27 / 71
3章
第26話 噛み合わない二人
しおりを挟む
雨が続く季節になった。
海茅は湿気で膨らむ髪をまとめるために、地味なヘアゴムでぴっちりと結う。登校するだけで肌が汗ばみ、汗拭きシートで拭いても拭いても不快感は収まらない。授業が終わった頃には蒸れた靴下の臭いが気になり、上履きを脱いで音楽室に入るのが帰りたくなるほど嫌だった。
基礎を真面目にするようになってから、海茅のサスペンドシンバルの音が格段に良くなった。
海茅に頼まれて音のチェックをしていた段原先輩も、満足げに口元を緩めている。
「うん! 粒も揃ってるし良い音鳴ってる。やっぱり海茅ちゃんはシンバルの響かせ方が上手だね」
「ありがとうございます! 今までは、響かせたい音はイメージできても、手が思うように動かなくて上手くいかなかったんです。でもスネアスティック練習をちゃんとし始めてから、手じゃなくて耳に集中できるようになりました!」
「それにしても、どうして急にスネアスティック練習に打ち込むようになったの? 今まではずっとイヤイヤしてたのに」
段原先輩の質問に、海茅は苦笑いをしながら答える。
「えっと、管楽器の人たちも、退屈でしんどいロングトーン練習頑張ってるじゃないですか。だから私も頑張ろうって思えて」
「確かに、ロングトーン練習は大変そうだもんね」
「ほら、スティック練習は叩いてる間も息はできますし。ロングトーンに比べたら全然苦しくはないなって考えると、何を甘えたことを言ってるんだろう私、ってなって」
「そんなふうに思う必要はないんだけど……。でも、海茅ちゃんが基礎練習に前向きになってくれてよかったよ」
コンクール曲の楽譜を渡されて約三カ月が経った。
今では暗譜もして、合奏でもそれなりに合わせられる程度には上達した。かといって演奏の質はまだまだなので、海茅の課題は山積みだ。
コンクールまであと約二カ月半。折り返しを過ぎてから顧問の指導が一層厳しくなった気がする。管楽器への指導なんて、海茅では到底分からないような難しい注文ばかりしていた。
その日の合奏は、フルートパートがたくさん注意されていた。
顧問の求める表現を音に乗せられず何度もやり直しをさせられた明日香は、自主練の時間になっても珍しくしょんぼりと椅子に座っていた。
海茅は明日香の耳に入らないよう、コソッと段原先輩の耳元で囁く。
「先輩。今日のフルート、そんなに悪かったですかね……?」
「うーん、悪くはなかったと思うんだけど」
「じゃあどうして、あんなにフルートにキツく当たるんでしょう……」
段原先輩はキョトンとして答えた。
「どうしてって、フルートに期待してるからだよ。今年のフルートはレベルが高いから」
「上手だったら普通怒られないんじゃないですか?」
段原先輩は首を横に振り、顧問について教えてくれた。
顧問はある有名な指揮者の孫弟子で、本来、侭白中学校のような弱小吹奏楽部にいるにはもったいないほどの音楽性の持ち主なのだそうだ。そのため、基本的には部員のレベルに合わせて指揮を振っているらしい。
「でも、今のフルートなら、顧問が求めている音楽を表現できるんじゃないかって思ったんだと思う。だから求める音楽のレベルが上がって厳しくなったんじゃないかな」
そういわれると、初めての合奏以降、海茅は顧問にほとんど注意されたことがなかった。それは海茅の演奏が問題ないからだと思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
(期待されてないってこと? なんかそれ、ムカつく……)
海茅に沸々と練習意欲が湧いてきた。彼女は鼻息を荒げてクラッシュシンバルを引っ掴む。
自主練をする前に、海茅はクラッシュシンバルを持ったまま明日香の前で仁王立ちした。
「如月さん!」
駐輪場で気まずい雰囲気になったっきり、二人は言葉を交わしていなかった。
明日香は突然海茅に呼ばれ、体を強張らせる。
「ど、どうしたの彼方さん……?」
「今日、たくさん怒られて落ち込んでるの?」
「う、うん……」
明日香の目がじんわり滲んでいる。余程堪えているようだ。
海茅は仁王立ちしたまま、音楽室の端を顎で指した。
「ちょっと話せる?」
「あ……うん」
のろのろとフルートを椅子に置いた明日香を、海茅は音楽室の隅まで連れていく。
海茅が口を開く前に、明日香が勢いよく頭を下げた。
「彼方さん! この前は本当にごめんなさい!」
「えっ、なんのこと?」
「彼方さんがフルートしたかったことも知らずに、あんな話聞かせたこと。ずっと謝らなきゃと思ってたのに、怖くてずっと言い出せなくて……。本当にごめんなさい」
海茅はそんなことすっかり忘れていた。確かにあの時は腹が立ったが、引きずるようなことでもないと思っていた。何より校外学習があったので、匡史のことで頭がいっぱいになり、明日香の言葉は隅に追いやられていたのだ。
それなのに、明日香は一カ月以上もこのことを気にしていたようだ。
海茅は、この世の終わりのような表情を浮かべている明日香に両手を振る。
「気にしないで!? 私忘れちゃってたくらいだし」
「でも、私だったらきっと一生恨むレベルの発言しちゃったから……」
「いや全然そこまでじゃなかったよ!?」
いくら海茅が許そうとしても、明日香の気が収まらないようだ。これ以上話しても終着点がないと察した海茅は、慌てて本題に移った。
「先輩に聞いたんだけど、如月さんが顧問にたくさん怒られたのって期待されてるからなんだって」
海茅は段原先輩が言っていたことを明日香に話した。
しかし明日香は納得できていないようだ。
「ううん。私が下手だからだよ」
海茅の顔がひくついた。たとえそのままの意味だったとしても、明日香がこれを言ったら嫌味にしか聞こえない。
「だって私、今日全然上手く吹けなかったもん」
「……如月さんって意外とネガティブなんだね。そんな上手なのに」
本題も二人が頷ける答えは導けなさそうだ。
海茅は立ち上がり、クラッシュシンバルの練習をすることにした。
海茅は湿気で膨らむ髪をまとめるために、地味なヘアゴムでぴっちりと結う。登校するだけで肌が汗ばみ、汗拭きシートで拭いても拭いても不快感は収まらない。授業が終わった頃には蒸れた靴下の臭いが気になり、上履きを脱いで音楽室に入るのが帰りたくなるほど嫌だった。
基礎を真面目にするようになってから、海茅のサスペンドシンバルの音が格段に良くなった。
海茅に頼まれて音のチェックをしていた段原先輩も、満足げに口元を緩めている。
「うん! 粒も揃ってるし良い音鳴ってる。やっぱり海茅ちゃんはシンバルの響かせ方が上手だね」
「ありがとうございます! 今までは、響かせたい音はイメージできても、手が思うように動かなくて上手くいかなかったんです。でもスネアスティック練習をちゃんとし始めてから、手じゃなくて耳に集中できるようになりました!」
「それにしても、どうして急にスネアスティック練習に打ち込むようになったの? 今まではずっとイヤイヤしてたのに」
段原先輩の質問に、海茅は苦笑いをしながら答える。
「えっと、管楽器の人たちも、退屈でしんどいロングトーン練習頑張ってるじゃないですか。だから私も頑張ろうって思えて」
「確かに、ロングトーン練習は大変そうだもんね」
「ほら、スティック練習は叩いてる間も息はできますし。ロングトーンに比べたら全然苦しくはないなって考えると、何を甘えたことを言ってるんだろう私、ってなって」
「そんなふうに思う必要はないんだけど……。でも、海茅ちゃんが基礎練習に前向きになってくれてよかったよ」
コンクール曲の楽譜を渡されて約三カ月が経った。
今では暗譜もして、合奏でもそれなりに合わせられる程度には上達した。かといって演奏の質はまだまだなので、海茅の課題は山積みだ。
コンクールまであと約二カ月半。折り返しを過ぎてから顧問の指導が一層厳しくなった気がする。管楽器への指導なんて、海茅では到底分からないような難しい注文ばかりしていた。
その日の合奏は、フルートパートがたくさん注意されていた。
顧問の求める表現を音に乗せられず何度もやり直しをさせられた明日香は、自主練の時間になっても珍しくしょんぼりと椅子に座っていた。
海茅は明日香の耳に入らないよう、コソッと段原先輩の耳元で囁く。
「先輩。今日のフルート、そんなに悪かったですかね……?」
「うーん、悪くはなかったと思うんだけど」
「じゃあどうして、あんなにフルートにキツく当たるんでしょう……」
段原先輩はキョトンとして答えた。
「どうしてって、フルートに期待してるからだよ。今年のフルートはレベルが高いから」
「上手だったら普通怒られないんじゃないですか?」
段原先輩は首を横に振り、顧問について教えてくれた。
顧問はある有名な指揮者の孫弟子で、本来、侭白中学校のような弱小吹奏楽部にいるにはもったいないほどの音楽性の持ち主なのだそうだ。そのため、基本的には部員のレベルに合わせて指揮を振っているらしい。
「でも、今のフルートなら、顧問が求めている音楽を表現できるんじゃないかって思ったんだと思う。だから求める音楽のレベルが上がって厳しくなったんじゃないかな」
そういわれると、初めての合奏以降、海茅は顧問にほとんど注意されたことがなかった。それは海茅の演奏が問題ないからだと思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
(期待されてないってこと? なんかそれ、ムカつく……)
海茅に沸々と練習意欲が湧いてきた。彼女は鼻息を荒げてクラッシュシンバルを引っ掴む。
自主練をする前に、海茅はクラッシュシンバルを持ったまま明日香の前で仁王立ちした。
「如月さん!」
駐輪場で気まずい雰囲気になったっきり、二人は言葉を交わしていなかった。
明日香は突然海茅に呼ばれ、体を強張らせる。
「ど、どうしたの彼方さん……?」
「今日、たくさん怒られて落ち込んでるの?」
「う、うん……」
明日香の目がじんわり滲んでいる。余程堪えているようだ。
海茅は仁王立ちしたまま、音楽室の端を顎で指した。
「ちょっと話せる?」
「あ……うん」
のろのろとフルートを椅子に置いた明日香を、海茅は音楽室の隅まで連れていく。
海茅が口を開く前に、明日香が勢いよく頭を下げた。
「彼方さん! この前は本当にごめんなさい!」
「えっ、なんのこと?」
「彼方さんがフルートしたかったことも知らずに、あんな話聞かせたこと。ずっと謝らなきゃと思ってたのに、怖くてずっと言い出せなくて……。本当にごめんなさい」
海茅はそんなことすっかり忘れていた。確かにあの時は腹が立ったが、引きずるようなことでもないと思っていた。何より校外学習があったので、匡史のことで頭がいっぱいになり、明日香の言葉は隅に追いやられていたのだ。
それなのに、明日香は一カ月以上もこのことを気にしていたようだ。
海茅は、この世の終わりのような表情を浮かべている明日香に両手を振る。
「気にしないで!? 私忘れちゃってたくらいだし」
「でも、私だったらきっと一生恨むレベルの発言しちゃったから……」
「いや全然そこまでじゃなかったよ!?」
いくら海茅が許そうとしても、明日香の気が収まらないようだ。これ以上話しても終着点がないと察した海茅は、慌てて本題に移った。
「先輩に聞いたんだけど、如月さんが顧問にたくさん怒られたのって期待されてるからなんだって」
海茅は段原先輩が言っていたことを明日香に話した。
しかし明日香は納得できていないようだ。
「ううん。私が下手だからだよ」
海茅の顔がひくついた。たとえそのままの意味だったとしても、明日香がこれを言ったら嫌味にしか聞こえない。
「だって私、今日全然上手く吹けなかったもん」
「……如月さんって意外とネガティブなんだね。そんな上手なのに」
本題も二人が頷ける答えは導けなさそうだ。
海茅は立ち上がり、クラッシュシンバルの練習をすることにした。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
イケメン男子とドキドキ同居!? ~ぽっちゃりさんの学園リデビュー計画~
友野紅子
児童書・童話
ぽっちゃりヒロインがイケメン男子と同居しながらダイエットして綺麗になって、学園リデビューと恋、さらには将来の夢までゲットする成長の物語。
全編通し、基本的にドタバタのラブコメディ。時々、シリアス。
極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。
猫菜こん
児童書・童話
私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。
だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。
「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」
優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。
……これは一体どういう状況なんですか!?
静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん
できるだけ目立たないように過ごしたい
湖宮結衣(こみやゆい)
×
文武両道な学園の王子様
実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?
氷堂秦斗(ひょうどうかなと)
最初は【仮】のはずだった。
「結衣さん……って呼んでもいい?
だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」
「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」
「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、
今もどうしようもないくらい好きなんだ。」
……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。
王女様は美しくわらいました
トネリコ
児童書・童話
無様であろうと出来る全てはやったと満足を抱き、王女様は美しくわらいました。
それはそれは美しい笑みでした。
「お前程の悪女はおるまいよ」
王子様は最後まで嘲笑う悪女を一刀で断罪しました。
きたいの悪女は処刑されました 解説版
理想の王妃様
青空一夏
児童書・童話
公爵令嬢イライザはフィリップ第一王子とうまれたときから婚約している。
王子は幼いときから、面倒なことはイザベルにやらせていた。
王になっても、それは変わらず‥‥側妃とわがまま遊び放題!
で、そんな二人がどーなったか?
ざまぁ?ありです。
お気楽にお読みください。
お姫様の願い事
月詠世理
児童書・童話
赤子が生まれた時に母親は亡くなってしまった。赤子は実の父親から嫌われてしまう。そのため、赤子は血の繋がらない女に育てられた。 決められた期限は十年。十歳になった女の子は母親代わりに連れられて城に行くことになった。女の子の実の父親のもとへ——。女の子はさいごに何を願うのだろうか。
笑いの授業
ひろみ透夏
児童書・童話
大好きだった先先が別人のように変わってしまった。
文化祭前夜に突如始まった『笑いの授業』――。
それは身の毛もよだつほどに怖ろしく凄惨な課外授業だった。
伏線となる【神楽坂の章】から急展開する【高城の章】。
追い詰められた《神楽坂先生》が起こした教師としてありえない行動と、その真意とは……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる