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6章
第56話 メトロノーム
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夜の合奏練習には明日香も参加した。半日休んで元気そうだったので、海茅はこっそり安堵のため息を漏らした。
合宿一日目、最後の合奏練習。
顧問は椅子に座るやいなや、いつもの指揮とは似ても似つかない、ヒョイヒョイと適当な指揮を振り始めた。演奏が始まっても、こちらを見もせずぼうっと虚空を眺めている。
お前たちの演奏にはこの指揮で充分だろう? と言われている気がした。
いや、お前たちの演奏はこんな感じだぞ、と言われているのかもしれない。
ただメトロノームのように正確なリズムを振るだけの顧問に、夜の合奏こそはちゃんと演奏しなければと意気込んでいた部員たちは、失恋したときと同じ胸の苦しみを感じた。
顧問の感情がこもった指揮がいつしか当たり前になっていた。表現を捨てた指揮がこれほどつまらなく、演奏する側も気持ちを乗せられなくなるなんて。
「んにゃろ……」
呻き声が耳に入り、海茅はちらっと樋暮先輩に目をやった。
樋暮先輩はこめかみに青筋を立て、口元をひくつかせている。視線を感じた彼女は、顧問をアゴで指し囁く。
「私たちの演奏で、さっさと本気出させよう」
樋暮先輩と同じように、ほとんどの部員が顧問の挑発にまんまと乗せられたようだ。彼女たちは顧問を睨みつけ、体の全てで音を響かせる。
(こっち見ろ! 私たちの演奏を聴け!)
(むかつく! 絶対振り向かせてやるから!)
(まずはあんたを感動させてやる!)
顧問の一定の指揮を見ていても仕方がない。フルートパートはアイコンタクトを取り、いつもの指揮を思い出しながら物語を紡ぎ始めた。
それに気付いたパーカッションパートが、フルートに合わせてリズムを刻む。
いつしか全てのパートが、部員の音、リズム、仕草に全神経を集中させ、ひとつの音楽として溶け込んでいった。
顧問の虚ろな目に光が灯る。
海茅には、顧問の口元が微かに緩んだように見えた。
演奏と微かにズレが生じていた顧問の指揮が、いつの間にかぴったりと合っている。
まだ振り方は単調だが、メトロノームと呼ぶには滑らかになりつつある。
椅子にもたれかかっていた顧問が、いつの間にか姿勢を正していた。
もうすぐ、女の子が住まう森に朝日が差し込むシーン――第一の山場が来る。
海茅はサスペンドシンバルロールに、クレッシェンド(だんだん強く)をかけていく。
顧問の指揮がたおやかに大きく振りあがった瞬間、部員たちの全身に鳥肌が立った。
その時彼女たちは、初めて演奏で人の心を動かした。
人を感動させたことに、彼女たち自身も心を揺さぶられる。
フォルテッシモ(きわめて強く)の先には、朝日に照らされた森で自由に駆け回る小鳥や動物たちがいた。そして動物たちが向かうところには、華麗に踊る女の子の姿。
女の子はギョロ目で無口でぶっきらぼうだが、誰よりも森を想い、美しく踊る。
いつもの指揮に戻った顧問は、いつもより目をかっぴらいて、言葉ではなく指揮で部員たちに訴える。
部員たちは彼に応えようと、音に魂を注ぎ込んだ。
合奏を終えたときには、顧問も部員も汗だくになっていた。
合宿一日目、最後の合奏練習。
顧問は椅子に座るやいなや、いつもの指揮とは似ても似つかない、ヒョイヒョイと適当な指揮を振り始めた。演奏が始まっても、こちらを見もせずぼうっと虚空を眺めている。
お前たちの演奏にはこの指揮で充分だろう? と言われている気がした。
いや、お前たちの演奏はこんな感じだぞ、と言われているのかもしれない。
ただメトロノームのように正確なリズムを振るだけの顧問に、夜の合奏こそはちゃんと演奏しなければと意気込んでいた部員たちは、失恋したときと同じ胸の苦しみを感じた。
顧問の感情がこもった指揮がいつしか当たり前になっていた。表現を捨てた指揮がこれほどつまらなく、演奏する側も気持ちを乗せられなくなるなんて。
「んにゃろ……」
呻き声が耳に入り、海茅はちらっと樋暮先輩に目をやった。
樋暮先輩はこめかみに青筋を立て、口元をひくつかせている。視線を感じた彼女は、顧問をアゴで指し囁く。
「私たちの演奏で、さっさと本気出させよう」
樋暮先輩と同じように、ほとんどの部員が顧問の挑発にまんまと乗せられたようだ。彼女たちは顧問を睨みつけ、体の全てで音を響かせる。
(こっち見ろ! 私たちの演奏を聴け!)
(むかつく! 絶対振り向かせてやるから!)
(まずはあんたを感動させてやる!)
顧問の一定の指揮を見ていても仕方がない。フルートパートはアイコンタクトを取り、いつもの指揮を思い出しながら物語を紡ぎ始めた。
それに気付いたパーカッションパートが、フルートに合わせてリズムを刻む。
いつしか全てのパートが、部員の音、リズム、仕草に全神経を集中させ、ひとつの音楽として溶け込んでいった。
顧問の虚ろな目に光が灯る。
海茅には、顧問の口元が微かに緩んだように見えた。
演奏と微かにズレが生じていた顧問の指揮が、いつの間にかぴったりと合っている。
まだ振り方は単調だが、メトロノームと呼ぶには滑らかになりつつある。
椅子にもたれかかっていた顧問が、いつの間にか姿勢を正していた。
もうすぐ、女の子が住まう森に朝日が差し込むシーン――第一の山場が来る。
海茅はサスペンドシンバルロールに、クレッシェンド(だんだん強く)をかけていく。
顧問の指揮がたおやかに大きく振りあがった瞬間、部員たちの全身に鳥肌が立った。
その時彼女たちは、初めて演奏で人の心を動かした。
人を感動させたことに、彼女たち自身も心を揺さぶられる。
フォルテッシモ(きわめて強く)の先には、朝日に照らされた森で自由に駆け回る小鳥や動物たちがいた。そして動物たちが向かうところには、華麗に踊る女の子の姿。
女の子はギョロ目で無口でぶっきらぼうだが、誰よりも森を想い、美しく踊る。
いつもの指揮に戻った顧問は、いつもより目をかっぴらいて、言葉ではなく指揮で部員たちに訴える。
部員たちは彼に応えようと、音に魂を注ぎ込んだ。
合奏を終えたときには、顧問も部員も汗だくになっていた。
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