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5章
第44話 茶葉と一滴の水
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「えっ……」
「一瞬、彼方さんって私だっけ? って思った!」
予想外の反応についていけずポカンと口を開ける海茅に、明日香は早口で話した。
「私も、コンディション最高の時の音と比べて落ち込むの。そういう時こそ練習しないといけないんだけど、自分の音を聴きたくないから練習したくなくなるってほんとそう」
明日香はまだまだ止まらない。
「調子が悪い時に合奏出るの嫌なのもすごく分かる。先生と目が合うと、いつもビクビクしちゃうし。それに同じパートの人になんて思われてるんだろうって考えるとゾッとする!」
「き、如月さんもそんなこと思うの……?」
「思うよ。というかほとんど毎日思ってる」
でもね、と明日香は目尻を下げた。
「顧問と同じパートの人は別として、案外みんな気付いてないものだよ?」
「そうかなあ……」
「うん! だって私は、彼方さんのシンバルの音は今でも綺麗だと思うもん」
海茅が疑いの目を向けると、明日香がイシシと笑う。
「だって彼方さんも、今日の私の音が汚いなんて思わなかったでしょ?」
「うん。今日の如月さんのフルートも綺麗だったよ」
「でしょ? でも実は、今日の私は最悪のコンディションだった!」
「嘘だあ」
「ほんとだよ! だからさっき先生に相談しようと思ってここに来たの」
明日香は伏し目がちにフルートをそっと撫で、言葉を続ける。
「きっとみんな、私と同じように、彼方さんのシンバルは今日も綺麗だなあって思ったよ」
シンバルの音が綺麗と何度も褒められて、そろそろむず痒くなってきた。
「それと、顧問とパートの人が何も言わないのは、『あー、今日の彼方は調子悪いみたいだなー。ま、こんな時もあるさ』って思ってるはず! だってみんな彼方さんの本当のシンバルの音を知ってるんだから」
海茅は体をもぞもぞと揺らし、小さく頷いた。これ以上優しくてこそばゆい言葉をかけられ続けたら、どうにかなってしまいそうだ。
「だって顧問も、パートの人たちも、そんな意地悪なことを思う人たちじゃないでしょ?」
「うん。そうなの。私が考えちゃうことを思うような人たちじゃないの。分かってるのになあ」
「分かってるのに不安になっちゃうよね。私もそう。勝手にいるはずのない敵を作っちゃうの。それでどんどん怖くなってくる。本当は優しい人たちのことも、ずっと傍にいてくれてるフルートのことも」
フルートが上手で、頭が良くて可愛くて、飲んでいるお茶がルイボスティーの明日香。
フルートのオーディションを落ちて、成績が悪くて地味な見た目をした、ちょっぴり濃い口の烏龍茶を飲んでいる海茅とは両極の存在だと思っていた。
だがこの時海茅は、映し鏡を見ているように感じた。
「……如月さん。ごめんね」
「え? どうして謝るの?」
海茅は言おうか言うまいか迷ったが、我慢できずに打ち明ける。
「私、実は如月さんが悩んでる時にね、上手いのに何言ってんだーって思ったの」
「あはは! 顔に出てたよ~」
「うぅ……ごめん」
「気にしないで。自分が恵まれた環境だってことは分かってるから」
最後に付け足された一言に、明日香の気持ちがぎっしり詰まっている気がした。
海茅は目を伏せたまま今の気持ちを伝える。
「でもね、今は違うよ。まわりは上手だよって言ってくれても、自分は納得できない気持ちが私にも分かった。それがただ下手なときよりもずっと辛いことも」
海茅の言葉に明日香がはにかんだ。フルートが上手だと言われたときよりも嬉しそうだ。
「と、友だちがね、有名な画家でも自分の絵が下手だって悩んでたって教えてくれたの。だからプロでもない私たちが、自分のことを下手だって思うのも仕方ないって言ってた。それに、そうやって悩むことは向上心のあらわれだから、良いことだって」
「その友だち、すごく良いこと言うね。わあ、そう言ってもらえたらちょっと気が楽になる」
海茅はこくこく頷き、今だから思えることを言葉にした。
「上手な人には上手な人の悩みがあるし、恵まれた環境の人には恵まれた環境の人の悩みがあると、思う。他の人と比べると贅沢な悩みなのかもしれないけど、別に悩みなんて他の人と比べる必要、ないよね」
ぎこちなかったが、ちゃんと明日香には伝わったようだ。だから彼女は一筋涙を流したのだろう。
「……ありがとう、彼方さん」
「ううん。私の方こそありがとう」
「私の方が慰められちゃったな」
「私もいっぱい慰めてもらったよ」
その日、海茅は明日香とLINE交換をした。
正直に言うと、明日香とは仲良くなれる気がしなかった。
それが今は、一番弱い部分を見せ合った、かけがえのない人になった。
「一瞬、彼方さんって私だっけ? って思った!」
予想外の反応についていけずポカンと口を開ける海茅に、明日香は早口で話した。
「私も、コンディション最高の時の音と比べて落ち込むの。そういう時こそ練習しないといけないんだけど、自分の音を聴きたくないから練習したくなくなるってほんとそう」
明日香はまだまだ止まらない。
「調子が悪い時に合奏出るの嫌なのもすごく分かる。先生と目が合うと、いつもビクビクしちゃうし。それに同じパートの人になんて思われてるんだろうって考えるとゾッとする!」
「き、如月さんもそんなこと思うの……?」
「思うよ。というかほとんど毎日思ってる」
でもね、と明日香は目尻を下げた。
「顧問と同じパートの人は別として、案外みんな気付いてないものだよ?」
「そうかなあ……」
「うん! だって私は、彼方さんのシンバルの音は今でも綺麗だと思うもん」
海茅が疑いの目を向けると、明日香がイシシと笑う。
「だって彼方さんも、今日の私の音が汚いなんて思わなかったでしょ?」
「うん。今日の如月さんのフルートも綺麗だったよ」
「でしょ? でも実は、今日の私は最悪のコンディションだった!」
「嘘だあ」
「ほんとだよ! だからさっき先生に相談しようと思ってここに来たの」
明日香は伏し目がちにフルートをそっと撫で、言葉を続ける。
「きっとみんな、私と同じように、彼方さんのシンバルは今日も綺麗だなあって思ったよ」
シンバルの音が綺麗と何度も褒められて、そろそろむず痒くなってきた。
「それと、顧問とパートの人が何も言わないのは、『あー、今日の彼方は調子悪いみたいだなー。ま、こんな時もあるさ』って思ってるはず! だってみんな彼方さんの本当のシンバルの音を知ってるんだから」
海茅は体をもぞもぞと揺らし、小さく頷いた。これ以上優しくてこそばゆい言葉をかけられ続けたら、どうにかなってしまいそうだ。
「だって顧問も、パートの人たちも、そんな意地悪なことを思う人たちじゃないでしょ?」
「うん。そうなの。私が考えちゃうことを思うような人たちじゃないの。分かってるのになあ」
「分かってるのに不安になっちゃうよね。私もそう。勝手にいるはずのない敵を作っちゃうの。それでどんどん怖くなってくる。本当は優しい人たちのことも、ずっと傍にいてくれてるフルートのことも」
フルートが上手で、頭が良くて可愛くて、飲んでいるお茶がルイボスティーの明日香。
フルートのオーディションを落ちて、成績が悪くて地味な見た目をした、ちょっぴり濃い口の烏龍茶を飲んでいる海茅とは両極の存在だと思っていた。
だがこの時海茅は、映し鏡を見ているように感じた。
「……如月さん。ごめんね」
「え? どうして謝るの?」
海茅は言おうか言うまいか迷ったが、我慢できずに打ち明ける。
「私、実は如月さんが悩んでる時にね、上手いのに何言ってんだーって思ったの」
「あはは! 顔に出てたよ~」
「うぅ……ごめん」
「気にしないで。自分が恵まれた環境だってことは分かってるから」
最後に付け足された一言に、明日香の気持ちがぎっしり詰まっている気がした。
海茅は目を伏せたまま今の気持ちを伝える。
「でもね、今は違うよ。まわりは上手だよって言ってくれても、自分は納得できない気持ちが私にも分かった。それがただ下手なときよりもずっと辛いことも」
海茅の言葉に明日香がはにかんだ。フルートが上手だと言われたときよりも嬉しそうだ。
「と、友だちがね、有名な画家でも自分の絵が下手だって悩んでたって教えてくれたの。だからプロでもない私たちが、自分のことを下手だって思うのも仕方ないって言ってた。それに、そうやって悩むことは向上心のあらわれだから、良いことだって」
「その友だち、すごく良いこと言うね。わあ、そう言ってもらえたらちょっと気が楽になる」
海茅はこくこく頷き、今だから思えることを言葉にした。
「上手な人には上手な人の悩みがあるし、恵まれた環境の人には恵まれた環境の人の悩みがあると、思う。他の人と比べると贅沢な悩みなのかもしれないけど、別に悩みなんて他の人と比べる必要、ないよね」
ぎこちなかったが、ちゃんと明日香には伝わったようだ。だから彼女は一筋涙を流したのだろう。
「……ありがとう、彼方さん」
「ううん。私の方こそありがとう」
「私の方が慰められちゃったな」
「私もいっぱい慰めてもらったよ」
その日、海茅は明日香とLINE交換をした。
正直に言うと、明日香とは仲良くなれる気がしなかった。
それが今は、一番弱い部分を見せ合った、かけがえのない人になった。
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