。
家に戻っても、当然ムミィはいなかった。それどころか、ムミィがいた痕跡すら一つも残されていない。
私は壁にもたれかかり、ずるずるとしゃがみ込む。
「これがあんたの与えたかった〝最上の不幸〟ね」
私にとって人生の転換点となった大切な思い出と、人生の恩人ともいえる大切な人(神だけど)を奪う。それが、彼が考える〝最上の不幸〟だったと。そういうことね、ムミィ。
ムミィは、私からそれらを奪うために、この八カ月間で無理矢理作らせたんだ。
「〝失業の願い〟もご丁寧に叶えてくれたのね。どうもありがとう」
彼はまごうことなくタチの悪い疫病神だ。きっと今頃「今回もエモい不幸を与えられました~!」なんて言って上司に自慢しているのだろう。
悔しいけど、大成功よ、ムミィ。
胸に空いた穴が大きすぎて、体も心も感覚がなくなっている。
これからどうしたらいいのか分からない。あんなに明るかった道が突然真っ暗になり、シャッターを下ろした。歩く道がない。立ち上がる気力もない。
大切なものを失っただけでも苦しいのに、私は大切なものを疑い始め、自分の首を絞めていた。
私の心の支えになってくれたムミィの行動や言動全て、本心ではなく信頼させるための偽りだったのではないかと考えてしまう。
悲しさと疑心が、私を真っ暗な泥沼に引きずりこんだ。
不幸の最中でもお腹はすく。私は幽霊のようにふらふらとスーパーに向かった。
最悪だ。ムミィとスーパーになんて行かなければよかった。カートを引き店内をうろつくだけで、ホイップクリームを両手いっぱいに抱えて駆け寄ってきたムミィを思い出す。おねだりするときにだけ見せる、うるませた瞳の、とびきり可愛くてイラッとする上目遣いが目に浮かぶ。買っていいよと言ったときの、五歳児みたいな無邪気な喜びようも。
私は頭を振り、鮮明に浮かび上がる思い出を追い出した。
気を取り直して買い物を続けていた私は、お菓子コーナーを通ったとき、目の上に手を載せた。
駄菓子。どれもこれも、私がムミィと叶えた小さな夢の思い出が詰まっている。
駄菓子だけじゃない。寒天ゼリー、紅茶、子供向け雑貨……ムミィが作らせた夢の思い出は、どこにでもあるものだった。
私はこれからそれらを見たとき、今のように、ムミィのことを思い出して辛くなってしまうのだろう。
思い出を日常に溢れているものに刻むなんて、嫌がらせにもほどがある。
買い物を終えた私はキッチンに立ち、堪えられずに嗚咽を漏らした。
一番厄介なのは料理だ。私はこれから料理を作るたび、ムミィを思い出さざるを得ない。この八カ月間で、私の作れる料理はほとんど全てムミィに食べさせた。そしてムミィはどの料理も、とても美味しそうに食べてくれた。同じ料理を食べた時、彼の笑顔を思い出すなという方が難しい。
さすがはプロの疫病神。ヒトの苦しむことをよく知っている。
「はは、参ったな……」
……これは、地獄かもしれない。
市杵島姫命の川で遊んだ翌朝、私は妙に寝心地の良い場所で目が覚めた。
「ベッド……? あれ、なんでぇ……?」
私は大きなあくびをしながら、寝がえりを打つ。
「ムミィ、あんた珍しいじゃん。私をベッドで寝かすなんて――」
しかし、うしろには誰もいなかった。部屋にも、トイレにも、家中を探し回っても、ムミィはいなかった。
それだけじゃない。ムミィと叶えてきた夢の思い出が――駄菓子も、小学生向け雑貨も、羽ペンも――私の部屋からなくなっていた。
「……」
静かで無駄なものが何ひとつない部屋は、こんなにも広かったのか。
一日経っても、三日経っても、ムミィが戻ってくることはなかった。
そして一週間が経った日の朝、広すぎる部屋に耐えきれなくなった私は鞄を引っ掴み家を出た。
近所の公園の中にある廃れた公衆電話の中に一度入り、硬貨を入れずに三三八とボタンを押す。それから公衆電話を出て、五分ほど歩いたところにあるマンホールを左足で踏む。その手順を踏んだ上である路地裏を歩いていくと――
――歩いていっても、汚れたポリバケツが乱雑に並ぶ路地裏にしか辿り着かなかった。
パブの扉があるべきはずの壁に向かい、私は震える声で笑う。
「まだあと四ヶ月あったじゃん。私の厄年はまだ続いてるよ? なんで私の前からいなくなるの? 職務放棄ですか、ムミィさん?」
そして私は壁に拳を打ち付けた。
「私に最上の不幸を与えるんじゃなかったの!? 私、まだあんたに不幸にされてないけど!? 仕事放り投げて何してんの!? はやく戻ってきて私を不幸にしなさいよ!!」
気が付けば私は泣いていた。地面にしゃがみこみ、唇を噛み締めて、抑えられない嗚咽を漏らしながら。
突然いなくなるなんて聞いていない。出て行くなら前もって言いなさいよ。あんたはいっつもそうね。自分勝手で、気まぐれで、私の気持ちなんて全く考えずに動くんだから。しかも私の大切な思い出まで持っていきやがって。
それに、あんたがいなきゃパブにだって入れない。あんたがいなくなったら実質失業したのと同じ――
「……ああ、そういうこと……。はは、やるじゃん、ムミィ」
私はよろよろと立ち上がり、自分の家に向かって歩き出した。
部屋着のままの私を、通行人が嫌悪感丸出しの目でちらりと見てはすぐ逸らす。
この八カ月間気にならなかった、交差点の騒音が今日はやけにうるさく感じた。
白線の上を歩き、ガードレールに手を乗せ、マンホールを踏むクセがついてしまっていた私は、はっと我に返りそれらを止め人混みに紛れた。
家に戻っても、当然ムミィはいなかった。それどころか、ムミィがいた痕跡すら一つも残されていない。
私は壁にもたれかかり、ずるずるとしゃがみ込む。
「これがあんたの与えたかった〝最上の不幸〟ね」
私にとって人生の転換点となった大切な思い出と、人生の恩人ともいえる大切な人(神だけど)を奪う。それが、彼が考える〝最上の不幸〟だったと。そういうことね、ムミィ。
ムミィは、私からそれらを奪うために、この八カ月間で無理矢理作らせたんだ。
「〝失業の願い〟もご丁寧に叶えてくれたのね。どうもありがとう」
彼はまごうことなくタチの悪い疫病神だ。きっと今頃「今回もエモい不幸を与えられました~!」なんて言って上司に自慢しているのだろう。
悔しいけど、大成功よ、ムミィ。
胸に空いた穴が大きすぎて、体も心も感覚がなくなっている。
これからどうしたらいいのか分からない。あんなに明るかった道が突然真っ暗になり、シャッターを下ろした。歩く道がない。立ち上がる気力もない。
大切なものを失っただけでも苦しいのに、私は大切なものを疑い始め、自分の首を絞めていた。
私の心の支えになってくれたムミィの行動や言動全て、本心ではなく信頼させるための偽りだったのではないかと考えてしまう。
悲しさと疑心が、私を真っ暗な泥沼に引きずりこんだ。
不幸の最中でもお腹はすく。私は幽霊のようにふらふらとスーパーに向かった。
最悪だ。ムミィとスーパーになんて行かなければよかった。カートを引き店内をうろつくだけで、ホイップクリームを両手いっぱいに抱えて駆け寄ってきたムミィを思い出す。おねだりするときにだけ見せる、うるませた瞳の、とびきり可愛くてイラッとする上目遣いが目に浮かぶ。買っていいよと言ったときの、五歳児みたいな無邪気な喜びようも。
私は頭を振り、鮮明に浮かび上がる思い出を追い出した。
気を取り直して買い物を続けていた私は、お菓子コーナーを通ったとき、目の上に手を載せた。
駄菓子。どれもこれも、私がムミィと叶えた小さな夢の思い出が詰まっている。
駄菓子だけじゃない。寒天ゼリー、紅茶、子供向け雑貨……ムミィが作らせた夢の思い出は、どこにでもあるものだった。
私はこれからそれらを見たとき、今のように、ムミィのことを思い出して辛くなってしまうのだろう。
思い出を日常に溢れているものに刻むなんて、嫌がらせにもほどがある。
買い物を終えた私はキッチンに立ち、堪えられずに嗚咽を漏らした。
一番厄介なのは料理だ。私はこれから料理を作るたび、ムミィを思い出さざるを得ない。この八カ月間で、私の作れる料理はほとんど全てムミィに食べさせた。そしてムミィはどの料理も、とても美味しそうに食べてくれた。同じ料理を食べた時、彼の笑顔を思い出すなという方が難しい。
さすがはプロの疫病神。ヒトの苦しむことをよく知っている。
「はは、参ったな……」
……これは、地獄かもしれない。
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