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 倉庫に転がされる15時間前。
 俺はバイト先のビル──正しくはビルについたみすぼらしい看板──を眺めていた。
 新宿駅東口から歌舞伎町まで喧騒の中を歩き、路地を1つ2つ入ったところにこのビルは建っている。すぐそこは繁華街なのだが、そうとは思えないほど人通りはなく目立つものもない。周囲はテナント募集の貸しビルばかりで、ちらほらと何をやっているのかわからない事務所が入っているだけだ。酔っていたらどこがどこだかわからないほど似たような景色が並んでいる。誰1人としていない細く暗い道は薄気味悪い。
 しばらく看板を見つめていると、パチパチと接触の悪い音を立てて看板に電源が入った。豆電球がチカチカと点滅し、『愛doll』と読めるように並べられた蛍光灯もピンクに光りだす。この品の無い看板も店の場所をわかりやすくする、という面では大いに役立っていた。

「おい須原、何ボサッと突っ立てんだよ。早く上がって来い」

 3階部分の窓が勢いよく開け放たれ、顔面蒼白の男──嘉指かざしが顔を出した。この空間に似つかわしい、とんでもなく悪い顔色でニヤついている。

「あ、その前に自販機でタバコ買ってくれ。ちょうど切らしてんだよ」
「自分で買いに行ってよ、1階にあるんだから」
「うるせーなぁ。階段上がるついでに買うだけだろ」

 ものぐさ、とつぶやくと、忙しいんだよと上から声が降ってきて、俺は軽く睨むために目線を上げた。嘉指の右手に、携帯電話が握られているのが見える。何年も前から使っている古臭い黒のガラケーだ。

「本社から電話?今月売上ヤバいの?」

 俺が携帯を指差すと、嘉指は舌打ちをして窓枠にもたれかかり白い手を振った。

「超ヤベェんだよ。まぁ、いつもヤベェことに変わりはねぇけど、今月はマジでヤベェ」

 愚痴を真剣に聞く気もなくて「早く降参して許してもらえよ」と相槌代わりに返した。

「降参して許してくれるならとっくに降参してるっつーの。さっき三ツ木さん本人からメールが来た。今のうちに手を打たねぇとこれだ」

 嘉指はそう言って、首を切るジェスチャーをした。
 三ツ木さんというのは『愛doll』を経営する社長、つまり嘉指と俺の雇い主だ。三ツ木さんは社長として風俗以外にも不動産、融資事業などで手広く稼いでいるが、そのすべてが健全な経営ではない。不動産業は地上げ屋のことだし融資についてはほとんど闇金だ。堅気の看板を掲げてはいるが、幸せな人生の定義に『三ツ木さんと関わらないで済むこと』を入れたほうがいいくらいには不健全な人物だった。
 5年ほどの付き合いだが、俺は三ツ木さんと実際に会ったのは数回だけだ。そのたった数回で、三ツ木さんが人を殴るのを何度か見ていた。
 三ツ木さんの顔を思い返した時、見計らったように嘉指のケータイがけたたましく鳴った。嘉指は画面を見て、死んだペットを見たような顔になると、

「セブンスター買ってこい、5箱な」

 再び取り繕った笑顔で勢いよく窓を閉めた。
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