【完結】またたく星空の下

mazecco

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3章

第31話 星空の下

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 一台の机を挟んで匡史と向き合う海茅は内心穏やかではなかった。
 放課後にもかかわらず、洗いたての洗濯物の匂いがする匡史の制服。髪もふわふわさらさらだし、息はほのかにミントの香りがする。
 海茅は勉強をしているふりをして、汗臭くないかこっそり自分の制服の匂いを嗅いだり、口に手を当てて口臭チェックをしたりして、小刻みに震えた。

(私絶対に臭いって……。どうしよう、バカな上に臭い女の子って思われてたらぁぁぁ……)

 匡史は、全くペンが進んでいない海茅を覗き込んだ。

「ひっ」
「みっちゃん大丈夫? どこが分からない?」
(顔が近い匡史君の顔が近いやばい息止めなきゃ息臭いって思われちゃう。質問に答えようものなら私の口臭がダイレクトに匡史君の顔にかかってしまうそんなの無理。離れたいけど動いたら風が起きて私の体臭が匡史君のところに流れちゃう可能性が……。ダメだ、動けない……!)

 固まって一言も話さない海茅を見て、匡史はクスッと笑った。

「わ、デジャヴ」
「……?」
「初めて話した時も、みっちゃん今みたいに固まってたよね」

 その時のことを思い出し、海茅はほんのり頬を染めた。
 あの日の海茅は、匡史の姿を見ただけで固まってしまった。あの時も今と同じくらい近かったのに、匡史の制服の匂いなんてこれっぽっちも覚えていない。自分の体臭を気にする余裕もなかった。

「あの時から俺たち、ずいぶん仲良くなったよね」
「……うん」

 へにゃりと表情を緩めた匡史につられて、海茅の顔もほころんだ。

「……勉強始める前に、ちょっとトイレ行ってもいい?」
「いいよ。トイレ行くとこまであの時と一緒だ」

 あはは、と笑ってから、海茅は汗拭きシートを引っ掴んでトイレに駆け込んだ。うがいをしながら体中の汗を拭き取り、制服をあおいで汗をできるだけ乾かす。
 できうることを全てし尽くした海茅は、先ほどよりは落ち着いて匡史と向かい合って座ることができた。これでやっと勉強に集中できる。

 笑われるんじゃないか、バカにされるんじゃないか、などと余計なことを心配してしまう海茅は、分からない問題があっても言い出せなかった。
 海茅は授業でもそんなことばかり考えてしまうので、分からないところを先生に質問できない。それがどんどん積みあがっていき、全教科の点数が一桁という惨状になってしまった。
 こうなってしまえばもう何も分かるはずがないと開き直った海茅は、授業を理解することを諦め、ぼうっと座っているだけの日々を過ごしていた。

 しかし、匡史がわざわざ海茅のために時間を割いてくれているとなっては話は別だ。
 それに、ここで諦めればコンクールの出場も諦めることになる。この三カ月間、自分なりに精一杯頑張ってきた練習を無駄にする上に、吹奏楽部員に迷惑をかけることはさすがにしたくない。

 今海茅がするべきことは、真剣に勉強に取り組むこと。それしかない。
 この勉強は海茅のためであり、吹奏楽部員と匡史のためでもある。
 そう考えるとぐっとやる気が上がった。

「ま、匡史君……。本当に基本的なことを聞いて申し訳ないんだけど……」

 海茅はビクビクしながら助けを求めた。
 質問された匡史は、やっと頼ってもらえて嬉しそうだ。

「なんでも聞いて。分からないところを放っておくのが一番いけないから」
「はい……。身に沁みております……」

 匡史は、海茅が簡単な問題でつまずいても優しく教えてくれた。今まで分かるはずがないと思っていた問題が、匡史と一緒だとなんとか答えを導き出せる。その時の達成感は、クラッシュシンバルでイメージ通りの音が響いたときの気持ち良さに少し似ていた。


 その日の夜、海茅は匡史と通話を繋いだまま勉強に取り組んだ。分からないことがあればすぐに聞けるし、サボることもできないしで、一人でもいつもより勉強が捗る。

《みっちゃん、ちょっと休憩したら? 初日から根詰めてたらもたないよ》
「うん、そうする~……。疲れたよぉ。勉強って体力使うんだねえ……」
《甘いもの食べるといいよ。あとは外の空気を吸うとか。ほら……》

 スマホの向こうから、窓を開ける音がした。

《今日は星が綺麗だよ。みっちゃんも見なよ》

 海茅も窓から顔を出し、夜空を見上げる。
 そこには、街灯が少ない田舎でしか見られない、一粒一粒がくっきりと輝く星空が広がっていた。
 疲れてゲッソリしていた海茅から笑みがこぼれる。

「シンバルだぁ……!」
《え、シンバル?》
「うん! シンバルってね、今日の星空みたいな音がするの!」

 匡史は小さな声で「シンバルの音かぁ」と呟き、しばらく静かになった。きっとまじまじと星空を見上げているのだろう。

《そっか、みっちゃんにはそう聞こえるんだ》

 海茅の心臓が縮こまった。変なことを言う人だと引かれたのではないかと、また頭の中で不安が囁く。

《俺にはね、しだれ花火に見えた》
「えっ?」
《実は前に、みっちゃんがシンバルの練習してるところ見たんだよね。そのとき、しだれ花火みたいだなって思った》

 海茅はキュッと目を瞑った。
 今まで匡史が、海茅の想像した言葉を吐いたことが一度もあっただろうか。
 海茅は匡史に、それとは正反対の言葉しかもらったことがない。

《でも、しだれ花火より今日の星空の方が綺麗だな》
「ううん。しだれ花火も同じくらい綺麗だよ。そう言ってもらえて嬉しい」
《そっか。良かった》

 二人はしばらく星空を眺めてから、勉強に戻った。
 じわっと滲む視界に、海茅はときどき目を擦らなければいけなかった。
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