32 / 71
3章
第31話 星空の下
しおりを挟む
一台の机を挟んで匡史と向き合う海茅は内心穏やかではなかった。
放課後にもかかわらず、洗いたての洗濯物の匂いがする匡史の制服。髪もふわふわさらさらだし、息はほのかにミントの香りがする。
海茅は勉強をしているふりをして、汗臭くないかこっそり自分の制服の匂いを嗅いだり、口に手を当てて口臭チェックをしたりして、小刻みに震えた。
(私絶対に臭いって……。どうしよう、バカな上に臭い女の子って思われてたらぁぁぁ……)
匡史は、全くペンが進んでいない海茅を覗き込んだ。
「ひっ」
「みっちゃん大丈夫? どこが分からない?」
(顔が近い匡史君の顔が近いやばい息止めなきゃ息臭いって思われちゃう。質問に答えようものなら私の口臭がダイレクトに匡史君の顔にかかってしまうそんなの無理。離れたいけど動いたら風が起きて私の体臭が匡史君のところに流れちゃう可能性が……。ダメだ、動けない……!)
固まって一言も話さない海茅を見て、匡史はクスッと笑った。
「わ、デジャヴ」
「……?」
「初めて話した時も、みっちゃん今みたいに固まってたよね」
その時のことを思い出し、海茅はほんのり頬を染めた。
あの日の海茅は、匡史の姿を見ただけで固まってしまった。あの時も今と同じくらい近かったのに、匡史の制服の匂いなんてこれっぽっちも覚えていない。自分の体臭を気にする余裕もなかった。
「あの時から俺たち、ずいぶん仲良くなったよね」
「……うん」
へにゃりと表情を緩めた匡史につられて、海茅の顔もほころんだ。
「……勉強始める前に、ちょっとトイレ行ってもいい?」
「いいよ。トイレ行くとこまであの時と一緒だ」
あはは、と笑ってから、海茅は汗拭きシートを引っ掴んでトイレに駆け込んだ。うがいをしながら体中の汗を拭き取り、制服をあおいで汗をできるだけ乾かす。
できうることを全てし尽くした海茅は、先ほどよりは落ち着いて匡史と向かい合って座ることができた。これでやっと勉強に集中できる。
笑われるんじゃないか、バカにされるんじゃないか、などと余計なことを心配してしまう海茅は、分からない問題があっても言い出せなかった。
海茅は授業でもそんなことばかり考えてしまうので、分からないところを先生に質問できない。それがどんどん積みあがっていき、全教科の点数が一桁という惨状になってしまった。
こうなってしまえばもう何も分かるはずがないと開き直った海茅は、授業を理解することを諦め、ぼうっと座っているだけの日々を過ごしていた。
しかし、匡史がわざわざ海茅のために時間を割いてくれているとなっては話は別だ。
それに、ここで諦めればコンクールの出場も諦めることになる。この三カ月間、自分なりに精一杯頑張ってきた練習を無駄にする上に、吹奏楽部員に迷惑をかけることはさすがにしたくない。
今海茅がするべきことは、真剣に勉強に取り組むこと。それしかない。
この勉強は海茅のためであり、吹奏楽部員と匡史のためでもある。
そう考えるとぐっとやる気が上がった。
「ま、匡史君……。本当に基本的なことを聞いて申し訳ないんだけど……」
海茅はビクビクしながら助けを求めた。
質問された匡史は、やっと頼ってもらえて嬉しそうだ。
「なんでも聞いて。分からないところを放っておくのが一番いけないから」
「はい……。身に沁みております……」
匡史は、海茅が簡単な問題でつまずいても優しく教えてくれた。今まで分かるはずがないと思っていた問題が、匡史と一緒だとなんとか答えを導き出せる。その時の達成感は、クラッシュシンバルでイメージ通りの音が響いたときの気持ち良さに少し似ていた。
その日の夜、海茅は匡史と通話を繋いだまま勉強に取り組んだ。分からないことがあればすぐに聞けるし、サボることもできないしで、一人でもいつもより勉強が捗る。
《みっちゃん、ちょっと休憩したら? 初日から根詰めてたらもたないよ》
「うん、そうする~……。疲れたよぉ。勉強って体力使うんだねえ……」
《甘いもの食べるといいよ。あとは外の空気を吸うとか。ほら……》
スマホの向こうから、窓を開ける音がした。
《今日は星が綺麗だよ。みっちゃんも見なよ》
海茅も窓から顔を出し、夜空を見上げる。
そこには、街灯が少ない田舎でしか見られない、一粒一粒がくっきりと輝く星空が広がっていた。
疲れてゲッソリしていた海茅から笑みがこぼれる。
「シンバルだぁ……!」
《え、シンバル?》
「うん! シンバルってね、今日の星空みたいな音がするの!」
匡史は小さな声で「シンバルの音かぁ」と呟き、しばらく静かになった。きっとまじまじと星空を見上げているのだろう。
《そっか、みっちゃんにはそう聞こえるんだ》
海茅の心臓が縮こまった。変なことを言う人だと引かれたのではないかと、また頭の中で不安が囁く。
《俺にはね、しだれ花火に見えた》
「えっ?」
《実は前に、みっちゃんがシンバルの練習してるところ見たんだよね。そのとき、しだれ花火みたいだなって思った》
海茅はキュッと目を瞑った。
今まで匡史が、海茅の想像した言葉を吐いたことが一度もあっただろうか。
海茅は匡史に、それとは正反対の言葉しかもらったことがない。
《でも、しだれ花火より今日の星空の方が綺麗だな》
「ううん。しだれ花火も同じくらい綺麗だよ。そう言ってもらえて嬉しい」
《そっか。良かった》
二人はしばらく星空を眺めてから、勉強に戻った。
じわっと滲む視界に、海茅はときどき目を擦らなければいけなかった。
放課後にもかかわらず、洗いたての洗濯物の匂いがする匡史の制服。髪もふわふわさらさらだし、息はほのかにミントの香りがする。
海茅は勉強をしているふりをして、汗臭くないかこっそり自分の制服の匂いを嗅いだり、口に手を当てて口臭チェックをしたりして、小刻みに震えた。
(私絶対に臭いって……。どうしよう、バカな上に臭い女の子って思われてたらぁぁぁ……)
匡史は、全くペンが進んでいない海茅を覗き込んだ。
「ひっ」
「みっちゃん大丈夫? どこが分からない?」
(顔が近い匡史君の顔が近いやばい息止めなきゃ息臭いって思われちゃう。質問に答えようものなら私の口臭がダイレクトに匡史君の顔にかかってしまうそんなの無理。離れたいけど動いたら風が起きて私の体臭が匡史君のところに流れちゃう可能性が……。ダメだ、動けない……!)
固まって一言も話さない海茅を見て、匡史はクスッと笑った。
「わ、デジャヴ」
「……?」
「初めて話した時も、みっちゃん今みたいに固まってたよね」
その時のことを思い出し、海茅はほんのり頬を染めた。
あの日の海茅は、匡史の姿を見ただけで固まってしまった。あの時も今と同じくらい近かったのに、匡史の制服の匂いなんてこれっぽっちも覚えていない。自分の体臭を気にする余裕もなかった。
「あの時から俺たち、ずいぶん仲良くなったよね」
「……うん」
へにゃりと表情を緩めた匡史につられて、海茅の顔もほころんだ。
「……勉強始める前に、ちょっとトイレ行ってもいい?」
「いいよ。トイレ行くとこまであの時と一緒だ」
あはは、と笑ってから、海茅は汗拭きシートを引っ掴んでトイレに駆け込んだ。うがいをしながら体中の汗を拭き取り、制服をあおいで汗をできるだけ乾かす。
できうることを全てし尽くした海茅は、先ほどよりは落ち着いて匡史と向かい合って座ることができた。これでやっと勉強に集中できる。
笑われるんじゃないか、バカにされるんじゃないか、などと余計なことを心配してしまう海茅は、分からない問題があっても言い出せなかった。
海茅は授業でもそんなことばかり考えてしまうので、分からないところを先生に質問できない。それがどんどん積みあがっていき、全教科の点数が一桁という惨状になってしまった。
こうなってしまえばもう何も分かるはずがないと開き直った海茅は、授業を理解することを諦め、ぼうっと座っているだけの日々を過ごしていた。
しかし、匡史がわざわざ海茅のために時間を割いてくれているとなっては話は別だ。
それに、ここで諦めればコンクールの出場も諦めることになる。この三カ月間、自分なりに精一杯頑張ってきた練習を無駄にする上に、吹奏楽部員に迷惑をかけることはさすがにしたくない。
今海茅がするべきことは、真剣に勉強に取り組むこと。それしかない。
この勉強は海茅のためであり、吹奏楽部員と匡史のためでもある。
そう考えるとぐっとやる気が上がった。
「ま、匡史君……。本当に基本的なことを聞いて申し訳ないんだけど……」
海茅はビクビクしながら助けを求めた。
質問された匡史は、やっと頼ってもらえて嬉しそうだ。
「なんでも聞いて。分からないところを放っておくのが一番いけないから」
「はい……。身に沁みております……」
匡史は、海茅が簡単な問題でつまずいても優しく教えてくれた。今まで分かるはずがないと思っていた問題が、匡史と一緒だとなんとか答えを導き出せる。その時の達成感は、クラッシュシンバルでイメージ通りの音が響いたときの気持ち良さに少し似ていた。
その日の夜、海茅は匡史と通話を繋いだまま勉強に取り組んだ。分からないことがあればすぐに聞けるし、サボることもできないしで、一人でもいつもより勉強が捗る。
《みっちゃん、ちょっと休憩したら? 初日から根詰めてたらもたないよ》
「うん、そうする~……。疲れたよぉ。勉強って体力使うんだねえ……」
《甘いもの食べるといいよ。あとは外の空気を吸うとか。ほら……》
スマホの向こうから、窓を開ける音がした。
《今日は星が綺麗だよ。みっちゃんも見なよ》
海茅も窓から顔を出し、夜空を見上げる。
そこには、街灯が少ない田舎でしか見られない、一粒一粒がくっきりと輝く星空が広がっていた。
疲れてゲッソリしていた海茅から笑みがこぼれる。
「シンバルだぁ……!」
《え、シンバル?》
「うん! シンバルってね、今日の星空みたいな音がするの!」
匡史は小さな声で「シンバルの音かぁ」と呟き、しばらく静かになった。きっとまじまじと星空を見上げているのだろう。
《そっか、みっちゃんにはそう聞こえるんだ》
海茅の心臓が縮こまった。変なことを言う人だと引かれたのではないかと、また頭の中で不安が囁く。
《俺にはね、しだれ花火に見えた》
「えっ?」
《実は前に、みっちゃんがシンバルの練習してるところ見たんだよね。そのとき、しだれ花火みたいだなって思った》
海茅はキュッと目を瞑った。
今まで匡史が、海茅の想像した言葉を吐いたことが一度もあっただろうか。
海茅は匡史に、それとは正反対の言葉しかもらったことがない。
《でも、しだれ花火より今日の星空の方が綺麗だな》
「ううん。しだれ花火も同じくらい綺麗だよ。そう言ってもらえて嬉しい」
《そっか。良かった》
二人はしばらく星空を眺めてから、勉強に戻った。
じわっと滲む視界に、海茅はときどき目を擦らなければいけなかった。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
ホスト科のお世話係になりました
西羽咲 花月
児童書・童話
中2の愛美は突如先生からお世話係を任命される
金魚かな? それともうさぎ?
だけど連れてこられた先にいたのは4人の男子生徒たちだった……!?
ホスト科のお世話係になりました!
妖精の約束
鹿野 秋乃
児童書・童話
冬の夜。眠れない少年に母が語り聞かせた物語は、妖精の郷を救った王子の冒険だった。昔どこかで誰かに聞いたかもしれないおとぎ話。図書館の隅で読んだかも知れない童話。大人になって、ふと思い出す。そんな懐かしい、お菓子のようなお話。
月神山の不気味な洋館
ひろみ透夏
児童書・童話
初めての夜は不気味な洋館で?!
満月の夜、級友サトミの家の裏庭上空でおこる怪現象を見せられたケンヂは、正体を確かめようと登った木の上で奇妙な物体と遭遇。足を踏み外し落下してしまう……。
話は昼間にさかのぼる。
両親が泊まりがけの旅行へ出かけた日、ケンヂは友人から『旅行中の両親が深夜に帰ってきて、あの世に連れて行く』という怪談を聞かされる。
その日の放課後、ふだん男子と会話などしない、おとなしい性格の級友サトミから、とつぜん話があると呼び出されたケンヂ。その話とは『今夜、私のうちに泊りにきて』という、とんでもない要求だった。
たった一度の、キセキ。
雨音
児童書・童話
「幼なじみとか、昔の話だし。親しくもないやつからこんなんもらったって、気持ち悪いだけだろ」
片思いする幼馴染み・蒼にラブレターを渡したところ、教室で彼が友達にそう言っているところを聞いてしまった宮野雛子。
傷心の彼女の前に現れたのは、蒼にそっくりな彼の従兄・茜。ひょんなことから、茜は雛子の家に居候することになる。突然始まった、片思いの人そっくりな年上男子とのひとつ屋根の下生活に、どぎまぎする雛子だが、
どうやら彼には秘密があるようで――。
極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。
猫菜こん
児童書・童話
私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。
だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。
「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」
優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。
……これは一体どういう状況なんですか!?
静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん
できるだけ目立たないように過ごしたい
湖宮結衣(こみやゆい)
×
文武両道な学園の王子様
実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?
氷堂秦斗(ひょうどうかなと)
最初は【仮】のはずだった。
「結衣さん……って呼んでもいい?
だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」
「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」
「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、
今もどうしようもないくらい好きなんだ。」
……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。
いつか私もこの世を去るから
T
児童書・童話
母と2人で東京で生きてきた14歳の上村 糸は、母の死をきっかけに母の祖母が住む田舎の村、神坂村に引っ越す事になる。
糸の曽祖母は、巫女であり死んだ人の魂を降ろせる"カミサマ"と呼ばれる神事が出来る不思議な人だった。
そこで、糸はあるきっかけで荒木 光と言う1つ年上の村の男の子と出会う。
2人は昔から村に伝わる、願いを叶えてくれる祠を探す事になるが、そのうちに自分の本来の定めを知る事になる。
守護霊のお仕事なんて出来ません!
柚月しずく
児童書・童話
事故に遭ってしまった未蘭が目が覚めると……そこは死後の世界だった。
死後の世界には「死亡予定者リスト」が存在するらしい。未蘭はリストに名前がなく「不法侵入者」と責められてしまう。
そんな未蘭を救ってくれたのは、白いスーツを着た少年。柊だった。
助けてもらいホッとしていた未蘭だったが、ある選択を迫られる。
・守護霊代行の仕事を手伝うか。
・死亡手続きを進められるか。
究極の選択を迫られた未蘭。
守護霊代行の仕事を引き受けることに。
人には視えない存在「守護霊代行」の任務を、なんとかこなしていたが……。
「視えないはずなのに、どうして私のことがわかるの?」
話しかけてくる男の子が現れて――⁉︎
ちょっと不思議で、信じられないような。だけど心温まるお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる