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5章
第45話 シンバルの恨み言
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明日香が去った教師控室で、海茅はシンバルを手に取った。
自分が傷付くと分かっているから、聞きたくない。知りたくない。認めたくない。だから現実から、自分自身から、目を背けていた。今までそうやって、ことあるごとに逃げてきた。
逃げる方が楽だと思っていた。
でも、そうじゃないと今の海茅は知っている。
逃げる方が辛い。逃げている間も、そのことばかり考えてしまうのだから、苦しい時間が長引くだけ。
向き合って前に進んで、逃げていたときよりも辛かったことが今まであっただろうか。
海茅は深く息を吸い、片手を振り上げる。
シンバルが合わさると、前を向こうとする海茅の頭を押さえつけるかのようなシンバルの悲鳴が聞こえた。
《私たちで汚い音を出さないで!》
シンバルの叫び声は、きっと音楽室や視聴覚室で練習している部員にも聞こえただろう。
「うぅぅ……っ」
みんなに聞かれて恥ずかしい。こんな音を出すシンバルを憎たらしくすら思った。
海茅は顔を歪めたまま、もう一度手を振り上げる。
《下手くそ!》
蔑みの言葉を浴びせられても、もう一度。
《シンバルしか取り柄がないのに、シンバルもまともに響かせられないなんて!》
耳を塞ぎたい。もう鳴らしたくない。それでも、海茅は何度もシンバルを叩いた。
《きっと音楽室にいる部員も、この音にげんなりしてるだろうね!》
《優紀の方が、練習したらきっとシンバルも上手になる!》
《勉強もフルートも、シンバルもできない落ちこぼれ!》
最後の一発も、シンバルから鳴ったのは、心が折れるほどひどい音だった。
海茅は浅い息を繰り返しながら、シンバルを持ったままだらんと腕を下ろす。
「……」
シンバルを叩けば叩くほど、心がすり減っていく。
海茅は椅子に腰かけ、シンバルを抱きしめた。
せっかく前に進もうと思ったのに、今までのように都合よくいかない。
海茅の瞳から涙がぽろりとこぼれた。一粒落ちると、二粒、三粒と、止まらなくなる。
どうしてこんな思いをしてまでシンバルを練習しないといけないんだろうという疑問が、海茅の脳みそにヒョコッと芽生えた。
海茅はもともとフルートがしたかったはずだ。それなのになぜ、泣くほど辛い思いをしながら練習をしているのだろう。
その時、ふと優紀の声が聞こえた気がした。
『海茅ちゃん。辛いのは分かるけど、逃げちゃだめ』
もしこのまま汚い音ばかり鳴らしていたら、誰も褒めてくれなくなるし、きっとみんなに疎まれる。
シンバルだって、こんな音しか鳴らせない海茅に怒っているのだろう。だからあんなひどい言葉ばかりを海茅に浴びせかけるのだ。
『そうやって自分の思い込みだけで、私たちを決めつけないで!』
いっそ吹奏楽部を辞めてしまおうか。そしたらシンバルのことで悩まずに済むし、放課後の教室で匡史が絵を描いているところをいつでも見られるようになる。きっとその方が楽しいはずだ。
『自分の殻に閉じこもって勝手に苦しんで! そんなことしたってなにも変わらないんだよ! 変える努力なんてしてないんだから!!』
でも、と海茅はくったりと椅子にもたれかかり、天井を見上げた。
匡史と電話越しに一緒に見た星空を、もう二度と広げられないのはいやだ。
海茅は重い腰を上げ、シンバルを見つめる。
シンバルを好きになったきっかけは、初めて人に褒められ、認められたからだと思っていた。しかし、どうやらそうではないらしい。
海茅の初恋はもう少し前、OBのシンバルの音を初めて聴いたあの日だった。そして悔しいことに、よほど惚れこんでしまったようだ。少なくとも、ちょっと仲違いしたくらいでは嫌えないくらいには。
「これが惚れた弱みってやつかぁ」
海茅は困ったように笑い、身が入らないままシンバルを叩く。それを叱るように、シンバルが甲高い声で唸った。
「辛いけど、逃げちゃだめ」
相変わらずひどいことばかり言うシンバルにも、海茅はめげない。
「シンバルはそんなこと言わない。私の思い込みなだけ」
シンバルの恨み言が聞こえなくなった。聞こえるのは、綺麗な音で響きたがっているのに上手くいかないだけの音。
「いるはずのない敵を作るな! シンバルも、部員も顧問も、みんな敵じゃない! 私の敵は、みんなを疑ってしまう私の不安だけ……!」
信じるのは怖い。海茅がいつも悪い方に考えてしまうのは、そっちの方が楽だから。
「って思ってたけど……しんどいだけ!」
余計なことに脳みそを使って、一人で勝手に疲れていた。そんなことを考えても状況が良くなるわけでもないのに。
だったら良くなるための方法を考えなさいと、優紀が教えてくれた。
海茅が今するべきことは、シンバルの音に集中して練習すること。どうして音が悪いのか、どうしたら音が良くなるのかを考えなければ、ただ叩いていても意味がない。
鍵は見つけた。あとは扉がある場所まで進むだけ。
海茅が扉の鍵を開けたのは、それから一週間後のことだった。
皮が硬くなった指で握られたシンバルは、久しぶりに星空を散らせた。
それに気付いた顧問とパーカッションパートは、合奏中に思わず顔を上げた。彼らが見たのは、涙を滲ませた目を瞼で隠す海茅だった。
自分が傷付くと分かっているから、聞きたくない。知りたくない。認めたくない。だから現実から、自分自身から、目を背けていた。今までそうやって、ことあるごとに逃げてきた。
逃げる方が楽だと思っていた。
でも、そうじゃないと今の海茅は知っている。
逃げる方が辛い。逃げている間も、そのことばかり考えてしまうのだから、苦しい時間が長引くだけ。
向き合って前に進んで、逃げていたときよりも辛かったことが今まであっただろうか。
海茅は深く息を吸い、片手を振り上げる。
シンバルが合わさると、前を向こうとする海茅の頭を押さえつけるかのようなシンバルの悲鳴が聞こえた。
《私たちで汚い音を出さないで!》
シンバルの叫び声は、きっと音楽室や視聴覚室で練習している部員にも聞こえただろう。
「うぅぅ……っ」
みんなに聞かれて恥ずかしい。こんな音を出すシンバルを憎たらしくすら思った。
海茅は顔を歪めたまま、もう一度手を振り上げる。
《下手くそ!》
蔑みの言葉を浴びせられても、もう一度。
《シンバルしか取り柄がないのに、シンバルもまともに響かせられないなんて!》
耳を塞ぎたい。もう鳴らしたくない。それでも、海茅は何度もシンバルを叩いた。
《きっと音楽室にいる部員も、この音にげんなりしてるだろうね!》
《優紀の方が、練習したらきっとシンバルも上手になる!》
《勉強もフルートも、シンバルもできない落ちこぼれ!》
最後の一発も、シンバルから鳴ったのは、心が折れるほどひどい音だった。
海茅は浅い息を繰り返しながら、シンバルを持ったままだらんと腕を下ろす。
「……」
シンバルを叩けば叩くほど、心がすり減っていく。
海茅は椅子に腰かけ、シンバルを抱きしめた。
せっかく前に進もうと思ったのに、今までのように都合よくいかない。
海茅の瞳から涙がぽろりとこぼれた。一粒落ちると、二粒、三粒と、止まらなくなる。
どうしてこんな思いをしてまでシンバルを練習しないといけないんだろうという疑問が、海茅の脳みそにヒョコッと芽生えた。
海茅はもともとフルートがしたかったはずだ。それなのになぜ、泣くほど辛い思いをしながら練習をしているのだろう。
その時、ふと優紀の声が聞こえた気がした。
『海茅ちゃん。辛いのは分かるけど、逃げちゃだめ』
もしこのまま汚い音ばかり鳴らしていたら、誰も褒めてくれなくなるし、きっとみんなに疎まれる。
シンバルだって、こんな音しか鳴らせない海茅に怒っているのだろう。だからあんなひどい言葉ばかりを海茅に浴びせかけるのだ。
『そうやって自分の思い込みだけで、私たちを決めつけないで!』
いっそ吹奏楽部を辞めてしまおうか。そしたらシンバルのことで悩まずに済むし、放課後の教室で匡史が絵を描いているところをいつでも見られるようになる。きっとその方が楽しいはずだ。
『自分の殻に閉じこもって勝手に苦しんで! そんなことしたってなにも変わらないんだよ! 変える努力なんてしてないんだから!!』
でも、と海茅はくったりと椅子にもたれかかり、天井を見上げた。
匡史と電話越しに一緒に見た星空を、もう二度と広げられないのはいやだ。
海茅は重い腰を上げ、シンバルを見つめる。
シンバルを好きになったきっかけは、初めて人に褒められ、認められたからだと思っていた。しかし、どうやらそうではないらしい。
海茅の初恋はもう少し前、OBのシンバルの音を初めて聴いたあの日だった。そして悔しいことに、よほど惚れこんでしまったようだ。少なくとも、ちょっと仲違いしたくらいでは嫌えないくらいには。
「これが惚れた弱みってやつかぁ」
海茅は困ったように笑い、身が入らないままシンバルを叩く。それを叱るように、シンバルが甲高い声で唸った。
「辛いけど、逃げちゃだめ」
相変わらずひどいことばかり言うシンバルにも、海茅はめげない。
「シンバルはそんなこと言わない。私の思い込みなだけ」
シンバルの恨み言が聞こえなくなった。聞こえるのは、綺麗な音で響きたがっているのに上手くいかないだけの音。
「いるはずのない敵を作るな! シンバルも、部員も顧問も、みんな敵じゃない! 私の敵は、みんなを疑ってしまう私の不安だけ……!」
信じるのは怖い。海茅がいつも悪い方に考えてしまうのは、そっちの方が楽だから。
「って思ってたけど……しんどいだけ!」
余計なことに脳みそを使って、一人で勝手に疲れていた。そんなことを考えても状況が良くなるわけでもないのに。
だったら良くなるための方法を考えなさいと、優紀が教えてくれた。
海茅が今するべきことは、シンバルの音に集中して練習すること。どうして音が悪いのか、どうしたら音が良くなるのかを考えなければ、ただ叩いていても意味がない。
鍵は見つけた。あとは扉がある場所まで進むだけ。
海茅が扉の鍵を開けたのは、それから一週間後のことだった。
皮が硬くなった指で握られたシンバルは、久しぶりに星空を散らせた。
それに気付いた顧問とパーカッションパートは、合奏中に思わず顔を上げた。彼らが見たのは、涙を滲ませた目を瞼で隠す海茅だった。
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