性奴隷を拒否したらバーの社畜になった話

タタミ

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 男が歩く度に床に血の跡ができていく。
 黒いスーツを着ているから初見ではよくわからなかったが、どうやら服も血塗れのようだった。これがイズキの上司だろうと、俺は直感で確信した。案の定、飛龍とその部下たちだけでなく、客には頭を下げないイズキまで軽く会釈していた。

「吉春さん、お疲れ様です。お早いお着きで」

 さっきまでイズキに暴言を吐いていた飛龍が頭を下げたまま言って、カウンターまでやってきた血塗れ男──吉春は無言のまま飛龍の頭を引っ叩いた。吉春の手は血塗れなので、飛龍の金髪が一部赤くなる。

「どうせお前がイズキに喧嘩売るだろうと思って、急いで片付けたんだよ。だから血拭く暇もなくてこの様」
「……すみません、出過ぎました」
「イズキ悪いね。コイツまだまだガキなんだ。許してやってよ、殺されちゃ困る」
「殺す気はありません。ガキでも志倉の次期当主ですから」

 イズキは平然と言って、持っていたナイフを元の位置に戻した。絶対に殺す気だったと思うが、イズキもこの吉春という男に逆らうつもりはないようだ。ガキと言われた飛龍はイズキを睨んでいるも、暴言は吐かない。これだけで吉春がふたりにとって相当なポジションであることがわかった。

「よかったな飛龍。次期当主だからできた命拾いだぞ」

 そう言って吉春はジャケットを脱ぐと飛龍に投げた。血を吸って重いらしく、質量を感じる音を立ててジャケットが飛龍の腕に収まる。

「さてと。仕事の話をしに来たんだけど、こんな時間に俺たち以外の客は来ないだろうし、一緒に飲もうよ。イズキ」
「……承知しました」

 答えるのと同時に、先ほど作っていたカクテルと今一瞬で注いだウィスキーのグラスを盆に乗せて、イズキがカウンターから出て行く。なるべく目立たないように棒立ちしている俺の横を通り過ぎる時、イズキが声を潜めた。

「左下の棚からタオル持ってこい」
「あ、はい……!」

 吉春に血を拭かせるためかと確認する時間もなく、俺が棚に顔向けた間にイズキは吉春が座るソファ席へと歩き出していた。急いで棚からタオルを取り、足早にイズキを追いかける。白いタオルを歩きながら畳み直して、イズキの背後へと立った。
 イズキは慣れた手つきでコースターを並べ、果実の添えられた赤いカクテルを吉春の手元へ置く。

「こちら、ブランブルです」
「座って座って。最近どう。エルムンドは繁盛してる?」
「特に変わりなく……といったところですが、少々ザコ客が増えて客単価が落ちてますね」

 吉春に前の席へ座るよう促されたイズキが、ソファに身体を沈めて脚を組む。吉春より先に自分のウィスキーに口をつける様は堂々としていた。力関係は吉春がトップで次期当主などと言われていた飛龍が№2、そしてバーテンダーのイズキはそれ以下だと思うのだが、着席が許されたのはイズキのみで飛龍とその他部下たちは吉春の後ろに立ったままだ。
 あんなにイズキに喧嘩を売っていた飛龍はこの状況でどんな気持ちなんだとチラッと見てしまったら、がっつり目が合って睨まれた。

「テメエいつまでそこ突っ立ってんだ。失せろや」
「も、申し訳ありません。お邪魔いたしました」

 睨まれるだけではなく飛龍に凄まれ、俺は声を裏返させながら謝った。タオルを吉春に渡していなくなろうと、恐る恐る吉春の横からタオルをテーブルに置く。

(こういうの、黙ったまま腰低くしてればいいよな……?)

 マナーがわからないので心臓をバクバクさせながら、ゆっくりテーブルから離れる。イズキから特に何も言われなかったので、これでよかったのだとホッとして踵を返そうとした時、イズキと話しながらタオルに手を伸ばした吉春が動きを止めて俺を見た。

「あれ、従業員雇えたんだ。みんな死んで困ってたよな」

 吉春の両目が俺を捉えて、俺は踵を返すのをやめて直立した。吉春は表情も口調も優しいままだったが、意味の分からない恐怖を感じて身体が固くなる。いや、血塗れの男なんて普通に恐怖でしかないのだが、それだけではない内側から滲む恐ろしさがあった。

「はい。5人一気に死にましたからね。仲介の三ツ木が使えないので長らく人手不足で、どうにか確保できたのがソイツです」
「おいおい、人身売買で三ツ木よりできるやつはいないだろ。オーダーが無理難題か、お前が嫌われてるだけじゃないのか」
「オーダーに答えられない上に好き嫌いで仕事に差が出るなら、結局使えませんよ」

 三ツ木さんに厳しいことを言うイズキは肩をすくめて、吉春は笑っている。イズキと吉春の関係性は単なる上司と部下というよりも、どこか本当に仲が良さそうな親密な空気を感じた。事情は知らないが、とりあえず急に殺し合いなどにはならなそうだ。

(というか、三ツ木さんってこっちの業界じゃ人身売買の人なんだな……)

 俺が知っている三ツ木さんの悪行と言えば、闇金とそれに伴う事故死を含むとんでもない取り立てというのがダントツだったが、人身売買で有名なら闇金と死亡事故など彼女にとって軽犯罪レベルなのだろう。なにより事故死として人の命を奪うより、生きた人間の人生を破壊する人身売買の方が俺は重罪に思えた。

「ウェイターくんの名前は?」
「……吉春さんが次来る時には死んでいると思うのでお気になさらず」

 俺に興味を持ったらしい吉春がイズキに名前を聞いたが、イズキは俺のことなどどうでもいいという口調だった。俺としても、できるだけ吉春と関わりたくないのでこのまま話題が去るのを待とうとすると、吉春が再び俺を見てほほ笑んだ。

「ね、名前は?」
「!っす、須原幸太、です」

 本人から聞かれたら無視もできず、俺は反射的に自分の名前を答えた。イズキが面倒そうな顔をしたのが視界に入る。

「へえ、日本人なんだ。高級だな」
「日本人に価値が出るのは臓器売買か売春です。肉体労働じゃ買った値段に見合いません。アジア系なら韓国人がよかったんですけどね」
「どうせお前、『身長180㎝以上の日本語が堪能な身寄りのない健康で若い兵役済の韓国人』とか三ツ木にオーダーしてたんだろ。そんなやつすぐ見つかるわけがない」
「フルオーダーはそれですが、『身寄りなしの日本語話者』を最低条件に譲歩してやってましたよ」

 イズキはウィスキーを飲んで黙り、この話題を終わらせようとしているようだった。吉春もタオルで手の血を拭き始め、開放されるのだと緊張を緩めたら吉春が手を拭きながら口を開いた。

「ウェイターくん、最近店でイズキと仲良くしてた客は誰かな」

 空気が冷たくなるのを感じた。イズキの目が俺に向く。
 これが単なる世間話ではないというのが、俺にもわかった。
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