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20.ルシャナ
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今日は思いがけず、一日中楽しかった。
朝起きたときはこんなに充実した一日になるなど想像もしていなかった。なにせ、マンフリートとどう接したらいいのか、わからなくなっていたからだ。
結婚式の一日目に食べるといわれている花嫁の食事から始まり、町であんなに歓迎された。
帰ってみてればこれまた張り切った料理長の料理がふんだんに並べられていて、ルシャナは今日人生で最大に食べたと、いまやパンパンにはちきれそうに膨らんでいるお腹を擦っていた。
「ルシャナ様、何をしているんですか」
少々呆れ顔のチャドラに言われて、また服を捲ってお腹を擦っていたことに、我ながら苦笑する。
「だって、みてこれ。こんなにお腹がぽっこり出ているんだよ? ありえないよね?」
「いえ、誰だって食べ過ぎれば、そうなりますよ……ってまさか、一度もお腹一杯に食事したことがないのですか?」
頷くと大層驚かれ、そして涙ぐまれてしまった。
「王子様なのに、ずいぶんとひもじい思いをしていたんですね。わかりました! 僕が毎日たくさんの料理を運んできます。料理長にもいっておきますね! だってルシャナ様は食が細すぎるからそんなに体重が軽いんですよ。僕とそう身長は変わらないのに、重さがぜんぜん違うじゃないですか! まるで僕が太っているみたいですよ!」
ぽっちゃりしていると言ったら怒られそうなので黙ることにする。コロコロしていて、まさに小熊というイメージそのもので、可愛いと思うのだが、本人が一番気にしているようなので、敢えては言わない。
「でも、今日みたいなのが毎日続いたら、僕、きっと太りすぎて、この部屋から動けなくなって、そこのドアから出られなくなっちゃうよ」
「……いえ、さすがにそこまで食べさせたら、僕がマンフリート様に怒られてしまいますよ!」
「よかった……家畜みたいになったら、嫌われちゃうよね……いまでも、ちょっと距離があるし」
すると途端にチャドラが暗い顔をする。
「まだ……マンフリート様のしたことを怒っているのですか? 許せないですか?」
好きだからこそ、悲しくてしかたがないという気持ちは、いまだ継続中だが、別に怒っているわけではないし、きちんと直接お礼を言うべきだと思っている。
「そんなことないよ。大丈夫、なんとかするから」
ほんとですか~? という疑わしい声でチャドラは言うが、昨日だって歩み寄ろうと、がんばったのだ。マンフリートが寝静まっているのを確認してからという、姑息な手段ではあったが。
「そうですか~? まあ僕に言えることはひとつ。時間が経てば経つほど、自分の言葉を伝えるのは難しくなりますからね」
知ってか知らずか、まさに彼の言葉は的を射ている。
てきぱきと部屋を片付けて、チャドラは出ていった。
ベッドに横になり、買ってもらった琥珀色の石がはめられた綺麗な指輪を眺めていた。
贈り物をされたのは、生まれて初めてだ。
色違いの赤い指輪はマンフリートの指に着けられている。これは結婚指輪になるのだろうか。そうしたらいつか別れるときに返却しなければならないのかもしれない。他のものは返しても、これだけは初めて買ってもらったものだから、なんとか見逃してほしい。
それくらい、この指輪はすでにルシャナの中で特別な物になっていた。
買い物も出来たし、町の人たちともだいぶ話せた。
今日はかなり距離が縮まったように思える。ひとえにこのわだかまりは、ルシャナがマンフリートを受け入れないせいで、このような状況になっている。自分さえ妥協すれば、いますぐにでも表面上は仲のよい夫婦を演じることはできるだろう。
でもそれでは貰った命に値しない。
子供は別の女性に産んでもらう以外に方法はないだろう。そのときは悲しくても受け入れるしかない。自分が我慢すれば円滑に事が進むならそのほうがいいに決まっている。
今日街中で赤ちゃんを抱いているお母さんに出会った。あまりにも可愛いので抱かせてもらったら、なんと赤ちゃんは、熊耳だったのだ。驚いてこれは本物かと聞くと、みなは笑って当然だと答える。赤ちゃんのときだけ熊耳なのだそうだ。乳児から幼児に代わるときに人の耳になるのだという。
たとえ自分が女性だったとしても、こればっかりは熊の本性を持っていないルシャナには無理だろう。これを見ても領主という名門貴族のマンフリートの子供が熊ではないことは、由々しき事態なのではないだろうか。
堂々巡りになるが、やはりルシャナは早々に別れなければならない、もしくは日陰の身として、正妻が新しくやってくるまでの繋ぎ的役割なのだと、自分を納得させるしかない。
「お父様には、奥さんが四人いたし、立場は三番目の奥さんのお母様と一緒なのかな。ハーレムもあったみたいだし。でも僕の場合は一応正妻ということになるんだろうね。男なのにおかしいよね」
実際に覗いたことはない。他の兄たちは、どうだか知らないがルシャナには縁のないところだった。
「もしかして、マンフリート様もハーレムをどこかに隠し持ってたりして……あんなに男らしいから」
つくづく彼のことを何も知らないことに気づく。もし、持っていたら逃げ出してしまうかもしれない。すべてが自分の空想だ。本人に聞くのが一番早いのだろうが、もっとも知られたくない質問かもしれない。
「チャドラにそれとなく聞いてみるとか」
そんなどうしようもないことを考えていると、すでに夜中の一時を過ぎていた。
「……もう、寝たかな?」
扉の隙間からは明かりは漏れてこない。開ける前にここからでも確認できるのだなと、新発見になぜか心躍らせていた。
「音もしないし、ランプも消えているみたい」
夜の世界で魔力を燃料とする照明器具であるランプは必需品だ。ラジェールではもっぱら植物油を燃やすランプが主流だった。それに比べて燃料はタダだ。
ノースフィリアでランプに火を灯せないのは、ルシャナだけだろう。
夜目にも優しい燦然と輝く二つの月が、ルシャナの行く手を照らしてくれる。
なぜ月が二つあるのかと聞いたら、一つだと暗いでしょうと切り返されたとき、なるほどと思った。今ではこの眩しさにも結構慣れたと思う。
昨日と同じようにベッドにそっと近づく。
(いた! 寝てるのかな?)
そっとベッドに近づくと、今日は残念なことに向こう側を向いて寝ているのだ。少しだけと思い、回って彼の顔を見ると静かに寝息が聞こえているので、熟睡しているのだろう。
しかし、かなりベッドの端で寝ているので、ルシャナが横になるスペースがない。
(今日は、こっちの広いほうで我慢しよ)
四つん這いになり、そーっとマンフリートに近づく。
(背中には、毛がないんだね。全身毛むくじゃらかと思ったんだけど。すべすべしてそう。でも、すりすりとかしたら今度こそばれちゃうよね?)
これはルシャナだけの秘密の遊びだ。少しでもマンフリートへの免疫がつけばいいとか、そういうことは考えていない。ただ、そばにいたいのだ。なぜかは今は考えない。
とはいえ当初の目的はただ、お礼と非礼を詫たかっただけなのだ。しかしいつのまにか本来の目的を忘れて、すっかりマンフリートの寝顔に夢中なのだ。
いかに気づかれずに、マンフリートを観察するか。なんとも子供っぽいいたずらのような行為だが、ルシャナにとっては大胆かつ冒険なのである。
〝マンフリート様、命を救って頂きありがとうございます。面と向かって言う勇気がなくてごめんなさい〟
囁くように背中越しに言ってみた。すると、なんと! マンフリートがこちらに体を反転させて手をボスッと無造作に投げ出したのだ。
思わずその勢いで、ルシャナの体も飛び跳ねてしまった。
絶体絶命のピンチ!
ルシャナは、心臓が止まるかと思うほどの衝撃を覚え、息もできなかった。
しかし、静寂の中で聞こえてきたのは、マンフリートの驚く声ではなく、規則正しい寝息だった。
(……僕の言葉に反応したんじゃなくて……単なる寝返りっ)
しかしまだドキドキが止まらない。
どれくらいその格好で固まっていたのだろうか。それ以降まったく動かないマンフリートに安堵して、昨日と同じように、彼に触れないように投げ出した腕の下に寝転がってみる。
筋肉隆々の太い腕は、もしかしたらルシャナの両腕でもまだ足りないくらいの太さがあるように思える。触ったらきっとものすごく硬そうだ。
ぴくりともしないので、今度はうつ伏せになり、頬杖をつくと、もっとよくマンフリートの顔が見える。
いくらみても飽きないその顔を、ルシャナはずっと見つめていた。普段こんなに見つめていたらきっと怪訝に思われるだろう、もしくは何か言いたいことがあるのかと問われるに違いない。
夜中にこっそりと顔を覗くという、不埒な真似をしているのも、誰にも言えない秘密だ。
今日も十分に堪能したルシャナは、気づかれないうちにそっと部屋へ戻った。
朝起きたときはこんなに充実した一日になるなど想像もしていなかった。なにせ、マンフリートとどう接したらいいのか、わからなくなっていたからだ。
結婚式の一日目に食べるといわれている花嫁の食事から始まり、町であんなに歓迎された。
帰ってみてればこれまた張り切った料理長の料理がふんだんに並べられていて、ルシャナは今日人生で最大に食べたと、いまやパンパンにはちきれそうに膨らんでいるお腹を擦っていた。
「ルシャナ様、何をしているんですか」
少々呆れ顔のチャドラに言われて、また服を捲ってお腹を擦っていたことに、我ながら苦笑する。
「だって、みてこれ。こんなにお腹がぽっこり出ているんだよ? ありえないよね?」
「いえ、誰だって食べ過ぎれば、そうなりますよ……ってまさか、一度もお腹一杯に食事したことがないのですか?」
頷くと大層驚かれ、そして涙ぐまれてしまった。
「王子様なのに、ずいぶんとひもじい思いをしていたんですね。わかりました! 僕が毎日たくさんの料理を運んできます。料理長にもいっておきますね! だってルシャナ様は食が細すぎるからそんなに体重が軽いんですよ。僕とそう身長は変わらないのに、重さがぜんぜん違うじゃないですか! まるで僕が太っているみたいですよ!」
ぽっちゃりしていると言ったら怒られそうなので黙ることにする。コロコロしていて、まさに小熊というイメージそのもので、可愛いと思うのだが、本人が一番気にしているようなので、敢えては言わない。
「でも、今日みたいなのが毎日続いたら、僕、きっと太りすぎて、この部屋から動けなくなって、そこのドアから出られなくなっちゃうよ」
「……いえ、さすがにそこまで食べさせたら、僕がマンフリート様に怒られてしまいますよ!」
「よかった……家畜みたいになったら、嫌われちゃうよね……いまでも、ちょっと距離があるし」
すると途端にチャドラが暗い顔をする。
「まだ……マンフリート様のしたことを怒っているのですか? 許せないですか?」
好きだからこそ、悲しくてしかたがないという気持ちは、いまだ継続中だが、別に怒っているわけではないし、きちんと直接お礼を言うべきだと思っている。
「そんなことないよ。大丈夫、なんとかするから」
ほんとですか~? という疑わしい声でチャドラは言うが、昨日だって歩み寄ろうと、がんばったのだ。マンフリートが寝静まっているのを確認してからという、姑息な手段ではあったが。
「そうですか~? まあ僕に言えることはひとつ。時間が経てば経つほど、自分の言葉を伝えるのは難しくなりますからね」
知ってか知らずか、まさに彼の言葉は的を射ている。
てきぱきと部屋を片付けて、チャドラは出ていった。
ベッドに横になり、買ってもらった琥珀色の石がはめられた綺麗な指輪を眺めていた。
贈り物をされたのは、生まれて初めてだ。
色違いの赤い指輪はマンフリートの指に着けられている。これは結婚指輪になるのだろうか。そうしたらいつか別れるときに返却しなければならないのかもしれない。他のものは返しても、これだけは初めて買ってもらったものだから、なんとか見逃してほしい。
それくらい、この指輪はすでにルシャナの中で特別な物になっていた。
買い物も出来たし、町の人たちともだいぶ話せた。
今日はかなり距離が縮まったように思える。ひとえにこのわだかまりは、ルシャナがマンフリートを受け入れないせいで、このような状況になっている。自分さえ妥協すれば、いますぐにでも表面上は仲のよい夫婦を演じることはできるだろう。
でもそれでは貰った命に値しない。
子供は別の女性に産んでもらう以外に方法はないだろう。そのときは悲しくても受け入れるしかない。自分が我慢すれば円滑に事が進むならそのほうがいいに決まっている。
今日街中で赤ちゃんを抱いているお母さんに出会った。あまりにも可愛いので抱かせてもらったら、なんと赤ちゃんは、熊耳だったのだ。驚いてこれは本物かと聞くと、みなは笑って当然だと答える。赤ちゃんのときだけ熊耳なのだそうだ。乳児から幼児に代わるときに人の耳になるのだという。
たとえ自分が女性だったとしても、こればっかりは熊の本性を持っていないルシャナには無理だろう。これを見ても領主という名門貴族のマンフリートの子供が熊ではないことは、由々しき事態なのではないだろうか。
堂々巡りになるが、やはりルシャナは早々に別れなければならない、もしくは日陰の身として、正妻が新しくやってくるまでの繋ぎ的役割なのだと、自分を納得させるしかない。
「お父様には、奥さんが四人いたし、立場は三番目の奥さんのお母様と一緒なのかな。ハーレムもあったみたいだし。でも僕の場合は一応正妻ということになるんだろうね。男なのにおかしいよね」
実際に覗いたことはない。他の兄たちは、どうだか知らないがルシャナには縁のないところだった。
「もしかして、マンフリート様もハーレムをどこかに隠し持ってたりして……あんなに男らしいから」
つくづく彼のことを何も知らないことに気づく。もし、持っていたら逃げ出してしまうかもしれない。すべてが自分の空想だ。本人に聞くのが一番早いのだろうが、もっとも知られたくない質問かもしれない。
「チャドラにそれとなく聞いてみるとか」
そんなどうしようもないことを考えていると、すでに夜中の一時を過ぎていた。
「……もう、寝たかな?」
扉の隙間からは明かりは漏れてこない。開ける前にここからでも確認できるのだなと、新発見になぜか心躍らせていた。
「音もしないし、ランプも消えているみたい」
夜の世界で魔力を燃料とする照明器具であるランプは必需品だ。ラジェールではもっぱら植物油を燃やすランプが主流だった。それに比べて燃料はタダだ。
ノースフィリアでランプに火を灯せないのは、ルシャナだけだろう。
夜目にも優しい燦然と輝く二つの月が、ルシャナの行く手を照らしてくれる。
なぜ月が二つあるのかと聞いたら、一つだと暗いでしょうと切り返されたとき、なるほどと思った。今ではこの眩しさにも結構慣れたと思う。
昨日と同じようにベッドにそっと近づく。
(いた! 寝てるのかな?)
そっとベッドに近づくと、今日は残念なことに向こう側を向いて寝ているのだ。少しだけと思い、回って彼の顔を見ると静かに寝息が聞こえているので、熟睡しているのだろう。
しかし、かなりベッドの端で寝ているので、ルシャナが横になるスペースがない。
(今日は、こっちの広いほうで我慢しよ)
四つん這いになり、そーっとマンフリートに近づく。
(背中には、毛がないんだね。全身毛むくじゃらかと思ったんだけど。すべすべしてそう。でも、すりすりとかしたら今度こそばれちゃうよね?)
これはルシャナだけの秘密の遊びだ。少しでもマンフリートへの免疫がつけばいいとか、そういうことは考えていない。ただ、そばにいたいのだ。なぜかは今は考えない。
とはいえ当初の目的はただ、お礼と非礼を詫たかっただけなのだ。しかしいつのまにか本来の目的を忘れて、すっかりマンフリートの寝顔に夢中なのだ。
いかに気づかれずに、マンフリートを観察するか。なんとも子供っぽいいたずらのような行為だが、ルシャナにとっては大胆かつ冒険なのである。
〝マンフリート様、命を救って頂きありがとうございます。面と向かって言う勇気がなくてごめんなさい〟
囁くように背中越しに言ってみた。すると、なんと! マンフリートがこちらに体を反転させて手をボスッと無造作に投げ出したのだ。
思わずその勢いで、ルシャナの体も飛び跳ねてしまった。
絶体絶命のピンチ!
ルシャナは、心臓が止まるかと思うほどの衝撃を覚え、息もできなかった。
しかし、静寂の中で聞こえてきたのは、マンフリートの驚く声ではなく、規則正しい寝息だった。
(……僕の言葉に反応したんじゃなくて……単なる寝返りっ)
しかしまだドキドキが止まらない。
どれくらいその格好で固まっていたのだろうか。それ以降まったく動かないマンフリートに安堵して、昨日と同じように、彼に触れないように投げ出した腕の下に寝転がってみる。
筋肉隆々の太い腕は、もしかしたらルシャナの両腕でもまだ足りないくらいの太さがあるように思える。触ったらきっとものすごく硬そうだ。
ぴくりともしないので、今度はうつ伏せになり、頬杖をつくと、もっとよくマンフリートの顔が見える。
いくらみても飽きないその顔を、ルシャナはずっと見つめていた。普段こんなに見つめていたらきっと怪訝に思われるだろう、もしくは何か言いたいことがあるのかと問われるに違いない。
夜中にこっそりと顔を覗くという、不埒な真似をしているのも、誰にも言えない秘密だ。
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