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クリームパン

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 本願くんに家出の件を切り出した翌朝。
 俺は鍋を手に持っていた。昨晩アクアパッツァが入っていた鍋だ。
 本願くんがいつ家に帰る気なのかわからなかったが、昨日の雰囲気からすると今日帰ってもおかしくはない。たぶん本格的な部屋の片づけでまた来るとは思うけど、鍋くらい返しておこうと思ったのだ。いや、本当は昨晩洗って返せばよかったのだが、どうにもあの重い空気をまとう本願くんを鍋の返却だけで騒がせるのは気が引けた。

「そうだ、餞別で何かあげられるものは……」

 棚を漁って、いくつかストックされていたお菓子を取る。大したものはないが、ないよりはいいかと鍋に入れて玄関を出ると、ガサッと音がした。見れば、部屋のドアノブに大きな紙袋が下がっている。中には俺が本願くんにあげたトレーナーとスウェット、ダッフルコートが入っていた。

(あげたのに……。律儀な子だ)

 しかし、この返品があったということは、本願くんはすでに実家に帰っているに違いない。一応インターフォンを鳴らしてみたが、誰も出てこず気配もしなかった。

「……昨日返しておけばよかった」

 反省しながら鍋と一緒に部屋に戻り、朝ごはんを用意する。用意するとは言っても、安売りしていた5個入りクリームパンを袋から取り出すだけだ。甘くておいしい家計の味方を口に突っ込みながら、本願くんから返された服たちを取り出す。コートなんてあげたばっかりで、着ている姿を見たのは数回だった。

(ほんとに帰ったんだな、本願くん)

 寒々しいハッピーコーポより確実に暖かい実家に帰るべきではあったはずなので前向きに送り出すのが筋なのだが、正直寂しい。本願くんといると自分も高校生に戻ったようで楽しかったな、とアンニュイになりながら袋の中身をすべて出すと、底に交換日記がいた。自然消滅することなくいいペースで交換できていたので、結構ページが埋まっている。
 思い出を味わおうとノートをめくると、スマホが震えた。坂下からの電話だった。

「もしもし?なに、どした」
『あ、朝っぱらから悪い。竹原んちに俺の指輪ないかなと思って。今部屋探してるんだけど見当たらないんだよ』
「指輪~?こないだ来た時、そんなもの付けてたっけ」
『付けてたよ、銀の細いやつ。彼女とおそろいのなんだけどさ、さっき「なんで指輪付けてないの」って言われて……』

 途中から、坂下の声が潜められる。大方、彼女がシャワーに行っている間にでも慌てて電話してきたのだろう。

「お前、彼女に言われてやっと指輪なくしたことに気づいたのか。うわぁ~怒られるぞ」
『だから本格的に怒られる前に見つけようとしてんだって……!ちょっと緩くて外れそうだったから仕舞ってる、とか適当言って凌いでんだぞこっちは!』
「それが人にものを頼む態度か」
『ごめんなさい、指輪探してほしいです』

 切り替えの早い坂下を笑いつつ、俺は散らかっている部屋をガサガサを漁り始める。脱いだ服がいたるところに置かれ、空のペットボトルが転がっている部屋で、細身の指輪を探すなんて無謀だなとすぐに思った。

「洗面所で外したりした?」
『いや、酔ってたしわからん。こういうのって大抵あり得ないところで見つかるよね』
「なんでちょっと他人事なんだよ」

 あり得ないところねえ、と俺は冷蔵庫の中やクローゼットも見てみたが指輪は見当たらない。靴の中にあるとか?と、靴箱──正確には狭い玄関に無理やり置いたシューズラックを覗いた。傘が立てかけられ、靴じゃないものも置かれ、割と悲惨な状態のラックを少し動かすと、パサッと冊子が落ちた。抽象的な絵が描かれた冊子だ。ラックの後ろに引っかかっていたらしい。

(なんだっけ、これ)

『竹原。どう、なんか見つかった?』

 俺が黙ったので気になったのか、坂下が急かすように言ってきた。

「うん。怪しい冊子見つけて、今から読もうとしてた」
『おい、どうでもいいもの見てないで指輪探してくれって~』

 悲嘆な声を出してくる坂下に促され、俺は冊子をキッチンに置いてラックに置いてある靴の中を見た。さすがにないだろ、と思いながら上から順に見ていく。

「う~ん。マジで見当たらないわ」
『ええ~どうしよう。お前んち以外で心当たりないんだよ』
「ウチ来てから日も経ってるし、会社とか別の場所で落としたんじゃないの?」
『いや、あの指輪は会社行くときは付けてない。というか、彼女と会うとき以外は付けてなかった。竹原と飲んだ日、昼間は彼女と会ってたから付けっぱなしだったんだよ』

 彼女と会うときしか指輪を付けてなかったのに、彼女に言及されるまでなくしたことに気が付かない坂下を擁護するなら、アクセサリーに興味ゼロなのにペアリングに付き合ってあげていて彼女想いかもしれない。

(なくして気づかない時点で彼女想いではないか)

 途中から探す手を止めて壁に寄りかかりながら考えていると、坂下が「そうだ!」と何か思い出した声をした。

『あの高校生くんは?隣に住んでるあの子。なんか知らないかな、指輪について。駐車場で拾ったとか』
「あ~本願くんね。残念ながら本願くんはもういないんだよな」
『え、引っ越した?』
「いや違う。身寄りがなくて1人暮らしって聞いてたんだけど、家出だったらしくて実家に帰った。俺、偶然お父さんに会ってさ。事情聞いたんだ」
『なんだそれ、すごいな。どういう経緯で?』

 指輪より本願くんの話に興味を示した坂下に、簡単に事情を説明した。
 デリバリー中に、偶然本願というユーザーから依頼が来て、それが本当に本願くんのお父さんだったこと。本願くんは何か月も前に家出をしていて、お父さんは帰ってきてほしいと心配していたこと。高校は行っておらず、休学になっていること。
 俺の話を聞いた坂下は、『そっか~……』とまず息を長く吐いた。反応が難しい話題なのは確かだ。

『本当にそんなことあるんだな。すごい偶然。でもさ、こういうのって……なんていうか、どうしたらいいのかわかんないよな。ちょっとヤバいパターンだったらどうしようとか』
「ヤバいパターン?」
『もちろん家出少年なら親御さんのところに戻った方がいいけど、家出の理由にもよるっつーか。逃げるしかない事情があったりさ』

(逃げるしかない、事情)

 ふと昨晩の本願くんの表情が蘇ってきて、胸がざわついた。

「でも、本願くんは自主的に帰ったんだよ。無理やり連れて行かれた、とかじゃなくて」
『いやなに、この前テレビでそういう特集観たから気になっただけ。虐待されてた子が親から逃げて家出しても、結局保護されれば本人の意思関係なく家に戻されちゃうっていう──』

 虐待。
 家出に引き続き、また俺が想定できていなかった言葉だった。

「虐待って……もし本願くんもそういう可能性があったら……だったら、俺が原因で帰ることになっちゃったわけだよな。俺に家出がバレた時点で、帰るしかない。帰らなければ俺は警察に相談しただろうから、結局本願くんは保護されて家に連れ戻されることになる。どっちにしろ結果は同じで──」

 言いながら、自分の声が徐々に焦っていくのに気づく。
 家出に至った経緯はわからないけど、俺の知る本願くんは元気で真面目でいい子だった。素行が悪いわけでも、ひねくれているわけでも、心を病んでいるわけでもない。そして、彼の実家は確実に金銭的余裕があり、彼の父親は息子の帰りを願っている。表面上では、家出の余地などない。それなのに本願くんは家出をしていた。その事実が頭をぐるぐると回る。

『……なんか心当たりあるのか?本願くんに事情聞かされたとか』

 俺の焦りに気づいたのか、坂下の声が堅くなった。
 事情は聞かされていないけど、彼のSOSを見逃していたのかもしれないと俺は逸る気持ちのまま部屋を見て、ローテーブルに置かれたノートを見つけた。交換日記だ。元々悩みを書いてほしいと思って始めたものだった。最後に本願くんから返ってきたということは、何か書いてあるかもしれない。
 俺は玄関から大股で戻ってノートを手に取った。その時ラックに引っかかっていた傘にぶつかって傘が倒れた。傘の中からは指輪が出てきたが、俺はそれよりも日記に何か書いてないか確かめることしか頭になかった。
 焦りながらページをめくって、新しい日記を見つけた。昨日の日付だ。
 書いてある内容は以下だった。


20××/12/9 担当:本願

今日でこの交換日記もおしまいですね。やってみると楽しくて、もっと続けたかったです。

竹原さんにたくさんウソをついてしまってごめんなさい。竹原さんが会ったのは僕の父で、蒸発なんてしていません。母は以前話した通り、離婚して家を出て行っています。他に頼る親族がいないのは本当です。
父とは仲が悪く、限界が来て家出をしてしまいました。もっと良い解決方法があったとは思うのですが、僕には逃げ出すことしかできませんでした。でも、今度は父と話し合ってみようと思います。

竹原さんにウソをつくのはもう嫌なので、もう少し話を続けさせてください。

宗教の勧誘、この辺多いですよね。僕は基本知らない来客を無視していたので逃れていましたが、竹原さんのところには色々来たかと思います。そのうちの1つに『万物救済会』という新興宗教があります。
18年ほど前に、起業に失敗した男がやけくそで立ち上げた宗教です。最初は全然盛り上がりませんでしたが、男に子どもが生まれ、その子どもに救済の力があるという売り出し方をしたところ急激に信者が増えました。
内容としては、その子どもをどのような形であれ助ける──つまり救済すると、何倍にもなって幸福が返ってくるというものでした。男はその子どもの親として教祖の地位を確立し、またその子どもだけではなく様々なものを救済することが現世と来世での己の救いにつながるという設定を作りました。それで、『万物救済会』は一定の信者を獲得し、教祖が富裕層となるには十分な利益を生み出し続けています。

『万物救済会』──僕の父親が運営している宗教です。僕は力があるとされた子どもで、生まれた時から宗教に利用されていました。
いきなりこんなことを言われて、驚いちゃいますよね。自分で書いてても創作みたいです。でも、残念ながら事実で、僕が父と不仲なのも宗教が原因です。

父から逃げていてもどうにもならないのはわかっていました。だから今度こそ頑張ってみます。
竹原さんと過ごせた時間は人生で1番楽しかったです。もう会えないと思うけど、もしまた会えたら、一緒に思い出のカエルを食べましょう!🐸


 俺は全部読み終わってもう1度頭から読み直し、もつれる足でキッチンの冊子を取りに行った。いつか来た、冊子を持つ男女2人組の信者が今更鮮明に蘇る。
 冊子を開くと微笑む老若男女の写真と共に『救済をあなたと世界に──万物救済会』と書いてあった。
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