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 腹の底から言葉が漏れて、半分笑ってしまう。
 バカみたいなことを本気で言われると、脳の処理が追い付かない。なんで三ツ木さんはこの話を当たり前のように話しているのか、意味がわからない。嘉指を見ても見返されるだけで、不快感を示すわけでも何かフォローをしてくれるわけでもなく、抵抗している俺がおかしいのかと思われる空気が流れた。
 俺の頬から手を離して「そうですか」と三ツ木さんは眉を下げる。

「須原くんの人生に億以上の価値がつく、こんな機会は2度とないですよ。本来5万の価値もない経歴の人間ですし」

 三ツ木さんは流暢に俺を馬鹿にしながら、後ろに回って手の拘束に触れた。解放されるのかと淡い期待を持つと、嘉指が天井を見上げて耳を塞いだ。
 瞬間、俺の親指の爪に細くて長い何かが刺さった。

「う!アぁあー!あ、あぐっァ……!」
「暴れると危ないですから」

 心配していそうな声音をちゃんと出す三ツ木さんの吐息が俺の耳にかかり、逆らってはいけない人間に楯突いている現状を強烈に実感した。人の爪に何かを突き刺しながら、妊婦を労る看護師のような声を出す人間の元で、俺は長らく働いていたのだ。

「契約を飲んでくれれば指の手当てをして、綺麗な服に着替えていただいてそのままお客様のご自宅へとお送りします。もちろん別途報酬もお支払いしますし。お客様の元で生きるとなったら、はした金だと感じる金額でしょうけどね」

  爪に刺さっていた何かが抜かれて、俺の頭にポンと優しく手を置いた三ツ木さんは慈善事業でもしているかのような顔で俺の顎を撫でるように掴んだ。
 三ツ木さんの手には長いアイスピックが握られている。アイスピックから血が滴っている。俺の血だ。見せつけるように、三ツ木さんは俺の足の甲にアイスピックを当てた。

「ね、サインしてくれますか」
「ァ、アあっ待っ……ッ!」

 じわじわとアイスピックが肉に侵入してくる。痛いともやめろとも言えずに俺は迫り来る痛みに喘いだ。

「あら、良い声ですね。お客様もきっとお気に召します」
「っ……嫌、イヤだ、俺はッだって約束がちがう!」
「ああ、『約束』。確かにそうですね」

 三ツ木さんは口走った俺の唇を、恋人のように指先でつついた。

「でも、手っ取り早いですよ?今お金持ちに買われれば、それでいろんな呪縛から解放されるんです」
「俺、金は、ちゃんと返し続けますっ……!だから、ッお願い、します……!」
「おい、いい加減飲めって。これ以上抵抗してもなんの意味もねえぞ」

 耳を塞いでいた嘉指が、新しい煙草をくわえて腕を組んだ。言うことを聞かない子供を見るような目に喉が熱くなる。

「お前だったら引き受けるのかよ!?こんな、こんなのッ……!」
「須原!マジで言うこと聞かねえとホントに──」
「ホントに威勢がいいですね」

 花香るような笑顔で三ツ木さんはアイスピックを押し込んだ。自分の脚が自分のものではないように痙攣して暴れる。
 俺は痛みに叫んでむせて、体を折り曲げた。殴る蹴るではない、フィクションじみた暴行が俺の頭を混乱させる。

「うーん、残念ですが私の力量ではこれ以上やっても須原くんを説得できなそうですね。見ていて可哀想になってきちゃいました」

 俺が喚くのにも構わず引き抜いたアイスピックを床に放り投げて、三ツ木さんは白いスラックスからスマホを取り出した。

「ノウリくんを呼んでください」
『はい。只今ノウリ様をお呼びだししています』

 機械音が無機質に返す最中、嘉指が首を振りながらソファに座る。煙草をいじりながら俺を見て、僅かに口を動かした。
 それは「終わりだ」と言っているように見えた。

「あ、もしもし。ノウリくんですか」
『……用件は』
「24時間以内に片付けてほしい案件が1つ」
『殺しか』
「いえ、『はい』と一言言わせてほしい堅気の子が1人です」
『承知した』

 機械音より無機質な承諾が漏れ聞こえてくる。
 そして、俺の脚の痙攣が収まる前に能面のような顔の男がやって来たのだ。
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